6:自分の力で認めよう
ついに届いたの、とほのかが青空の傘を見せてくれたのは、海の日の翌日だった。MoMAのスカイアンブレラはちょっと高すぎて、コピーの方にしたそうだ。
閉じて手に提げていると黒く大きくて少し重苦しかったが、開くと鮮やかでほのかも気に入っているようだった。だが、私はおざなりなコメントしか返さず、彼女は少なからずがっかりして見えた。
がっかりさせることはなかったかもしれない。取るべき距離がまだちゃんと分かっていないから、うまくいかない。ただ少なくとも、今までよりは離れるべきだった。
あの日から、校門からバス停までは一緒に帰っているけれど、休日に遊んではいない。誘われても理由をつけて断った。これからもそうするつもりだ。
仲良きことは美しきかな。好意を向けるのはいいことだってされている。けど現実問題として、好意の押しつけが迷惑になる事例は幾らでもある。ましてや、好意もどきの押しつけなんて、どれだけ害になるだろう。
ほのかに私のことを忘れてほしかった。同じクラスでいる限りは完全に忘れるなど無理だろうが、どうでもいいと思ってほしかった。私が薦めた傘など買ってほしくなかった。私の薄汚れた指紋がほのかにこれ以上ついてしまうのが嫌だった。私はほのかとただの友達以上に関わってはいけない。
二宮希美子は相馬ほのかを好きなはずでした。愛しているはずでした。二宮希美子はそう信じていました。
でも間違いでした。
だって、私はほのかを守らなかったのだ。守ろうとしなかったのだ。たとえば雷がほのかに落ちたというなら、刃物を持った通り魔に襲われたというなら、それは仕方ないというものだ。雷を邪魔することはできないし、私に通り魔と戦う能力なんてない。けれど今回の場合は違う。ただ声を上げればよかった。人で溢れた電車の中で、私はその機会も能力もちゃんと持っていた。でも、やらなかった。私は自分の尻をちょっと撫でられたなんて理由で、ほのかを助けなかった。
大袈裟だと思う人のために、あっさり表現してみよう。言ってみれば、単なる気の持ちようの問題である。食欲がないからご飯を抜いたのと大して変わらない。下半身を触られて動揺したから気が向かなかったってだけだ。
だけど、人が人を好きだって言うのは、気の持ちよう以外のどんな話だというのだろう? 私が本当にほのかを守る気があれば、声を上げられたのだ。そうしなかったのは、そうする気がなかったからで、つまりほのかを守る気持ちがなかったからで、つまり、つまり、私は本当はほのかが好きではなかったのだ。ほのかが私を許しても、私は私の嘘を許さない。
ほのかを守ることが私の愛の証明だった。力が及ばなくても、守ろうとすることが。守ろうとしないことはそれを反証する。好きなつもりで、好きごっこをしていたことが証明された。
やっぱり、女は女を愛するようにできていない。そのメカニズムが備わっていない。
いや、特殊の一般化はやめよう。個人的なことから普遍的法則を導いてはいけない。ただ分かったのは、二宮希美子に相馬ほのかを愛するメカニズムが備わっていなかったということだ。
自覚してなお好意もどきの押しつけをするほど厚顔無恥ではない。だから私はほのかを愛していると誤解することをやめた。誤解から来る行動もやめた。習慣を矯正するのは少し大変だが、その方がいいのだ。私は努力している。そのうちちゃんとした恋人でも作ろうと思っていた。
そんな風にして夏休みを目前に控えていたある日のことだ。私は校舎裏に呼び出された。
まるでヤキを入れられるみたいだが、私を呼びだしたのはほのかだったからその心配はなかった。だが、不安がなかったというわけではない。
「部活の後、相談したいことがあるの」
なんてことを真面目な表情で言われたのだから、多少身構えもする。適当なことを言って逃げることも考えたが、そこまでしたらまるでほのかのことを嫌っているかのようではないか。喧嘩になってしまうかもしれない。それは嫌なので会うことを約束した。
恋愛対象として見ないだけであり、ほのかはやはりいい子だった。むしろ、一歩引いてみたら改めて魅力的な人だった。その心を肯定できないなんて、レトリックの一つとしても言うべきではなかった。肯定するべきでなかったのは私の心だ。
どこかそわそわしたまま部活動をこなし、校舎裏に向かった。
既にほのかは待っていた。校舎の壁に寄り掛かるでもなく離れているわけでもなく立っていた。
「ハロー」
にこやかに手が振られる。会いたいと言ってきた時の少しく深刻そうな様子が嘘だったみたいだ。
「ハロー。待った?」
「全然」
首を振る動きは緩やかで穏やかで、ほのかが一瞬年上に見えた。
数日前から鳴き出した蝉が騒いでいる。色づいた日の光がどこか心をナーバスにさせた。
「ここに呼んだってことは、人に聞かれたくない話?」
焦らされたくなくて、いきなり本題に切り込む。ほのかが表情を硬くし息を止めたのが分かった。そして首肯する。
「その……」
辺りに人がいないか確認しているようで、実際は口に出す勢いをつけているのだろう。緊張が私にも伝染し、スカートの裾を指で弾く。
「私、昨日告白されたの。付き合ってって」
視線を私から逸らしたままでほのかが言った。私は腹筋の辺りを不意にぐっと押されたような心地がして、内臓も言葉も固まった。自然、手が口元に当てられた。
一秒沈黙して、動揺している自分に気付く。情けないことだった。私はまだほのかを好きだと思いこんでいた頃の癖が抜けていない。
女子高生で校舎裏とくれば色恋沙汰を予想して然るべきでもあった。けれど私がそれを想定していなかったのは、あまりにものものしかったからだ。以前ほのかが言い寄られた時は、さらっと「この間告白されたけど断ったんだ」と事後に報告されただけだった。こんな風に改まって話などされていない。どうして今回ほのかは相談してきたのだろう。
「ふうん……誰に?」
極力冷静を装っての質問に、ほのかはクラスの男子の名前をあげた。地味な子だった。失礼だが、好きな子に告白するなんて勇気があるのが意外だった。
「それで、少し考えさせてって答えたの。キミちゃんはどう思う?」
ほのかが私を正面から見て問い返した。決然とした雰囲気を感じたが、何が彼女をそうさせるのか分からない。どうもこうもない。というかどうでもいい。どうでもいいだろう、私の考えなんて。ほのか本人が応じたいかどうかだ。
以前ほのかに告白した男子は、あえなくその場で断られたという。それなら考えさせた分、脈があるのだろうか。恵まれた奴だ。
先日まで、ほのかが誰かと恋人になるのはもったいないと思っていた。だが冷静になってみれば、それは嫉妬でしかなかった。ほのかを取られたくないと思っていただけだ。自分に対して韜晦していたけれど、私こそがほのかと付き合うべきだと思っていた。
今となってはおかしな気持ちだ。私がほのかと恋人になれるなんてあるわけないのに。
考えているうちに動揺は収まってきた。普通に返事することができそうだ。
「そうだなあ……私あいつのことよく知らないし、何とも言い辛いかも。でも、ほのかが悪くないと思うなら付き合ってみたら? そろそろ恋人作ってみるのもいいと思うよ」
当たり障りのない答えを述べたつもりだった。なのに、ほのかはまるで酷く罵られたみたいに、きゅっと唇を噛んだ。
私は戸惑ったが、何がいけなかったのか分からないので何も言えず、ほのかの次の言葉を待った。
ほのかは僅かに眉を寄せて、すがるような眼をした。
「……キミちゃんは、それでいいの?」
いいとか悪いとかじゃなくどうでもいいんだと答えられなかったのはそんな投げやりなことを言っては流石にほのかを傷付けてしまうからだとして、どうでもいいよねと心の中で呟くことすら上手くできなかったのはどうしてなのだろう。
気をしっかり持たなければ。
「ほのかに彼氏ができるのが、悪いわけないよ」
それが張り詰めた糸を切った。
「私はよくない!」
水面に手のひらを叩きつけるような声でほのかが叫んだ。私を睨みつけて、破裂するような少し濁った声をぶちまけた。ほのかがこんな強い声を出すのを見るのは初めてだった。私はただただびっくりして、全身を強張らせてほのかを見ていた。
「私は! キミちゃんに!」
勢いのまま叫んだほのかは、きっと続けて何か言いたかったのだろうけれど、吸い込んだ息が出てこなかった。あの電車の中で、大声を出せなかった自分を思い出した。
「……キミちゃんに」
勢いをなくし無理やり押し出したような声は結局また私の愛称で止まり、しおしおとほのかは肩を落とした。
私は何か言わねばと思っているのに、何も思い浮かばなかった。ほのかの叫び声で脳味噌が吹き飛ばされたように思考力がなかった。何かとても大事なことに気付けていないことだけは自覚していた。ほのかはその愚かさに怒ったのだ。
「……突然ごめん」
「いや、いいよ」
謝るほのかに、何がいいんだかも曖昧なまま慌てて首を振った。
ありがと、と小さく言って彼女は鼻を鳴らした。
「私、最近キミちゃんに嫌われるようなことした? 今大声を出したこと以外で」
していない。ほのかがこうして不安定になっているのは、私が距離を置いたせいなのか。でもほのかは悪いことなんか何もしていない。悪かったのは私だ。
「してない」
上手く言葉にできなくて、一言だけ返事をした。
「……じゃあ、どうして私を避けるの?」
それはもっと言葉にできなかった。いやできることはできる。ずっとほのかのことを好きだと思っていたけれどそれが間違いだと気付いたのでこれ以上自分が錯覚しないように逃げました。そう言えばいい。でも言えるわけがない。
黙り込んでしまった私を少し見つめて、ほのかは唇を歪めた。きっとそれは微笑だったのだが、ほのかのそんな悲しそうな微笑みは見たことがなかった。
「私、キミちゃんが好きだよ」
静かに静かに放たれた声は、水が広がるように私の鼓膜に触れた。
「キミちゃんを、恋愛の意味で、好き」
滴った言葉に脳まで濡らされ、茫然とほのかを見た。
奇妙なことになっていた。私がほのかに恋していて、ほのかは私を友達としてしか見ていないというのが、ずっと考えていた関係だった。好きだなんて言ったら困らせるから、ほのかに気持ちを伝えないようにしていた。なのに今は、ほのかが私に恋をしていて、私がほのかを友達と見ているみたいだった。それが実際の私たちの結びつきだったのだろうか。それなら、私はほのかに気持ちを伝えられて困っているはずだ。
どうしたらいいのだろう、困った気持ちが湧いてこない。
ほのかの言葉が私の内部を満たしていく。耳から脳をひたひたにして、しんぞうをひたひたにして、一杯にされる。
「それでね、こんなこと言うと笑われちゃうかもしれないけど、キミちゃんも私を好きでいてくれると思ってた」
私も長い間そう思っていた。十六歳の私にとっては長い長い間だ。思いが私を構成する全てに沁みつく位だ。沁みついてしまったのだ。本当は違うと分かったはずなのに、落としきれないのだ。私がほのかを好きなはずがないと証明されたのに、一緒に入る時間を減らしたのに、努力をしたのに。
それなのに、どうしようもなく嬉しかった。
「勘違いだったかな」
そしてほのかは口を噤んだ。私をじっと待っていた。私の視線が乱れても、じっとしていられず両手を縺れさせても、口を開きかけてはまた閉じても、一分以上黙っても、許してくれなかった。
言うことが見つからずに黙っていたのではない。言いたいことがあったのを必死に我慢していたのだ。けれど、もう限界だった。
開いた唇が馬鹿みたいに震えていた。
「わ、私は、ほのかのこと、好きだと思ってた」
「うん」
「ずっと、凄い好きで、何かしてあげたくて、守ってあげたくて、ずっとそうで」
「うん」
気ばかりが逸りつっかえつっかえの話を、ほのかはただ相槌を打ちながら聞く。もう止まらなかった。
「ほのかを守ることが好きな証拠だから、そうしてきた。ちゃんとできてたかは分からないけど、そのつもり。これからもずっとそうしたかった。女だって女を好きになれるって証明したかった」
私の拙い気持ちを馬鹿にするみたいに蝉が大きく鳴いた。でもほのかが受け止めるように聞いてくれたから、続けられた。
「でも、こないだ、ほのかが触られた時、私何もしなくて、守ってあげたかったのにしなくて。好きな人のために何もしないなんておかしいじゃない。何もする気がないなんて」
ほのかにこの気持ちを打ち明けたかった。そして認めてほしかった。証明を査読してほしかった。
「ね、だから、私は本当はほのかのこと、好きじゃないでしょう?」
恋をしていないことをはっきりさせてほしかった。
言いたいことも言えることも全部出してしまった私の鼻先を風が通り抜けた。草と土の匂いがした。
ほのかは匂いを貫いて、一歩二歩と私に近づいてくる。三歩目で触れるほどの距離になり、そして実際に触れられた。柔らかく抱きしめられた。身長差のせいで抱きつかれているという方が適当なのだろうけど、抱きしめられているとしか思えなかった。
「キミちゃんは見栄っ張りだねえ。それと欲張り」
私の腕ごと抱きしめて、肩に顔が当てられているせいでくぐもった声でほのかは言った。
「私はあんまり欲張りじゃないから、多くは望まないよ。キミちゃんだけを望んでる」
薄い夏服越しにほのかが伝わってくる。体温も振動も柔らかさも。どうして突然欲張りなんて話をされているのか分からないのに、私は安らいでいた。
「ううん、私も痴漢されてる時に助けてほしくてキミちゃんのこと見てたから、人のことは言えないかな。今までずっとキミちゃんに優しくしてもらってたし、甘ったれで欲張り。でも、ヒーローみたいに助けてくれなくてもいいんだよ」
顔が上がる。身長差十二センチはなんの距離だったろう。
「私があなたを好きなことを、私はちゃんと知ってる。今までキミちゃんに何もできなかったかもしれない。他の証明もない。女同士は変だって言う人もいる。けど、私は絶対にキミちゃんが好き。大好き。私はそういう風にできてるから。それが正しい私だから」
ほのかは無防備に顔を輝かせていた。この無防備さは、恋愛感情なんて微妙なものを私に抱いていないからだと思っていた。しかしそれは、ほのかが自分の気持ちを微妙ではなく確かにしていたからで。
「キミちゃんの不安を私が全部消すことはできないし、他の誰も消せない。男と女でも怖いことあるのに、ましてやだもんね」
言われて初めて気付く。私は不安だったのだ。真実私がほのかを好きなのか、自信が持てなかった。女が女を愛するメカニズムを信じられていなかったのは、私だ。証が必要となるのは、疑わしいものについてだから。ほのかが他の誰かと付き合うことを嫌だと思い、しかし私が恋人になることに怯えてもいた。挙句の果てに、証明とか呼んで依存していたものが崩れたら、不安のあまり全部なかったことにしようとした。
自分がこんなにも弱いとは思わなかった。こんなに弱い人間を誰かが好きになるなんて信じられなかった。
ほのかが私の背中にまわした腕に力を込める。
「ただ、キミちゃんも私を好きでいてくれたら、最高に嬉しい」
ぎゅっとされて搾り出されたのは吐息と、胸の奥、お腹の奥からもっと熱いもの。
「キミちゃんは、私のことをどう思ってるの?」
神様、私がほのかを笑わせるためにできることがあるみたいです。だけど私がほのかを笑わせていいのでしょうか。
答えはどこからも返ってこないし、自分で決めるしかない。私の気の持ちようは、私で確かめなきゃいけない。
考えなさい、と私は私に命じる。そしてそれ以上に感じなさい、と。
あなたの心は、あなたの一番そばにいる人を求めていますか?
「ほのか」
五十年も使ってないような口を頑張って開く。
発しようとする言葉は重い。唇だってとびきり重い。だけど心は重くない。どきどきどきどき弾んでいる。目を逸らすことはもうできない。
自分の力で認めよう。一番大事なこと一つだけを。
「私はほのかが、心から好き」
ほのかは満面の笑みで答える。
「嬉しい、安心した」
疑いばかりでしちめんどくさいメカニズムの話は終わって、私たちの物語が続く。一年、十年、ずっとずっと未来まで。ただしそれを語るのは、今塞がれている二人の口が解放されてから。
これで完結となります。
読んでくださった方、ありがとうございました。
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