第127話 記憶を失うリネア
離宮の一室が、臨時の捜査本部と化していた。
元国王の崩御という一大事を受け、王城から派遣されてきた国選魔術師たちが、慌ただしく現場の検証を行っている。
魔力の残滓、空間の歪み、あらゆる可能性を検証しているのだろうが、彼らの表情は一様に暗い。
僕は、隣の私室にいた。
ベッドの上で眠り続けるリネアの姿を見ていた。
白いシーツに沈む、彼女の白い顔。
規則正しい寝息が、彼女がまだ生きていることを僕に伝えてくれていた。
リネアは、僕にほとんど寝ている姿を見せない。
いつも完璧なメイドとして、僕が起きる前に目覚め、僕が眠った後に休む。
だから、こうして彼女の無防備な寝顔を見つめるのは、ひどく新鮮で、そして……恐ろしかった。
もし、このまま彼女が目を覚まさないようなことがあれば……。
僕は生きていけるだろうか。
そんな、弱気な考えが頭をよぎる。
(……いや、大丈夫だ)
シリヤの診断では、彼女の身体にも魂にも一切の異常はない、とのことだった。
ただ、極度の精神的負荷によって、一時的に意識を失っているだけだ、と。
必ず、目を覚ます。
その時だった。
「……ん……」
リネアの瞼が微かに震えた。
ゆっくりと彼女の瞳が開く。
その焦点が、ぼんやりと彷徨い、やがて僕の姿を捉える。
「……だんな、さま……?」
「リネア!」
僕は、彼女の手を強く握りしめていた。
よかった。
本当によかった。
「気分はどうだ? どこか痛むところは?」
「いえ……」リネアは不思議そうに、ゆっくりと身を起こした。「少し、頭がぼんやりとしますが……。私、どうして、こんなところで……」
「昨夜のこと、何も覚えていないのかい?」
「昨夜……」
リネアは、何かを必死に思い出そうとするかのように、美しく整った眉をひそめた。
「申し訳ありません。昨夜、私は何をしていたのか……どうしても思い出せません……」
「ハーラル様の警備をしていたのは?」
僕の問いかけに、リネアは「申し訳ございません」と謝った。
どこまで覚えていて、何を忘れている?
「僕のことはわかるよね」
「はい。旦那様でございます。私の敬愛するご主人様です」
良かった……。
「えっと……昨晩、僕に、明日、すべてをお伝えします、と言ったことは?」
「すべて……」リネアはつぶやいた。「申し訳ございません。思い出せません」
「僕に、まだ伝えていない秘密はある?」
「いえ」とリネアは短く答えた。「ございません」
リネアは、僕に伝えると決意してくれたことを忘れてしまっているようだった。
彼女がひとりで背負い込んできた秘密を……。
リネアは、その秘密に悩み、苦しんでいるようだった。
だから彼女の苦悩が一時的にでも和らいだのであれば、それは良いことなのかもしれなかった。
でも、僕は……リネアの悩みを共有したかった。
一緒に悩みながら生きていきたいと、そう思っていたのだ。
その後、いろいろ話をしてみたが、リムグレーペでの話や、ダンプダールの話なども詳しく記憶していた。
この離宮を訪れた際の記憶もある。
フィヨーラのように幼児退行を起こしたわけではない。
「ひとまず、元気そうで良かった」
「はい。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「気にしなくて良いんだよ。ひとりで離宮の警護をさせてごめん。リネアのことを、もっと大切にする」
「いえ、その必要はございません。私は従者ですから」
「従者というか……」僕は言った。「きみは、僕の妻になる人なんだから。大切にするよ」
僕の言葉を聞いて、リネアは眉を顰めた。
普段は無表情な彼女が、驚いたような顔をしている。
「何をおっしゃっているのですか? 私は従者です。旦那様の奥方にはなれません。身分の差がございます」
「いや、そんなことは無関係だよ。何を言っているの? この前、結婚を承諾してくれたじゃないか」
「私が旦那様の結婚の申し出を承諾したのですか?」リネアは本当に驚いているらしかった。「有り得ません。何かの間違いではありませんか?」
背筋が冷えた。
「もしかして、僕と恋愛関係にあったことも、忘れているの?」
「……すみません。わかりません。それは本当ですか? 私が旦那様と恋愛関係など……。私をからかっているのですか?」
うまく息が吸えない。
胸の奥が、きゅっと、強く締め付けられる。
「……旦那様?」
「……あ……」
こらえきれなかった。
僕の瞳から、ぽろりと一筋の雫がこぼれ落ちた。
「旦那様……!?」
リネアが狼狽した声を上げる。
彼女には、僕が泣いている理由がわからないのだ。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
視界が滲み、彼女の姿がぼやけていく。
僕はその場に崩れるように膝をつき、両手で顔を覆った。
ただ、どうしようもないほどの喪失感が、僕の心を埋め尽くしていた。
リネアを失った。
彼女が僕に向けてくれていた、あの不器用で、けれど何よりも強かった『愛』を、僕は失ってしまったのだ。
「旦那様、しっかりなさってください! どこか、お身体が……!?」
リネアは慌ててベッドから起き上がった。
そのまま僕のそばに膝をつくと、懐からいつものように、完璧にアイロンがかけられた純白のハンカチを取り出し、僕の目元へと差し出した。
その仕草は、僕が知っているリネアそのものだった。
小さな頃、僕が落ち込んでいる時、いつもこうして寄り添ってくれた。
僕は、震える手でそのハンカチを受け取った。
「……ありがとう、リネア」
「いえ……」
彼女は困惑しながらも、そっと背中をさすってくれる。
その手の温もりも、仕草も、何もかもが「リネア」だった。
でも、リネアじゃない。
「……う……ぁ……っ」
涙が、さらに溢れ出す。
いつもと同じ優しさ。
いつもと同じ仕草。
それなのに……。
一番大切なものが、そこにはない。
こんなにも近くにいるのに、彼女は僕が知る誰よりも遠い場所にいるようだった。
「旦那様……? 私が、何か失礼を……?」
僕は彼女の胸の中で泣きたかった。
だが、僕が今求めている彼女は、ここにはいない。
僕は声を殺して泣き続けた。




