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「何ていうか、今日一日だけでどっと疲れたような気がするな。例えるなら、そうだな、五年分の書類仕事を一気に片付けたような、そんな一日だった……」
午後十時前の病理解剖室にて、回転イスを無駄に回転させながら、井崎は天井に向かって呟いた。
「女性の金切り声ってのは、いや、決して世の中の女性全般に対する偏見じゃないと思うんだが、なぜかこう……神経を疲れさせる……というか、なんというか……」
「そんな小せえこと言ってるようじゃあ結婚なんか難しいぞお、井崎。それよか、ほれ、もうじき時間だぞ」
パイプ椅子を引き寄せ、室井がどかりと腰を落とした。散らかった机の上に、タブレットを立てさせると、フェイスタイムで電話をかけ始める。しばらく呼び出し中の音が鳴り、ややあって、どこかで見たことがある顔が大写しになった。
「あ、どうも、お久しぶりです、教授。お忙しい中、わざわざありがとうございます」
立てかけた黒いタブレット端末に向かって深々と頭を下げる室井は、まるで遺影でも拝んでいるように見えた。一方、画面の中の顔は、菩薩のごとく、にこやかだ。
「こちらこそ、こんな時間になって悪かったね。そちらの先生は?」
「臨床医の井崎健治です。室井……先生とは高校まで同じでした」
室井に紹介される前に言ってしまうと、画面の中でにこやかな顔が更ににこやかになる。
「君が井崎君か。室井君から話は聞いているよ。大変、優秀で熱血な先生なんだって?」
「そうであるように努力しています」
「そうかそうか。ああ、遅くなってしまったね。寄生虫学が専門の睦月大輔です。どうぞよろしく」
画面越しでは握手はできないので、互いに会釈だけして紹介を終わらせた。そこへ、室井が割り込んでくる。
「ところで、教授。今はどちらにいらっしゃるんですか? 明らかに日本じゃあないですよね? アフリカですか?」
「自分で聞いておいて自分で答えを出すのは、昔から君の悪いクセだね、室井くん。まさしくその通り。広大なアフリア大陸のどこかにいるよ」
井崎は「そうですか……」と曖昧に返事をした。教授が日本にいないらしいことは、背景を見ていると嫌でも想像がついた。風に揺れるボロボロになった簡易テントの向こうには、終わりの見えない広大な大地が続いている。時折、興味深そうに覗き込んでくる顔は明らかに黒人ばかりだ。何より、画面の向こうは真っ昼間である。
「そちらは何時かな。時差が八時間だから……十時くらいかな。実はねえ、今、マラリアの研究に来ているんだよ。マラリアって知ってるかい?」
内心、「知ってるに決まってるだろう」と思いつつ、教授の嬉しくて仕方ないといった顔を見ていると、なぜか真面目に答えてやろうかという気になった。
「熱帯から亜熱帯にかけて広く分布する原虫感染症ですよね。人から人ではなく、マラリア原虫を持った蚊が人を刺すことで発症するという。三日熱マラリア、卵形マラリア、熱帯マラリアがあって、中でも熱帯マラリアは発病後、どんなに遅くとも五日以内に注射用キニーネ、もしくはアーテミシニン誘導体の注射か座薬を投与しない限り、こん睡状態から死に至ります。世界で最もありふれた寄生虫症であり、最も死亡者が多い感染症だったはずです」
「素晴らしい! その通りだよ!」
画面の向こうで、教授が大袈裟なほどに喜んでいた。その時、井崎は意外にも睦月教授のファッションセンスがなかなかであることに気付いた。
「聞いていた以上に優秀だね、君は! WHOによれば、2010年度の感染者数は約2億1600万人。死亡者数は約65万人にのぼると言われている。ところが、その世界で最も死亡者数が多い感染症に対し、我々人類は未だにワクチンを開発できずにいるんだよ。誤解の無いように言っておくとだね、もちろんワクチンの開発には力を注いださ。ところが、マラリア原虫が簡単に抗原変異を起こしてこちらが誘導したワクチンをいともあっさり無効にしてしまうんだから、やってられないよ」
「そうですか……」
なぜマラリアという感染症が未だ世界から撲滅されずにいるのか、医療の道を目指すものならば必ず一度は講義を聞いているから知っている。だが、教授は一向にマラリアから話題を変えようとしない。画面の中から、真剣な顔がこちらを見つめている。
「おかげで、この国際化の時代、マラリア流行地に入る先進国の人間には予防薬を内服してもらうしかないのが現状なのさ。ところが! マラリアを運ぶ蚊を退治するために人類がDDT(殺虫剤)を開発すれば、蚊はあっさりとDDTに対して耐性をつけてしまった。同じように、人類が悪夢の薬として名高いクロロキン(マラリア予防薬)を開発すれば、クロロキン耐性を獲得したマラリアが現れる。なにくそ! と人類がクロロキン耐性マラリアのためにメフロキンを開発すれば、今度はメフロキン耐性マラリアが現れる。負けてたまるか! と開発したのがドキシサイクリン。この流れで行くと、必ずドキシサイクリン耐性も現れるだろう」
「はあ、そうですね……」
「おまけにドキシサイクリンは渡航する一週間前から服用を始め、マラリア汚染地域を出た後も一ヶ月は服用し続けなければならないというデメリットがある。困ったことに、汚染地域を出た途端にマラリアの恐怖を忘れてしまう人がとても多いんだよ。井崎くん、なぜ汚染地域を出た後も一ヶ月は予防薬を飲み続けなければならないか、分かるかい?」
「分かりますよ。マラリア原虫が肝臓にいるからでしょう?」
蚊によって人間の体内に入り込んだマラリア原虫は、それから数分前後で肝臓に入り込む。そして肝細胞の中で増殖する。肝細胞の中で充分に成熟すると、今度は肝細胞を破って血管に流出し、今度は赤血球の中に入り込む。
赤血球から出てきたマラリア原虫が脳血管を詰まらせることで人は死にいたるわけだが、肝細胞の中で成熟し、原虫が再び血管内に現れるまで約一ヶ月前後と言われている。だからこそ、流行地から出た後も予防薬の内服は必要不可欠なのだ。
「知っているなら、けっこうだ!」
言いながら、画面の中の睦月教授は何やら手元をゴソゴソやっている。何かと思えば、何やらメモのようなものを現地人のスタッフに渡していた。
「ワクチンが効かないマラリアというこの感染症! 流行地の大人には感染者はほとんどいないんだがね、新生児の死亡率は未だに高いよ。よって、ワクチンの開発は急務であることに違いはない。ところで、今サラッと言ったが、なぜ流行地の大人に感染者がほとんどいないんだろう? 君はこの質問に答えられるかな?」
言われて、井崎はほんの少し考えこんだ。言われてみれば、自分はその正確な理由を知らない。免疫がある、と言ってしまえばそれまでだが、複雑な免疫系のことを考えるとあっさりと答えは免疫にある、と言う気にもなれなかった。
「すみません。勉強不足です」
その瞬間、睦月教授はこれ以上ないほど幸せそうな顔をした。井崎が内心イラッとしたのを知ってか知らずか、睦月教授は満面の笑みで身を乗り出してくる。
「その答えが、フィラリアなんだよお」
井崎が思わず眉を寄せたとき、黙ってやりとりを聞いていた室井が苦笑いしながら話に入って来た。
「いつもながら、随分と長い前置きでしたね」
まったくだ、と思ったが黙っておいた。
「いきなり本題に入ったらつまらないだろ? ところで、なぜフィラリアなのかという話だったねえ。まあ、見て分かるように、フィラリアというのは多細胞生物で、マラリアは名前に書いてあるように原虫という単細胞生物なわけさねえ。多細胞生物と単細胞生物では、人間の免疫は全く正反対の反応をするのだよ」
いきいきとした顔で語りながら、教授は現地スタッフらしい黒人の男から、ビーカーに入った得体の知れない液体を受け取っていた。ご満悦そうな教授の背後で、黒人の男がニヤッと笑って去って行った。
「免疫系の基本に話は戻るけれど、人間の免疫は、かなり大雑把だが細胞性免疫と液状免疫に分けられるね。ちなみに元気な時は中間状態だよね? マラリア原虫なんかが感染すると、細胞性免疫が誘導され、逆にフィラリアなんかに罹ると、液状免疫が誘導される。と、いうことは、マラリアに罹る前にフィラリアに罹っちゃってる人っていうのは、当然、免疫状態が液状免疫に傾いてしまっているわけだねえ。つまり、細胞性免疫の状態で分泌される接着因子が分泌されていないってことになるわけだ。マラリア原虫が脳症を引き起こす原因っていうのは、言ってみれば原虫が細胞性免疫によって分泌された接着因子によって、毛細血管の中に引っ付いてしまうことが原因なんだから。要するに?」
「フィラリア患者はマラリアに感染しても症状が出ない」
「そういうこと」
井崎がそろそろ本格的にウンザリし始めたころ、画面の中で、教授は大きく頷いていた。
「学会の中には、この免疫の働きを利用してマラリアのワクチンを作れないものかと奮闘している人もいるよ。成功すればノーベル賞ものだね」
「そんな話よりも」
教授の講義が面倒臭くなってきた井崎は、彼が次の単語を喋り出す前に本題を突きつけることにした。
「室井から話は聞いていると思いますが、最近、日本で犬フィラリアが人間の脾臓に寄生するという症例が報告されているんです。この症例について専門家のご意見を伺いたいのですが」
「え? 分からないよ、そんなこと」
あっさり言われて、井崎は思わず絶句した。
「まあ、話くらいは聞いているけどね。何だったかな。確か、患者に共通しているのはフィラリアの所見がある犬に噛まれたということだったねえ。犬に噛まれてフィラリアに罹った人なんて、今まで聞いたことないねえ」
だから専門家のアンタに聞いているんだ、とは思っているだけで口には出せない。どうしたものかと悶々としている井崎を余所に、教授はどこまでもあっけらかんとしていた。
「放っておいて大丈夫だと思うけど? だって遺伝子が変異してるって言ったって、しょせん犬のフィラリアだろう? 放っておいたらそのうち死ぬよ。問題ない、問題ない」
井崎はどう答えたらいいものか、二の句が告げられずにいた。
「それにしても、最近の日本はあまりいい傾向じゃないよね」
そんな井崎に構わず、教授は溜め息混じりに語り始めた。
「孫から聞いた話なんだがねえ、去年の話なんだけど。夏だから流しソーメンでもやろうって話になったらしいんだよ。ああ、この場合、流しソーメンとフィラリアの間には何の関連性もないよ。ただ見た目が似ているっていうだけでねえ。それで、ソーメンを流して夏を満喫しようって話だったかなあ。で、八割は賛成したんだって。ところが、残り二割が反対した。その理由は何だと思う? 汚いから、だと。とても信じられないね!」
「はあ……」
「他人が素手で触った食材を口に入れるなんて、汚くって耐えられないってことさ。そういう子たちは、余所のお母さんが握ってくれたおにぎりなんかも食べられないそうだよ。サンドイッチもダメ、それどこか他人が作った食事全般がダメだって連中もいる! そのくせねえ、有機栽培野菜っていう理由で回虫症の危険も顧みず、ナマのままよく洗いもせずに食べてしまう。そう言えば、聞いたよ、井崎くん」
「はい?」
「回虫症の患者が運ばれてきた時、総合医療センターは上へ下への大騒ぎだったそうじゃないの。回虫ごときに」
「ごっ……」
反射的に言い返してしまいそうになったが、大人の理性で必死にそれを押し留めた。画面の中で、教授がニヤニヤ笑っている。
「まったく、最近の医師には困ったものだよ。僕の知り合いにねえ、それはそれは美しいスッチュワ~デスさんがいるんだがね」
キャビンアテンダントのことを、教授は独特の発音で呼んでいた。
「美しいお顔とは裏腹に、けっこうなゲテモノ好きでねえ、ヘビの生き血なんかも喜んでお飲みになるわけさ。ところがどっこい、ヘビの生き血を飲んでマンソン裂頭条虫なんていう虫に感染してしまったんだねえ。このマンソンってヤツはだね、ミジンコからカエル、カエルからヘビというライフサイクルで生きているんだよ。だから、人間の体の中に間違って入ってしまうと、当然うまく発育できないんだねえ。まあ、虫の方も居所が悪いって言うのか、居心地のいい場所を求めて、あちこちあちこち動き回ってくれちゃうわけさ」
井崎は最早何も言う気になれず、黙って聞いていた。
「見た目にはそう、コブのようなものがいきなり出来たような感じかなあ。それが突然、消える。寄生虫が動き回っているんだから、突然現れて、突然消えるなんて不思議でも何でもないだろ? ところが、最近の医者はマンソン裂頭条虫なんていう虫が存在していることさえ知らなかったらしいんだね。可哀想なスッチュワ~デスさんはねえ、なんと精神科への受診を勧められてしまったと嘆いていたよ。コブ取りじいさんの正体はマンソン裂頭条虫だね、まず間違いなく。何てことはない、ただナマのまま蛇を食べただけのおじいさんの話だったってことさ。ナマは当たるんだよ、ナマは! いろいろな意味でね。子供には聞かせられない童話の真実ってヤツさ」
井崎は大きく溜め息をつく。教授の講義が一向に終わる気配を見せないので、早々に自分から辞去することにした。
「すみませんが、教授、書類仕事が残っていますので、このあたりで……」
さっさと椅子から立ち上がる。背後のタブレットから教授が何やら言っていたが、聞こえないフリをして逃げ出した。それに、書類仕事が残っているのも本当だ。
さすが室井の師匠というだけあって、変わり者だ……などと思いながら医局に戻ると、研修医の大崎が壁に寄りかかって、項垂れていた。
「どうかしたのか?」
声をかけると、大崎は今にも泣きそうな顔を向けてきた。
「前に、回虫症の患者が来たことあったでしょ? あの時、俺、回虫なんて見るのも聞くのも初めてで……取り乱して……蓮見から未だにネタにされるんですよね……。エイリアンがどうかしたかとか、なんとか。なんか俺、自信なくなってきて……。大丈夫でしょうか、先生。俺、この先もちゃんと医者として、やっていけるんでしょうか……」
井崎は大仰なほど溜め息をついてみせた。
「そんなに落ち込むなよ、回虫ごときに」




