13 (腐乱死体 グロ注意)
なかなか便利な世の中になった、などとつくづく実感するのは、老若男女を問わず、大勢がダウンロードしているLineの存在である。
一昔前であれば、新たに互いの連絡先を交換しようとする際、それぞれがそれぞれの携帯電話に電話番号やメールアドレスなどの情報を登録しなければならなかった。
言い換えれば、自分が相手に連絡先を渡しただけでは、相手から連絡がない限り、自分からは連絡手段が無かったわけだ。
ところが、このLineというアプリを使えば、相手が自分の連絡先、それも電話番号を登録してくれただけで、こちらからアプローチが可能なのだ。無料通話もできるし、何よりリアルタイムでチャット会話もできる。
使いこなせていないうちは「Lineなんて」と馬鹿にしていた高梨だったが、前原を突きまわして使い方を教えてもらってからは、このアプリがない生活を想像することができなくなっていた。
「ねえねえ、まず最初は何て送るべき? この間はお世話になりました、とか?」
「……何で俺に聞くんですか」
どこまでもハイテンションな高梨の横で、前原はうんざりした顔でハンドルを握っている。そんな彼を完全に無視し、高梨は助手席でスマホの画面と睨めっこをしていた。
「これって運命の出会いってヤツだと思わない? 高校時代に泣き別れになった片思いの相手と、こんなところで偶然、再会できたなんて! しかも相手はお医者さんになってたなんて!」
「……高梨さん、そろそろ現場ですよ」
夢と現実の狭間にたゆたっていた高梨には、前原の指摘も右から左へ耳を素通りしていた。刑事だって人間なのだ。悪いことをした人を捕まえるために昼夜を問わず走り回ったりもするが、恋が芽生えた時には、そのことで頭がいっぱいになってしまったりもする。ましてや、自分は女盛りの三十二歳。恋の予感に高まった胸の鼓動は多少のことでは収まらない。
「うっ!」
前原が運転していた車から降りたその瞬間、高梨はその臭気にあてられ、言葉を詰まらせた。あれほど高まっていた胸の鼓動が、一気に冷めていくのを感じる。
「現場、荒らさないでくださいよ」
鑑識員からいつも通りの言葉をかけられた。悔しいが、反論できない。言葉が無いのではない。言葉が出せないのだ。現場はあらゆる汚物が交じり合った凄まじい臭いに満ちている。殺人的な悪臭は、明朗快活が取り柄の高梨からあっさり言葉を取り上げてしまうのに充分だった。とにかく臭い。たまらない。
「遅いぞ」
「すみません、河合さん」
口元を押さえ込んで黙り込んでいる高梨の代わりに前原が謝罪を口にした。河合はそれ以上、特に何も言わず、地面に転がっている死体の方に顎をしゃくって見せた。
「やれやれですね」
「ああ、まったくだよ」
前原の呟く声に、河合は軽く溜め息を落とし、手帳を開いた。
死体発見の第一報があったのは、本日の早朝六時三十五分。通報してきたのはジョギングを日課にしている二十八歳の女性。場所は、昼間は納税者の憩いの場、夜間は暴走傾向のある若者のたまり場として24時間態勢で活用されている市民公園である。
「異様な臭気に気付いて」と、第一発見者である女性は繰り返し警察官に語っていたそうだ。
「死後一日ってところか。まあ、この熱気じゃあなあ」
河合がうんざりしたように呟き、前原は適当に頷いていた。
人間も死ねばただのナマモノだ。生前、本人がどれほど神に心身を捧げていたかには関係なく、真夏にナマモノを放置すれば当然のことながら腐ってしまう。見開いた目に、ハエがとまった。
絶叫の形に開いた口の中には、大量のウジがのたくっている。雨が降ったせいか、腐敗が促進されたらしい。一部、敗れた腹腔部から溶けた脂肪が零れ出していた。クラッシュタイプのパイナップルゼリーといったところだろうか。しばらくは、ゼリーは食べたくない。
「前原、お前、これをどう見る?」
「そうですね……」
被害者は胎児のように体を丸めた姿勢で、芝生の上に倒れていた。正確な年齢は不明だが、髪型や肌の質感、体型からして三十代から四十代前後と見られる。
「死因は市販の農薬を飲み干したことによる、服毒自殺と思われます。着衣がなく、貴重品の類を全く所持していないことが気になりますが、争った形跡がないこと、死体に生前の傷跡が見当たらないことなどから、自殺と見て間違いないでしょう」
「なるほど。遺書は?」
「遺書と呼べるかどうかは分かりませんが、唯一この手帳を所持していました。中には、宇宙がどうの、神がどうの、肉体に渦巻くエネルギーがどうの、と。そういう内容の小説とも手記とも、何とも呼べない文章がびっしり書きなぐってあります」
「やれやれだねえ……」
河合と前原の会話を聞きながら、高梨は襲ってくる眩暈を必死になって堪えていた。突き抜けるような青空が見下ろしている。今日もいい天気になりそうだ。後ろを振り向けば、きちんと刈られた芝生の緑が朝露に濡れてキラキラと光っている。穏やかな風が吹き、公園に植えられた落葉樹を揺らしていった。
公園内を横切るように作られた人工の小川の中を、透明な水がさらさらと流れていく。爽やかな夏の朝の匂いが、幻想となって高梨の脳裏を駆け巡った。
「もう、ダメ……!」
高梨は死体から背を向け、公園の出口を目指して一心不乱に駆け出した。背中に、河合と前原の呆れたような視線を感じる。すれ違う鑑識員や制服警官からは、冷たい眼差しを向けられた。
「し、仕方ないじゃん……!」
腐敗臭の届かない場所までやってきて、ようやく高梨は息をつくことができた。とんでもない悪臭の中、目の前に腐乱死体があって、平然としている方がおかしい。普通の人間なら、誰だって目を背けるし、吐き気を催す。どうにもこうにも、高梨は死体が腐るあの臭いにだけは慣れることができなかった。
「やってらんないわ……」
そう言えば、少し前にネコ屋敷の死体に遭遇したことがあった。あの日、着ていたスーツはクリーニングに出しても悪臭が取れず、結局、処分した。おまけに、家族からしばらく「臭い」と罵られる日々が続いた。
凄まじい悪臭の中に長時間晒されてしまうと、一度や二度、風呂に入って丁寧に洗ったくらいでその臭いは落ちないのである。年頃の娘に向かって、家族もたいがいデリカシーがない。
人間がどうしてあんなにも汚く臭い肉の塊に変わってしまうことができるのか、高梨は理屈を超えて不思議でならなかった。死んで放置されれば、どんなに立派な人間でもただの汚物にしかならない。綺麗だった人間が無残に腐敗していく様は、はっきり言って正視に耐えがたいものがある。
ごくまれに、芸能人の死亡ニュースなどを見ると、高梨はいつだって目を逸らしたくなる。ましてや、それが贔屓にしていた俳優であった場合であれば、なおさらだ。
「におい、付いてないといいな」
デートの機会があるかもしれない。服装が遅れているとか、髪型が決まっていないとか、メイクのノリが悪いというのならまだしも、悪臭を纏わり付かせたままデートにだけは行きたくない。大きく溜め息を零した。
「井崎くんと、うまくいけばいいな」
青空に向かってポツリと呟き、立ち上がる。臭いが付くのが嫌だから現場には戻りたくない。しかし、仕事なので戻らなければならない。どうしたものか、と逡巡していた時、公園の向かい側でガラスが割れる派手な音が聞こえてきた。続いて、怒鳴り声……。
「ちょっと、何よお」
道路の向かいにある喫茶店のガラスが叩き割られている。傍にはいがみ合っている二人の若者の姿と、怯えた様子で佇んでいる喫茶店の店員らしき女性がいる。オーナーと思しき中年の男が血相を変えて出てきた。二
人の男が声にならない声で怒鳴りあっている。オーナーが止めに入ろうとするが、二人は激しく揉みあっていて仲裁の言葉をまるで受け付けない。
ただでさえ腐乱死体を見たばかりで気持ちが萎えているというのに、勘弁してくれ、と思った時、短い金髪の少年が大きくよろけた。そして胸を押さえたと思った瞬間、口から大量の血液を吐き出した。女性店員が悲鳴を上げる。オーナーが顔色を変えた。
「やだ、もうっ! ちょっと、どうしようっ!」
高梨の動揺など素知らぬ様子で、血を吐いた少年が再び相手に掴みかかっていく。立ち位置が変わり、相手の青年が高梨の方に顔の正面を見せた。青年の顔は、死人かと疑うような土色をしている。
彼らは切羽詰った様子で何か喋っていた。何を言っているのかは分からない。だが、強烈な感情だけは嫌と言うほど伝わってきた。
自分が間に入って行っても二人の喧嘩を止められるはずはない。それどころか、巻き添えを食って暴行されるのが関の山だ。しかし、血を吐いている少年を放っておくわけにもいかない。もうひとりの方も、どうやら健康とは言いがたい。
悩んだ末、高梨はポケットから携帯を取り出した。Lineアプリを起動させ、ついさっき登録したばかりの相手に無料通話をかけてみることにした。
「あ、ごめんね、こんな時間に。ちょっと緊急で相談なんだけどさあ、今ね、目の前で高校生くらいの男の子と、二十代くらいの人が殴りあいしてるの。それが、ただの喧嘩って雰囲気じゃなくってさ、ひとりは死にそうな顔色してるし、もうひとりはさっきガバア! って血を吐いて……」
「馬鹿野郎!」
最後まで言い切らないうちに、怒鳴られた。河合には怒鳴られ慣れている自分だが、まさか十数年ぶりに再会した片思いの相手にまで怒鳴られるとは思っていなかった。
「救急車を呼べ! 警察もだ! 今すぐに!」
「ちょっと井崎くん、私も警察……!」
すでに電話は切られていた。憮然として通話終了をタップする。とりあえず、すぐ傍にいる前原を呼び出すことにした。柔道二段の彼なら、きっとなんとかするだろう。




