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第132話 蘇る記憶と、真実

 一旦、皆には部屋から退室してもらった。

 現在、部屋にはヴィヒレァ、僕、リネアの三人だけとなっていた。


 僕の腕の中で、ヴィヒレァの小さな身体がまだ微かに震えていた。


「頑張ったね」


 僕は彼女の背中を優しく撫でながら、そっとその身体を離した。


 涙に濡れた翡翠色の瞳が、まだ不安げに僕を見上げている。


「お願いがある。リネアの記憶を返してほしい」


「でも……記憶を戻せば、リネアさんは、また苦しむことになります。今の彼女のように何も覚えていないほうが幸せなのかもしれません」


「そうかもしれないね」と僕は言った。「たしかに記憶を取り戻すということは、リネアの痛みも、悲しみも、苦悩も……全てを再び彼女に背負わせるということだ。でも、その全てを、今度こそ僕が一緒に背負いたいと思っている」


 僕の答えに、ヴィヒレァは、ふっと息を吐いた。


「わかりました。ボクが奪ったこの記憶、確かに兄様にお還しします」


 ヴィヒレァは、その小さな掌をそっと開いた。

 その上にあったのは、淡くて白い光を放つ宝石だった。


「これを飲み込めば……。記憶は戻ります」とヴィヒレァは言った。


 僕はリネアの目を見た。


 彼女は不安そうな表情をしている。


 僕はリネアの前へ立った。


「僕は、きみの苦悩から目を背けて、偽りの幸せの中に閉じ込めておきたいわけじゃない。きみが背負う全ての地獄ごと、僕は愛し続ける」


 そう告げた、瞬間だった。


「―――っ!」


 リネアの身体が、びくりと大きく震えた。


「……記憶が戻ったほうが、良いのでしょうか」とリネアが言った。


「僕は……きみに、記憶を取り戻してほしい」


「いまの私では、不足しているということでしょうか」


「僕はいまのきみも好きだよ。不足しているとかではない。でも、僕が本当に愛したのは、その苦悩を抱えながらも、全てを背負い、それでも僕を愛してくれた君なんだ」


 僕の告白に、リネアの瞳が激しく揺れる。


 僕は、リネアの手を握った。

 治療師として……そして、彼女を愛する一人の男として、最大の覚悟を込めて。


「君の背負うものが、どんな地獄だとしても、僕は、もう君を一人にはしない」


 僕は言葉をつづけた。


「君の苦しみも、絶望も、全て。今度こそ僕が君ごと受け止める。だから……帰ってきてくれ、リネア。僕の伴侶として」


◇◇◇


 リネアは、震える手でヴィヒレァから『記憶の結晶』を受け取った。

 その白い宝石を、じっと見つめている。


 リネアは、意を決したように、その結晶を口元へと運ぼうとする。

 だが、その指先が小刻みに震え、どうしても唇まで届かない。


「……怖い、です」


 絞り出すような、か細い声。


「旦那様のお気持ちはわかりました。私も……本当の私に戻りたい。ですが……」


 彼女の瞳から、ぽろ、ぽろ、と涙がこぼれ落ちた。


「この結晶を飲んだら、今のこの……穏やかな私が消えてしまう気がして……。そして、私が忘れたいと願うほどの『何か』が、私をまた苦しめるのが……怖いのです……っ」


 僕を愛していない今のリネアは、年若い少女に見えた。

 いつものリネアも仮面をつけているだけで、実際には同じように心が揺れ動いたりするのだろう。


「うん。怖いよね。でも……大丈夫だよ。どんなことがあっても、僕は、きみを嫌いになったりはしない」


 リネアは涙に濡れた顔を上げると、僕の瞳をまっすぐに見つめて、こう言った。


「旦那様……。お願いが、あります」


「なんだい?」


「私一人では……この恐怖に勝てそうにありません」


 彼女は僕の手をぎゅっと握り返してきた。


「どうか……旦那様の唇で、私に記憶を返していただけませんか。あなたから直接受け取るのなら……それがどんな地獄だとしても、私は、受け入れられます」


 僕は頷いた。


「わかった。僕が、君に返すよ」


 僕は彼女の手から『記憶の結晶』を受け取り、自らの口に含んだ。

 結晶が舌の上で、ほのかに温かい光を放つ。


 僕は涙に濡れた彼女の頬に、そっと手を添えた。

 そして、その顔をゆっくりと引き寄せる。


 リネア。

 愛しているよ。


 抵抗する暇も与えず、僕は彼女の震える唇に深く口づけた。


「ん……ぅ……」


 驚きに見開かれた彼女の瞳。

 これは、ただのキスじゃない。


 ―――返っていく。


 彼女が忘れていた全ての記憶が、奔流となって、その魂を満たしていく。


 やがて、ゆっくりと唇を離す。

 僕たちの間を、粘性のある糸が淡く引いた。


 目の前のリネアは、呆然と僕を見つめている。

 その瞳から、ぽろ、ぽろ、と。

 涙が溢れ出した。


「……旦那様。申し訳、ございませんでした」


「おかえり、リネア。良いんだよ。きみが戻ってきてくれたのであれば、それで……」


 僕がそう言って微笑むと、彼女は僕の胸に顔をうずめた。


「旦那様……! 旦那様……っ! 愛しています……」


「僕も愛しているよ」


 僕は、リネアを強く抱きしめた。


 さきほど結晶を口に含んだ際に見えた映像が、僕の脳裏に焼き付いていた。

 母、リヴの残した手紙。


 そうか。

 そういうことだったのか。


 リネアが僕に言えなかった理由が、ようやく理解できた。


 そうか、僕とリネアは……。

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