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「分かりません! まったく分かりません! 先生が何をおっしゃっているのか、さっぱり分かりません!」


 フロアの一画に設けられている面談室では、途切れることなく金切り声が響き渡っていた。


「今がどれほど大事な時期か、先生は全く分かっていらっしゃらないんです! 冗談じゃありません! 入院させることで、あの子の勉強がどれほど遅れると思ってらっしゃるんですっ? 夏休みにこそ学力の差が付くんですよ! せっかく難関の新学校に入学させたって言うのに! 学校の勉強に付いて行けなくなったらどうするんですかっ? こうしている間にも、他の子は塾に通ってしっかり勉強してるんですよ!」


 きっちりと夏物のスーツを着込み、綺麗に化粧を施した響也の母親は、どこか憑かれたような表情で一気にまくしたててた。何か言おうとしても、口を挟ませてさえ貰えない。


「何でこんなことになったんですかっ? いったい原因は何なんですかっ? 入院はいつまでかかるんですか!? 今、大事な夏期講習の真っ最中なんですよ! 途中で止めたら何の意味もありません! あの子の将来がかかっているんです!」


 顔立ちそのものは非常に美しい。年齢は四十かそこらだろう。経年による美貌の衰えこそあるものの、響也の母親は充分過ぎるほど美女と呼ぶにふさわしい容姿の持ち主だった。


 だが、こんな母親だけは嫌だな、と思わせるにも充分な性格の持ち主でもあった。


「いつごろ退院できるんですかっ? それによって塾の予定を変えなきゃならないんです! 学期末試験であの子……学年三十位なんて成績を取って来たんですよ! この夏に取り返さないと! 全国模試だってあの子、百番内に食い込むことさえ……!」


「まずは命を繋げることが最優先だと考えています」


 業を煮やした井崎は、強い口調で母親を遮った。一瞬、彼女の美しい瞳に困惑が宿る。


「その後のことは、お母さんと響也くんで話し合ってください。放っておけば、響也くんの命の保障はできません」


 母親の顔から血の気が失せていくのが見えた。今にも気絶してしまいそうな彼女を見て、井崎は父親に説明した方がいいだろうと判断した。この状態の彼女に何を言っても理解できないことは明白だ。


「そんなに……そんなに悪い病気なんですか……?」


「何とも言えません」


 どう説明したらいいものか、井崎は必死で言葉を探した。こういう時に専門用語を使うのは禁忌だ。だが、迷っている暇もない。こちらがあまりに言葉を選んでいると、患者は一足飛びに医師の力不足だと見なしてしまうのが常だ。


「響也くんの病気は、まだ正体が分かっていません。こちらとしては、精一杯の治療をさせていただいていますが、まだ見通しは立っていない状況です。ただ、何もしないで放っておくと確実に悪化します」


 母親の唇が歪む。今にも泣き出しそうだ、と思った瞬間、彼女の表情が憤怒に変わった。


「なら、転院させます」


 一瞬、言葉が出なかった。


「あなた、まだお若いじゃないですか! 経験不足も甚だしいわ! とても安心して子供を任せられません! もっと信頼できる医者のいる、もっと大きな病院に連れていきます! 失礼します!」


 飛び上がるような勢いでソファから立ち上がった彼女は、叩き付けるように面談室の扉を開けて出て行ってしまった。一気に力が抜けた井崎は、そのままソファに座り込み、友恵が淹れてくれた緑茶に手を伸ばした。


「すっごい教育ママさんですね」


 見たままの感想が聞こえてくる。目の前には、手をつけられることがなかった麦茶のグラスがそのまま残されていた。


「……天才の集団の中に放り込まれた秀才は、そりゃあ死ぬほど苦労することになるだろうさ。お母さんも大変だろうけど、本人の方がもっと大変だよ、きっとね」


 大きく息をつく。何ともいえない沈黙が流れた。ふいに脳裏に蘇ったのは、いつか高梨が救急に来た際「今度一緒に飲みに行こう」という話になった出来事だった。友恵は覚えているだろうか。もし覚えているなら……。


「なあ、友ちゃん」


 もし嫌でなければ、と言おうとしたその瞬間、廊下を走ってくる足音が響いた。悪い予感がする。


「先生、ちょっと来てください!」


「急患か?」


「いえ……、その響也くんとお母さんが、その……」


 急患よりもっと悪いことが起こっているようだ。病室での親子喧嘩、夫婦喧嘩は決して珍しくはないが、あの母親をもう一度相手にしなければならないと思うと気が滅入る。


「分かった。行くよ」


 諦めて覚悟を決める。無意識に友恵を振り返ると、彼女はすでに湯のみの片付けを始めていた。とことん望みは薄そうである。


「どうしてなのっ? もっと大きい病院があるのよ! そこに行った方がいいに決まってるじゃない! あなたの担当になった医者には会ったでしょうっ? あんな若い人、どうやって信用しろって言うのよ! だいたいあなた、早く治さないと夏期講習に出れないでしょうっ? どうしてお母さんの言うことが聞けないのっ?」


 まだまだ病室まで二十メートルはあるというのに、響也の母親の金切り声が聞こえてくる。廊下を行く入院患者たちも、訝しげな、それでいて迷惑そうな顔をしながら件の病室を振り返っていた。


「おばさん、うるせえよ。そこの優等生、別に耳が悪いってわけじゃないんだろお? だったらそんなにデカイ声を出さんでも聞こえるんじゃねえの?」


 真幸が、嘲るように言っている。明らかに火に油を注ぐ行為だ。勘弁してくれ、と心底思った。


「関係ないでしょう! 黙っていてちょうだい! この子は特別なの! あなたたちのような人間とは違うのよ!」


「おばさんの声がうるさいって言ってるんすよ。同じ病室に入院してるんだし、迷惑してるんだって。関係なくはないっしょ」


 今度は小野田隆弘だ。内心で頭を抱えつつ、井崎は足早に病室に向かった。


「ねえ! どうして急にそんなこと言い出すの!? どうして転院が嫌なのっ? お母さんが間違ったこと言ったことあるっ?」


「反抗期ってヤツじゃね?」


 隆弘の言葉に、真幸の笑い声が重なる。母親がプッツンしてしまう前に、井崎は何とか病室にたどり着くことができた。


「お母さん、落ち着いてください。他の患者さんの迷惑にもなります。面談室で話し合いましょう」


「ふざけないで! 何が話し合いよ! ロクな治療だってできないくせに! だいたい、どうしてうちの子がこんなふざけた人たちと同じ病室に入れられてるのっ?」


 笑いながら何か言いかけた真幸を咄嗟に身振りで制する。これ以上、母親を刺激して欲しくないというのが本音だった。


「こんなところ一秒だっていたくない! 早く支度しなさい!」


「……いやだ」


「いい加減になさい!」


 母親が母親なら息子も息子だ。意地の張り合いをするのは勝手だが、仲裁しなければならない井崎にしてみれば迷惑極まりない。


「この病院のどこがいいのっ?」


 まったくだ、という本音は心の内側に留めておく。


「井崎先生のこと、信用してるから。見ず知らずの人に任せたくない。先生の評判いいし」


 響也が意外なことを言った。ほんの少し彼に対する評価を改めた井崎だったが、母親の方は真逆の反応を示した。


「そんなことで……」


 その時、彼女の顔は怒りのあまりドス黒い赤に染まっていた。医者としての感性が、高血圧の可能性を指摘してくるが、さすがの井崎も今それを口にする勇気はなかった。


「あなたは、お母さんがお父さんに叱られてもいいのねっ? もう、勝手になさい!」


 ややあって、ついに母親が折れた。とりあえず、今日のところは。肩を怒らせ、ヒールを音高く鳴らしながら病室を出て行ってしまった。病室は途端に静寂が満たされる。こういう静寂は、本当に気まずい。井崎は、響也にかけるべき言葉を必死に探した。


「すみませんでした」


 井崎が何か言うより先に、響也がぽつりと呟いた。誰に向けられた謝罪なのか、下を向いたままだったので分からない。


「いいよ、いいよ。気にすんな。まあ、あんまり母ちゃんに心配かけんなよ、優等生」


「お前が言うなよ、真幸」


 ぴしゃりと言ってやると、真幸は声を上げて笑っていた。


 そんな彼らを一瞥し、響也の担当になった看護師が心配そうな顔で彼のベッドに歩み寄って行く。


「響也くん、大変だったね。そういえば、パジャマ無いでしょう? 病院のを持ってくるから、ちょっと待っててね」


 そう言って、看護師はカーテンを閉め、ナースステーションの方へと戻って行ってしまった。隆弘が手招きしている。


「なあ、先生。あの看護婦さんさあ、俺らにはすっげー厳しいんすよね。イケメンは得っすよね」


 つい笑ってしまった。彼女だって女性なのだからそんなものだろう。真幸も身を乗り出してくる。


「そうそう! こないだチンコのアレを抜く時、マジでキツくてさ、止めてくれーって叫んでんのに無視だぜ、無視! 大したモンぶら下げてないんだから我慢しなさい! とかぬかしやがるし! なのに今のあの猫なで声、聞いたかよ、おい」


 三人で声を抑えあって笑った時、病室のドアが開いて問題の看護師が顔を見せた。三人は同時に表情を改め、視線を逸らす。幸い、彼女の目に映っているのは新参の美少年ただひとりのようだった。

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