第136話 キスをしたことのないスィグネ
僕とシリヤが口づけを交わしているときだった。
「ちゅーしてる……」という声。
そちらを見ると、そこにいたのは……シリヤの母、スィグネだった。
「あ……」
シリヤがスィグネの存在に気づいたようだった。
「お母様……どうしてここに……」
スィグネは顔を真っ赤にしていた。
怒っているのか……。
ひとまず謝ろう、と思ったときだった。
「―――ふしだらです!」とスィグネが言った。「私だって、キスをしたことがないのにっ!」
「「…………へ?」」
僕とシリヤの間の抜けた声が完璧に重なった。
今、この人、なんと言った?
キスをしたことがない?
シリヤという娘がいるというのに?
「娘に……! 娘に先を越されるなんて……! 母親としての威厳が……!」
スィグネは、どうやら僕たちの関係性に怒っているのではないらしい。
ただ、娘に『先を越された』という、その一点において、激しく狼狽し、動揺し、羞恥に悶えている。
予想外すぎる展開に、僕とシリヤは、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
◇◇◇
「ええと、それで……お母様は、どうしてこちらに?」とシリヤが尋ねた。
スィグネはようやく平静を取り戻していた。
僕達は図書室の端にあったテーブルへと移動していた。
ソファが向かい合わせに置かれており、僕の隣にシリヤ、シリヤの向かいの席にスィグネという配置になっていた。
「シリヤが手紙を送ってくれたでしょう。しばらく、王都の離宮に住んでいるって……。それで、会いに行ってみたら、図書室にいるって話だったから……」
それで、僕とシリヤがキスをしているシーンを目撃してしまったというわけか。
まあ、キスで良かったということにしておこう。
タイミング次第では、それ以上もあり得ただろう。
「えっと、アーリング様はシリヤとお付き合いをしているの?」とスィグネが言った。
「はい……そうですね」そうなるか。いままで言葉にしたことはなかったけれど。
スィグネは頭を下げた。
「アーリング様。どうか、シリヤをよろしくおねがいします。私に似て美人だけれど、誰に似たのか頑固で……」
「頑固なのもお母様に似たんだと思います」とシリヤが即答した。
「それで……」スィグネは言った。「ちゃんと避妊はしている?」
僕たちは答えられなかった。
「じゃあ、子供ができたら結婚するの?」とスィグネはさらに尋ねる。
シリヤは僕のほうを見た。
う、うーん。
「結婚……します」
「あら……そうなったら、私、おばあちゃんになっちゃうのね」
「結婚、本当に良いんですか?」とシリヤが言った。「あの、テレヴォ様と、リネアさんと結婚する約束をされていますよね?」
それは、いま言うべきことかなぁ!
「え?」スィグネが驚いたような顔をする。「結婚って、どういうこと?」
「話すと長くなるんですが……」
僕は観念して、スィグネに全てを話すことにした。
テレヴォ王女との間に政治的な繋がりが生まれたこと。
テレヴォが僕に「重婚」を提案し、僕がそれを受け入れたこと。
そして、僕にとってリネアがかけがえのない存在であり、彼女とも結婚する覚悟を決めたこと。
「……ですから、僕は、テレヴォとリネアの二人と結婚します」
「アーリング様。それは、つまり、王女様と、そのメイドさんと、お二人と同時に結婚するということ? 法的にはどうなるのか……」
当然の反応だった。
「テレヴォが、なんとかすると言っていました」
「女王陛下が……」スィグネは驚いているようすだった。「では、うちのシリヤは、その……『三人目』ということ?」
「はい。シリヤさえよければ、僕は、彼女のことも僕の『妻』として、正式に迎え入れたいと思っています」
僕は隣に座るシリヤの手を、ぎゅっと握りしめた。
シリヤは顔を真っ赤にして俯いているが、その手は僕の手を強く握り返してくれていた。
スィグネはテーブルの上で固く手を組んだまま、しばらくの間、何かを必死に考えているようだった。
やがて、彼女はふぅ、と長いため息を一つ吐いた。
「そっか」
彼女は自分の娘……シリヤの横顔をじっと見つめた。
「シリヤが幸せなら、私は何も言いません」
「お母様……」
「……ごめんね、シリヤ」
「え?」
「私、母親失格だった。あなたがあんなに苦しんでいた時、私は、ただお酒に逃げて……」
それは、スィグネがずっと抱えていた、癒えることのない『後悔』だ。
シリヤは何も言わずに、ただ静かに首を横に振った。
「いまは、もう大丈夫なのですか?」とシリヤが尋ねた。
「ええ」スィグネは頷いた。「アーリング様の治療のおかげで、お酒を断ち切ることができた。今は魔術学校で、週に三日だけれど、講師の仕事をしているの」
「そうだったんですね!」
シリヤは喜んでいるようだった。
母親が立ち直り、かつての『天才魔術師』としての誇りを取り戻し始めていた。
「アーリング様」
スィグネは僕に向き直ると、テーブル越しに深々と頭を下げた。
「私のことも、そして、この子のことも……。私たちの、歪んでしまった家族の時間まで、あなたは救ってくださいました。本当に……本当に、ありがとうございます……」
「いえ……僕は、お二人の手助けをしたまでです。それに、シリヤには、すごく助けられていますから……」
シリヤがいなければ、僕はここまで来ることはできなかっただろう。
どんなときでも、シリヤの魔術が僕達を救ってくれた。
「ねえ、シリヤ」
スィグネが、どこか照れたように、娘へと手を差し伸べた。
「その……抱きしめても、良いかしら?」
「恥ずかしいですよ。もう、子供じゃないんですから」
シリヤはそう言いながらも、その手は、母親の手をためらうように掴んでいた。
スィグネは、シリヤの華奢な身体を優しく抱きしめた。
「大きくなったのね、本当に」
「お母様こそ。少し、痩せましたか?」
「お酒をやめたら、健康的に痩せたの」
何年分もの失われた時間を取り戻すかのように。
二人は黙って、互いの温もりを確かめ合っている。
親子の愛。
それは、僕にとっては眩しいものだった。
僕も、リネアも、キルステーナも、母親がいない。
少しシリヤが羨ましかった。
やがて、名残惜しそうに身体が離れる。
二人とも目元は赤かったが、その表情は、今までにないほど晴れやかだった。
「……さて」
スィグネは僕に向き直った。
「アーリング様。少しだけ、二人きりでお話したいことがございます。よろしい?」
「え? あ、はい。構いませんが……」
◇◇◇
シリヤを図書室に残し、僕とスィグネは、二人きりで離宮の回廊を歩いていた。
窓から差し込む午後の光が、彼女の横顔を穏やかに照らしている。
一体、どんな真剣な話だろうか。
「あの……アーリング様」
「はい」
彼女は僕の瞳をまっすぐに見つめてきた。
「その……先ほどの結婚のお話ですが……」
やはり本当は反対なのだろうか……と思ったが。
「私を四人目の妻として迎え入れる、というのはどうでしょう」
「は?」
は???




