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「分からん! まったくもって分からん! いったい何がどうなってるんだ、おい!」
何だか最近、同じようなセリフばかり聞いている気がする……などと思いながら、井崎は疲れの滲んだ顔を、室井に向けた。彼は井崎の存在に気付いているのかいないのか、余所の部署にノックもせず入ってきて、室内をうろついている。
「何が分からないんだ。聞くだけなら聞いてやってもいいぞ。まあ、話してみろよ」
気のない声をかけると、コーヒーや緑茶などの備品を置いてある棚をゴソゴソやっていた室井が、のんびりと振り返る。どうやら、コーヒーをたかりに来たらしい。
「おう、残ってたのか、井崎。よかった。帰ってたら呼び出そうと思ってたところだ」
「迷惑な話だな。で?」
スチール机の上に山積みにされた医学書を押しやり、自分も一息つこうかとマグカップに手を伸ばす。空だった。
「室井、俺の分も」
「嫌だね。お前、うるさいから自分でやれ」
自他共にコーヒーにはうるさい、という自覚はある。看護師が淹れてくれたコーヒーは黙って飲むが、室井が淹れたコーヒーには少なからず何か文句を言うという確信がある。井崎は黙って立ち上がった。
「昨日、あれから睦月教授と話したんだろ? 何か分かったか?」
コーヒーメーカーを起動させながら聞けば、室井は苦笑いを浮かべて首を振った。
「お前が帰った後は、お孫さんの自慢話に一時間ほど付き合わされて終わりだ」
「やれやれだな」
溜め息をつくと、室井は押し殺したような笑い声を上げる。
「こっちが聞いたことじゃなくて、自分が喋りたいことを喋るのは、お年を召された教育者にはよくあることさ。何事も根気よくやらなくちゃな」
そんなもんだろうか、などと思いながら肩の筋肉を揉み解していると、室井が手にしていた書類を抱えなおして、表情を改めた。
「例のサル。血液中から未認証ウィルスが発見されたらしい」
耳障りな音を立てているコーヒーメーカーをじっと見据えたまま、室井は単刀直入に告げてきた。井崎は無言を貫いた。
「しかし、サルが死んだのはウィルスのせいでは無さそうなんだ。野良犬に食い散らかされてたらしいから、正確なことは分からんのだが、脱水による衰弱死って話だ。発見場所が、生活排水が大量に溜まっている用水路の近くだったそうなんでね。で、肝心のウィルスの方は、まだいろいろ突きまわしてる真っ最中ってことだが」
室井はなみなみとコーヒーを注いだマグカップを、乱暴に机の上に置いた。少し零れたのが見えた。気付いたら拭かなければならない。よって、見なかったことにしておいた。
「それはともかく、問題は犬フィラリアが脾臓に食い込んでた例のヤツだ。大学病院に運ばれてきた患者のリストを送ってもらった。サルから見つかったウィルスとどう関係しているかは分からんが、全員、頭がイカれたような犬に噛まれているという報告がある」
見ろよ、と言われて、机の上を滑ってきたファックス用紙を受け取った。視線を落とす。
“二十四歳、女性、初診日は七月二十五日、既往歴は特になし。主訴は脾臓部分の違和感。レントゲン検査の結果、脾臓肥大と診断される。化学療法を用いて治療に当たったが、症状の改善は見えず。八月四日、肝障害の疑いが出てきたため脾臓摘出手術を適応。予後は良好で、手術から一週間後に退院”
“三十七歳、男性、初診日は七月二十八日、既往歴は特に無し。主訴は腹部不快感、全身の倦怠感、吐血。主治医の所見は全身に散らばった特徴的な紫斑、貧血、虚脱。内視鏡検査の結果、胃と十二指腸に出血箇所を確認。CT検査の結果、脾臓に犬フィラリアを確認。手術を適用することなく、入院から二日後に意識障害から呼吸器障害を経て、死亡退院。病理解剖の承諾は得られず”
“六十七歳、男性、初診日は七月三十一日、既往歴は高血圧と糖尿病。主訴は腹部不快感、全身の倦怠感、吐血。主治医の所見は全身に散らばった特徴的な紫斑、貧血、虚脱。内視鏡検査の結果、胃に出血を確認。レントゲン検査で脾臓にフィラリアが見つかり、翌日、脾臓の摘出手術を適用。予後は良好。十日後に退院”
“三十四歳、女性、初診日は八月三日、既往歴は喘息。主訴は腹部不快感、全身の倦怠感。主治医の所見は全身に散らばった特徴的な紫斑、貧血、虚脱。内視鏡検査で十二指腸に出血を確認。レントゲン検査で脾臓にフィラリアが見つかり、翌日、摘出手術を適用。予後は良好で、一週間後に退院。しかし、その三日後に救急外来に搬送され、CT検査の結果、大脳に血腫を伴った脳内出血を確認。開頭手術を行うも、意識は回復せず、今にいたる”
ファックスをざっと拾い読みし、井崎は軽く息をついた。
「全員に共通しているのは、消化管からの出血、貧血、虚脱、特徴的な紫斑ってところだな。ここから脾臓を摘出して、回復した例と血腫を伴った脳内出血で死亡退院する例に別れる。その違いは何なんだ?」
意見を求めて室井の方に視線を向ける。
「現時点では不明だ。だからさっきから何度も言ってるんだ。分からんって」
ファックスに、もう一度視線を落とした。だが、そこに書いてある以上のものは何も見えてこない。横で室井が息をつく。
「ただ、犬に噛まれたから必ずフィラリアに罹るかっていうと、そうでもないようだ。これはうちの例なんだが、外科外来を含めて、例の狂犬病を疑う犬に噛まれたって来院してきた患者は、今年に入ってから全部で十五名。そのうち、フィラリア症を発症したのは三名だ。その三名っていうのが、お前のところのヤンキー兄ちゃんと、深窓の美少年。それから、大野先生が担当した、DOA(搬送時死亡)の遠野久子さんってことなんだが……」
そう言って、室井はコーヒーを一気に飲み干した。
「現時点じゃあ何ともいえないよ。ましてや、なんで遠野久子さんがトキソプラズマなんかを併発したのか、なんてこともな」
コーヒーをデスクに戻し、室井は深々と息をつく。ややあって、彼は「それで」と、話題を変えてきた。
「それで、聞いたぞ。王子様のご機嫌はどうだ?」
「王子? ああ、あの子のことか」
すっかり例の症例に関する話題を終わらせてしまった室井を横目に、井崎はどう答えたらいいものかと首を捻った。
「井崎先生を直々にご指名だったそうじゃないか。大学病院に転院させるって喚いてた母ちゃんとも大喧嘩したって? モテるねえ、男に!」
「気色悪いこと言うなよ」
苦笑交じりに言ってから、井崎は改めて溜め息をつく。
「何なんだろうな、あの子。何を考えてるんだか、さっぱり見当もつかない。どうも苦手だな、ああいうタイプは。だいたい、何でこの病院がそんなにいいんだか。ああいうタイプは普通、親の前じゃあとことんいい子ぶってるもんだろ? まあ、大学病院が素晴らしい場所かって聞かれたら自信を持ってイエスとは言えないけどな」
室井はくつくつと笑った。
「まあ、看護師には大好評みたいだし、いいじゃねえか。昨日からナースステーションはテンション、高いぞお」
違いない、と短く答えた時、井崎のPHSが着信を告げた。ディスプレイに表示されていたのは高梨夢乃の名前だった。




