14 (手術中の描写あり)
相変わらず見事としか言い様のないハンドル捌きで救急車が滑り込んできた。後部ドアが開くと同時に、もう一台の救急車が到着する。同時に二名の重病患者を受け入れることを決断した総合病院の救急センターは、戦場さながらの緊迫感に満ちていた。
「落ち着いてください! 聞こえますかっ? 自分の名前が言えますかっ?」
「うるせえ! はなせ! どけ! 触るな!」
問いかける友恵の声には答えず、救急隊員たちに手足を押さえつけられた患者は、幾度と無く同じ言葉を繰り返し叫んでいた。肉体労働者に特有の汗の臭いが鼻腔を刺激する。
どこかのサッカー選手のように短くした金髪が目に付く。よく日に焼けていて、腕や肩にはしっかりとした筋肉も付いているが、その顔立ちには十代のあどけなさが確かに残っていた。
「どこが痛いですかっ? 苦しい場所はありますかっ?」
友恵が声をかけると同時に、少年はごぼっと音を立てて大量の血液を吐き出した。白いシャツの上の、すでに乾きかけていたどす黒い血の上に、新たなシミがべったりと付着していく。
「離せ! 触るな! 離せって言ってんだろうが!」
真っ赤に染まった口元から、苦しげな息が漏れていた。井崎はざっと患者の全身に視線を巡らせる。吐血している以外に、少年は右腕の内側をざっくりと切っているようだった。
「また活きのいいのが来たな」
処置室に運ばれ、あれよこれという間にあらゆる測定具を全身に貼り付けられ、血液を拭き取られている患者を見ながら、井崎は救急隊員の隊長をチラリと見やる。汗だくになった日焼けした顔が困惑気味に歪んだ。
その時、すぐ隣のベッドに、田村医師に付き添われてもうひとりの少年が運ばれてきた。あちらの方はすでに虚脱状態のようだ。ストレッチャーの上で、ピクリとも動かない。
「駆けつけた時には、こんな状態でした。吐血しながら、相方と殴り合いをしていたんです。腕の傷は、傍にあった喫茶店のガラスを叩き割ったのだと思われます。力付くで引き離して、救急車に乗せましたが、ずっとこんな調子です」
隊長に礼を言い、井崎はペンライトを手に患者にゆっくりと近付いた。患者を驚かせないために、必ず足元の方から近付くのは基本中の基本である。
「セデーション(鎮静)はどうされますか?」
横から聞いてくる看護師に、軽く首を振って答えた。
「よお、気合い入ってんなあ、兄ちゃん」
開口一番にそう話しかけると、周囲にいた看護師が僅かながら表情を歪ませてこちらを見てきた。敢えて気付かないフリを決め込む。患者は、はっきりとこちらを見ている。意識状態は悪くない。
「俺は井崎だ。この病院で医者やってる。なあ、ずいぶん具合が悪そうに見えるんだが、ちょっと診ていいか?」
看護師や研修医を振りほどこうとしていた腕からほんの少し力が抜けるのが見えた。こちらを罵る声が止まると、代わりに喘ぐような呼吸の音が聞こえてくる。素早く、ペンライトで瞳孔の様子を確認した。反応は正常だ。患者の抵抗は特にない。
「たくさん血ぃ吐いたもんだな。苦しかっただろ。血ぃ吐いたのは今日が初めてか?」
微かに首を振ったように見えた。ちらりとモニターに視線を向ける。血圧がかなり低い。消化器官のどこからか出血しているのは間違い無さそうだ。だが、表情は変えないように気をつけた。
「とりあえず名前を教えてくれないか? 自分の名前、言えるか?」
患者が何か言いかけるように唇を動かした。
「ああ、無理しなくていいよ。後でゆっくり聞くから。なあ、辛いだろ。ラクにしてろよ。後は任せろ。もう大丈夫だから」
そう言った瞬間、患者はストレッチャーの上で意識を失った。頬を叩いても反応なしだが、皮膚を強くつねると、僅かに顔を歪めた。意識レベルは二ケタ……。「急ぐぞ」と言葉にはせず周囲のスタッフたちに合図を送る。看護師たちが一斉に仕事を再開した。
看護師のひとりが裁ちバサミで患者の衣服を容赦なく切断していく。十数人に見守られる中、無影灯の光の下で、十代の多感な年頃の少年は、あっという間に全裸に剥かれてしまった。
意識があったならきっと耐え切れないだろう状況に置かれている少年を少しばかり気の毒に思いつつも、井崎もまた容赦なく全身の所見に視線を走らせた。外傷は右腕だけで、他に左脚の脛に化膿した傷があった。
他に、患者の全身には独特の「アザ」が散らばっている。
研修医の大崎に、技術の向上を兼ねて右腕の縫合をさせ、井崎は患者の胸に聴診器を当てた。心臓の音に異常はないが、呼吸器に若干、雑音が混じっている。続いて、触診を行っていく。
「消化管出血の可能性がある! CT!」
井崎の患者と同じく素っ裸に剥かれた相方の青年が、毛布に包まれ、田村の指示で運ばれていくのが見えた。井崎は周囲の喧騒など素知らぬ顔で、少年の顎に手をかけ、口を開けさせた。
若さゆえか、少年の歯は健康としか言い様が無い。ただ、今は血で真っ赤に染まっていた。咽喉部には炎症がある。体温は三十八度七分。血圧は低く、脈拍は速い。
「先生、EGD(上部消化管内視鏡、胃カメラ)用意しますか?」
友恵の質問に、井崎は頷いて返す。
「抗コリン剤(鎮痛剤)と、ついでに血液検査も」
「はい。麻酔科の先生に連絡はどうしましょう?」
「到着する前に終わらせるから、いいよ」
吐血した、という報告がある以上、消化管に何らかの異常があることは間違いない。待つ間もなく、友恵は準備を終えてしまう。
「ちょっと痛いですよ」
友恵が、意識のない患者に慣れた手つきで筋肉注射を行った。内視鏡を口から入れる際には、胃液の分泌を抑制し、胃や腸の運動と緊張を低下させるために鎮静剤を使うことが多い。
「ゆっくり息をして。体をラクにしてください。もう大丈夫ですからね。すぐに痛いの無くなりますよ。安心して」
友恵が、優しく穏やかな声音で患者に語りかけていく。
「友ちゃんは本当に白衣の天使だよなあ」
スタッフの手で、意識の無い患者の体を横向きにしながら悪戯心に駆られてそんなことを言ってみると、軽く睨まれてしまった。冗談が通じなかったらしい。
「さて、そろそろか」
気を取り直して、井崎はモニターを見ながらスティックを握った。モニターの数字が、患者が内視鏡検査に入れることを告げている。
「じゃあ入れていこうか」
咽喉部を過ぎ、食道を過ぎ、胃に到達する。意識があれば、咽喉部を通過する際に、何らかの反応をするかもしれないが、幸いなことに鎮静剤がよく利いているらしい。バイタルにも変化はなかった。
「咽喉部、問題なし。食道、問題なし。胃……ああ、出血がある」
友恵が気を利かせて、全裸で横たわっている少年の体に毛布をかけてやっていた。そんな彼女に、井崎はクリップ、とだけ告げた。友恵は黙って頷き、すぐに動いた。
「まさか胃潰瘍じゃないでしょう?」
じっとモニターを凝視していた大崎が、金髪の少年を見下ろし、笑いながら聞いて来た。いかにもストレスが少なそうな容姿にチラリと視線を向け、井崎もつい笑ってしまう。
「ストレス感度の低さはお前と同じくらいだろうな」
「言ってくれますね、先生」
大崎の軽口を適当に受け流し、井崎は胃内部の出血箇所をクリップで留めてしまうという処置を淡々とこなした。ちなみに、クリップは時間と共に自然に剥がれ落ち、そのまま便と一緒に排泄されるため、再処置の必要がない優れものである。
「処置はこれで終わりですか?」
「ひとまずは」
大崎の問いかけに頷き、井崎は内視鏡を素早く摘出した。
「このままMRI検査に運んでくれ。血管から出血していたんだ。原因を突き止めなければ同じことを繰り返すかもしれない」
「分かりました」
そして、井崎は処置室を出て行くストレッチャーを見送り、軽く息をついていた。
気になるのは、消化管からの出血よりむしろあの足の傷だった。傷の化膿具合からして、おそらくそこに傷を受けてからけっこうな時間が経過している。いつかの夜、犬に追われていた少女の姿が脳裏を過ぎった。あの時の犬は、明らかに尋常でない様子だった。




