第5話 夢に見た兄弟
息が浅い。防寒具の重さが胸の前にあって、その重さが急に他人のもののように感じられた。手袋の中で指の腹だけが熱を持ち、その熱が外気と釣り合うべき位置にうまく落ち着かない。脈拍は静かに整いつつあった。落下の時よりも、彼女が初めて動いた時よりも、今の方が落ち着いている。その落ち着き方そのものが、おかしかった。
南極は冬ではなく魔法だった。
声に出したのではない。
出せなかった。
出したらそれが事実になる位置に私は立っていた。
理解したではない。理解したせいで戻れなくなった。
それまで、南極に刻まれたものを読む側にいると思ってきた。氷床の層を年代と気温と火山と空気の濃度の記録として扱ってきた。けれどその層の中に意志があったとすれば、取り扱ってきた数値の意味はひとつずつ別のものへ変わってしまう。
読まれていたのは、私の方かもしれない。
そう思った瞬間に、頭の片隅が訂正した。これは隠喩ではない、本当に、見ていたのは彼女の方だ、と。
広間の音は変わらず吸われていた。柱の線はまた静まっている。床の冷たさだけが厳密に床のものだった。
魔女は私の方を見ていた。次の言葉を待っているのではない。次の問いを待っていた。
「こちらへ」
彼女は立ち上がらない。立ち上がれないのかは確かめていない。肩も膝もほとんど動かず、目の動きだけで方向を示した。広間の奥、私が来た方角とは逆の側。
柱の列の中で線が一本だけ暗く沈んでいた。光を失ったのではなく、内側から濡れているように見えた。
立ち上がった。膝の関節がきしむ。その柱の根元へ歩み寄ると、床の文様が一箇所だけ途切れていた。自然な途切れ方ではなく、続いていたものが何かに削られた後の形だった。
しゃがむと、その断面の奥から音がした。水の音だった。耳を寄せると、融けている音ではなく、ほどけている音だった。何かが、端から外れていた。しゃがんだ姿勢のまま床の表面に手を置いた。結露があった。石材のすぐ下で何かが温度を持っていた。
柱の線は、これまで自然の記録として未確認のままノートに閉じてきた、氷床コアのある層の乱れに似ていた。確認されたくなかったものを私は確認したくないままで保管してきていたということになる。
「ここは……」
声がかすれた。
「温度が漏れています」
水音は、聞こえた瞬間よりも、次の瞬間の方が少し近かった。
魔女は答えなかった。
代わりに彼女の左の手のひらの中で、短く熱が逃げた。
それが答えだった。
---
広間の中央へ戻った。
戻る間に、いくつかの問いが浮かんでは消える。最初からあった問いで、問わなければ偶然のままでいられた。けれども偶然という言葉も、今私の足元では薄くなっていた。
魔女の前に座り直す。
「ひとつだけ」
声が思ったより低かった。
「お聞きしていいですか」
「どうぞ」
短い返事だった。
「私は……」
そこで一拍置いた。問いの形を選び直した。
「私は偶然ここへ落ちたのですか」
魔女の指先が、また内側へ折れる。今度は折れた後に戻らず、折れたままで、その指先の角度がそのまま彼女の答えの姿になった。
沈黙は長かった。けれども、その長さに彼女が逃げているのではないということは分かった。答えを選んでいたのではなく、答えを言うための呼吸を整えていたのだ。
「あなたを落としたのは」
声が一度途切れた。
「私です」
その一言を彼女は分けて言った。
「あなたを」と「落としたのは」と「私です」。
三つに分けて、それぞれの言葉をきちんと自分の側に置いた。曖昧にしなかった。
動けなかった。
胸の奥に何かが遅れて上がってくる。だがそれより先に、別のものが既に来ていた。落下の数十秒の間に見たもの、白い壁、近づく闇、衝撃の前の空白、それらすべてが今、異なる意味で並べ直され、偶然を信じていた時間そのものが、改竄されていく。
「救ったつもりですか」
問うた。
問うてから、その言葉が自分の声で出たことに自分で驚いた。
魔女は答えない。
別の言葉で言い直した。
「それを救ったとは呼べません」
息を吸った。
「落としたあとで死なない場所に置いただけです」
自分の声に温度がない。その冷たさが、どちらに向かったものなのか、自分でも見えなかった。彼女に向かった冷たさだったかもしれないし、長い時間「送り出した」という言葉で自分を覆ってきた何者かに向かったものだったかもしれない。
魔女は私の言葉を遮らず、否定もしなかった。目を一度だけ閉じ、閉じた後、瞼が開くのに少し時間がかかった。
「私は」
しばらくして、彼女は言った。
「偶然ではありません」
一度、そこで言葉を切った。
「けれどあなたを選んだのでもありません」
偶然ではない。だが選んだのでもない。その隙間を私はすぐには掴めなかった。
「では何を」
「見ました」
彼女はそれだけ答えた。
「待ちました」
「呼びました」
「それでも迷いました」
声が、繰り返すたびに小さくなった。
「最後に落としました」
その並びはひとつの長い動作のようだった。
途中で何度か息を止めかけた跡があり、それでも最後の一語まで進んでしまった。
---
「何を見たのですか」
問うた。
「夢のようなものを」
「夢」
「眠っていたわけではありません。
眠れる体ではありませんでした。
けれど夢のようなものは見ました。
映像という言葉も、夢という言葉も、ここでは正確ではありません」
その言い回しには覚えがあった。彼女の記憶に最初に入った時と同じ形だった。見えてしまった時の確かさだけが、映像という言葉より、ずっと近かった。
「何を見たのですか」
繰り返した。
声が揺れていた。
「あなたと弟君を」
膝の上の自分の指の関節がわずかに白んだ。彼女の動きを真似たわけではなく、同じ寒さに同じ形で反応しただけだった。
「弟」
口の中の言葉がいつもより重かった。
「兄が死んでいると決めつけた魚を海へ戻した子供がいました」
言われた瞬間、視野の周辺が薄くなる。
「火山へ向かう前の夜に兄と弟が言葉を交わしました。
最後の言葉は片方が言わなかった言葉でした。
返さなかった、沈黙でした」
座っているはずの自分の膝がわずかに床から浮きかけた。身体は、立ち上がるためではなく、その場から離れるための重さを、勝手に作り始めていた。
死んだ弟の記憶に、私以外の目が入っていた。そのことの方が、落とされたことより先に気持ち悪かった。
そこまで聞いて、片手を上げ、それ以上、彼女に続けさせなかった。
「そこまで」
声は自分のものに聞こえなかった。
「そこまで見たのですか」
魔女は答えなかった。答えないことが、答えだった。
喉の奥が乾き、手袋の中の指は汗をかいていた。
南極は声を吸う。
「あなたは……」
短く息を吸った。
「あなたはまた同じことをしたんですね」
言ってからその言葉が私の側にも向いていることに気づいた。
魔女は私の方を見て、逸らさなかった。逸らさないために、自分の中で何かを支えているように見えた。
「人類を外へ送り出した。
戻ってきた者たちを止めた。
大陸全体を閉ざした。
それから私をここへ落とした」
「全部、必要だったのでしょう」
声が冷えた。
「全部、守るためだったのでしょう」
答えはなかった。けれども、今度の沈黙はこれまでの沈黙のどれとも違って、彼女の側の重みがこちらへ少し傾いていた。否定するための沈黙でも、答えを選ぶための沈黙でもない。
「そうかもしれません」
そう言った。
それから息を吸ってもう一つだけ言葉を置いた。
「私は止めることしか知らなかった」
その一言が広間に残った。
何も返せなかった。返せなかった理由は、彼女を許したからでも、彼女の言葉を信じたからでもなかった。魔女の声が言い訳の方へ逃げなかった、そのことが、私には伝わってしまったからだった。
黙ったまま、私の中で他の声が動いた。それは私自身の声で、弟に向かって止めるために言った私の声だった。
私は止めることしか言えなかった。そう認めたくない。だから、今はまだ認めない。
---
長い沈黙があった。
その沈黙はこれまでの広間の沈黙のどれとも違って、彼女のための沈黙でも、私のための沈黙でもなかった。私たち二人の外側にあった、かつて誰かのものだった沈黙が、今空気の中で薄く膨らんでいた。
「あなたと弟君を見た時」
魔女が言った。声に小さな揺れがあった。
「私は他の二人を思い出しました」
「誰ですか」
ほとんど反射的に問うた。
「私の兄たちです」
その一言で広間の温度が変わった気がした。
兄、と彼女は言った。兄たち、と複数で言った。
彼女のことを、これまで最後の魔法族として聞いてきた。最後にこの大陸に残り、最後に大魔法を行使し、最後に動けないまま長い時間を見届けた者として。
けれども今、「兄たち」と言ったその一言の中で、輪郭が少し違うものに変わった。
彼女は最後ではなく、最初は妹だった。
「今はまだ最初のところだけです」
魔女は静かに言った。
「彼らがまだ、互いを敵と呼ぶ前のことです」
---
柱の根元の線が白く呼吸した。その光をもう観測値としては受け取らなかった。
床の文様が再び立体に変わっていく。広間の壁が遠くなる。前と同じ感覚だが、今見えているものは戦場でも集落でもなく、ずっと小さな部屋の中だった。
子供が三人いた。
二人は男の子で、一人は女の子だった。
床の上に氷で線が引かれている。氷で刻まれた地図のようなものだった。
三人はその上にしゃがんでいた。
長兄は線を内側へなぞる癖があった。彼が長兄だと私はなぜか知っていた。
指の腹で線の終わりを閉じるように追う。
彼の手は地図の縁を外へ広げようとはしなかった。
次兄はその逆だった。
線の途中から、まだ何も刻まれていない場所へ指を進めた。
線がない場所には、彼の指で新しい線が描かれた。
妹は二人の間にしゃがんでいた。
二人の指の動きを左と右で同時に見ていた。
そして妹はその二つの動きがどこかで重なるはずだと思っていた。
「足元を見ろ」
長兄の声だった。声変わり前の、まだ高い声だった。
彼はそう言って妹の足元の氷の継ぎ目を指で示した。氷の継ぎ目は薄く、踏めば沈みかねなかった。
長兄は怒っていなかった。叱ってもいなかった。
妹がそこを踏まないように長兄は自分の指で印を置いた。
「上も見たほうがいい」
次兄が笑った。
笑いながら、妹の頭の上にある氷壁の彼方を指した。
氷壁の上には、薄い空が見えていた。
「下も上も両方見るのは大変よ」
妹が言った。
その声を私はその時、初めて聞いた。
---
別の場面に移った。
三人は氷壁の足元に立っていた。
氷壁の向こうは外側だった。彼らにとっての「外」だった。
風の音か海鳴りか、あるいはその両方か、何かが氷壁の向こうから低く届いていた。
長兄がまず目を閉じた。
「外の音は人を迷わせる」
そう言った声に責める色はなかった。
彼は本当にそう信じていた。
外から届く音には、こちらの足元を緩める力があると子供のうちから知っていた。
次兄は逆だった。
「こちらに届いているなら」
次兄が言った。
「こちらからも届くはずだ」
二人は同じ氷壁を見ていた。同じ音を聞いていた。
けれどその音の意味の取り方が違っていた。
妹は二人の言葉の間に立っていた。
そして妹は二つとも正しいと思った。
外の音は迷わせる。
こちらの音も向こうへ届く。
両方が同時に本当だった。
---
別の場面が続いた。
妹が氷壁のそばで足を踏み外しかけた瞬間があった。
両側から二つの手が同時に伸びて妹の腕を支えた。長兄の手と次兄の手だった。
妹は転ばなかった。
長兄は何も言わなかった。
次兄は「危ないなあ」と笑った。
妹は二人を見て、それから自分の両側にある二つの腕を同じ重さで信じた。
そのころ、彼らの手はまだ止めるためのものではない。
閉じるためのものでもない。
支えるために伸ばされていた。
---
広間に戻った。
戻った時、自分の頬が冷たくなっていることに気づいた。涙ではない。あの場面で泣けるほど、私はまだ彼らを知らなかった。それでも頬の表面の温度だけが、いつもより低かった。
顔も声も時代も違う。それでも、長兄の指が内側へ閉じるたび、私は机の上で動かなかった弟の手を思い出していた。届くと信じる者と、届かないと決めた者の間に落ちる沈黙が、その二つの手の上で、同じ重さで横たわっていた。
似ていた。その似方だけが、胸の奥に触れてきた。
「あなたは……」
息を一度吐いた。
「あなたはいずれ、私に何かを選ばせるつもりですか」
魔女は答えるまで時間を置いた。
「あなたが地上へ戻れば、あなた自身が選ばなければならないでしょう」
「何をですか」
「知ってしまったことをまだ沈黙の中に置いておくか」
息を吸った。
「届くはずがないと思える場所へそれでも届けようとするか」
その問いを彼女は今、自分の罪の弁明として口にしてはいなかった。
後悔も罪悪感も、私の選択の中へ混ぜなかった。
彼女は自分の見た歴史だけを私の前に置いた。
その先は私が選ばなければならなかった。
「まだ、選びません」
答えた。
「選べません」
そう言った時、自分の声にいつもとは違う輪郭があった。届かないと決めた夜の自分の声と、今自分が出している声との距離が、どこかで縮まっていた。縮まってはいたが、まだ重なってはいない。
魔女は再び私の方を見た。
「最初のところだけと申し上げました」
そうと私は短く返した。
「私には」
彼女が言った。
「兄が二人いました」
その一言を最後に彼女はもう一度目を伏せた。
広間の温度が落ちた。柱の線が、長く、白く、鳴った。
私は弟の名前を、まだ口に出していなかった。その沈黙を抱えたまま、彼女の兄たちの声を待っていた。
感想とかもらえたら喜ぶので面白いなって思ったタイミングでいいのでください
本当にお願いします。




