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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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行政の発明——ルールを造る者

 革の表紙。百枚の白紙。マルテが仕入れてくれた上質な帳簿だ。健悟がその表紙を撫でた。紙の手触りが——前世の公文書用紙を思い出させる。この一冊が——ハルベルトの公文書第一号になる。


「リーゼさん。住民登録を始めます」


 リーゼが村長宅の執務室で——困った顔をした。机の上に帳簿と魔法ペンとインク壺が並んでいる。


「住民登録って——名前を書くの?」


「名前、年齢、家族構成、住所、技能。全住民分。前世では——戸籍と住民票が行政の基盤でした。人を把握しなければ——税も、福祉も、権利の保護もできない」


「でも——今まで名前なんて書いたことないよ。村長になっても——顔を知ってれば十分だったし」


「五十人ならそれで足りました。二百人以上では——顔だけでは無理です。記録が要る。文書が要る。それが——行政です」


 リーゼが帳簿を手に取った。白紙のページをめくった。紙が擦れる音がする。この白紙が——人の名前と権利で埋まっていく。それは——村が町になる瞬間の記録だ。


「……やる。教えて、健悟さん」


 健悟は帳簿の第一ページに見出しを書いた。「ハルベルト住民台帳」。その下に——項目を並べた。氏名。年齢。性別。家族構成。居住区画。職業・技能。登録日。


「次に土地台帳が必要です。区画ごとに——誰が使っているか、何の用途か、いつから使っているかを記録する」


「土地台帳——」リーゼが呟いた。「土地に名前をつけるみたいなものね」


「まさにそうです。前世では——土地に番号をつけて、所有者の名前を登記簿に記録しました。それが全ての権利の根拠になる」


 住民登録と土地台帳。行政の二本柱。これがなければ——税も、区画整理も、権利の保護もできない。前世では当たり前だったものを——ゼロから作る。法律家でも行政学者でもない、元都市計画課の官僚が。


 健悟は住民登録の第一号として——自分の名前を書いた。「土師健悟。年齢:二十六。職業:技術者。居住:ロッテの宿仮住まい」。魔法ペンのインクが乾く前に——リーゼが覗き込んだ。


「あ、健悟さんが一番なんだ」


「台帳の最初のページに書く人間は——制度に責任を持つという意味です。私が作った制度ですから、私が最初に登録する義務がある」


「じゃあ二番目は私ね」


 リーゼが帳簿を受け取り、自分の名前を書いた。「リーゼ・ハルベルト。年齢:二十。職業:村長」。少し字が歪んだ。リーゼは読み書きが得意ではない。しかし——一生懸命に書いている。健悟は口を出さなかった。


「字、下手だね。分かってるよ」リーゼが苦笑した。


「帳簿は——正確であれば十分です。字の美しさは関係ありません」


「ありがとう。慰めが上手だね、健悟さんは」


 午後。マルテの店に行った。


 帳簿部屋でマルテがそろばんを弾いていた。珠の音が規則正しく響く。


「税の話ね。待ってたわ」


 マルテが帳簿を閉じて、健悟を見た。商人の目だ。


「住民登録も土地台帳も——結局は税の話に行き着くのよ。公共事業には金がかかる。下水道の修復、市場の建設、街灯の維持——全部タダじゃない。財源をどうするの」


「その通りです。税制が必要です」


「で、どうするの」


 健悟が頭を抱えた。税制。前世の知識はある。所得税、消費税、固定資産税。しかしこの世界には——貨幣経済が十分に発達していない。物々交換が残っている。現金で税を納められない住民が大半だ。


 ザインが店に来た。文官正装の帳面を開いて、情報を提供してくれた。


「辺境伯領の標準的な税制は——人頭税と収穫税の二本立てです。人頭税は成人一人あたり年間銀貨一枚。収穫税は収穫量の一割」ザインが帳面を開いて数字を示した。整った文字が並んでいる。文官の仕事だ。「ただし——ハルベルトは農業村ではありませんから、収穫税の代わりに交易税が適当でしょう。港の交易で生きている町ですから」


「人頭税と交易税——」健悟がそろばんを借りた。マルテが眉を上げた。


「あら、そろばん使えるの」


「前世で——似たものを使っていました」


 計算する。成人約百五十人で人頭税が銀貨百五十枚。交易税は月間取引額から推定して——年間で銀貨二百枚前後。合計三百五十枚。下水道の修復や市場の建設には足りないが、維持費と管理費は賄える。段階的に——交易量が増えれば税収も増える。


 しかし——避難民の中には現金を持たない者が多い。


「労役か金納かを選べる制度にしましょう。現金がなければ——公共工事への労働で税を納められる」


 マルテのそろばんが弾けた。珠の音が税率計算のリズムを刻む。


「五%は——妥当ね。イレーネは嫌がるだろうけど、交易税なしでは町が回らないわ」


「マルテさんが税の管理をしてくれますか」


「あたしが? ——まあ、商人が帳簿をつけるのは得意だけど。でも公金を扱うなら——信用の問題があるわ。誰が見ても公正だと分かる仕組みが要る」


「その通りです。帳簿は公開します。全ての収入と支出を——住民が確認できるようにする」


 マルテが目を丸くした。「帳簿を——公開? 商人の世界ではありえないわ」


「公金は——公のものです。商人の金とは違う。住民の金を預かって、住民のために使う。だから——住民に見せる義務がある」


 マルテが——長い間、黙った。そろばんの珠が止まっている。商人にとって帳簿は秘密だ。商売の中身を見せるのは——裸を見せるのに等しい。しかし公金は——商売の金ではない。


「……分かったわ。やるわよ。でも——帳簿のつけ方は、あたしのやり方でやるからね。見やすくて正確な帳簿は——商人の腕の見せ所だわ」


 マルテの目に——新しい光が宿った。商人から会計官へ。私の商売の帳簿付けの技術が——町全体の財務管理に使われる。それは——マルテにとって新しい挑戦であり、誇りでもあった。


 夕方。ノルンの家を訪ねた。


 テール川が見える窓辺で、ノルンが薬草の束を干していた。窓から入る夕陽が、薬草の緑を金色に染めている。


「ノルンさん。税制を作ります」


「聞いたよ。マルテから」ノルンが鋭い目で健悟を見た。八十年分の知恵が宿る目だ。「税を取るなら——税で何をしてくれるのか、示しなさい」


「予算と事業計画を公開します。何に使うかを——全住民に見せます」


「それだけじゃ足りないよ。使い道を見せるだけじゃなくて——使った結果も見せなさい。金をかけて何が変わったのか。水がきれいになったのか。道が歩きやすくなったのか。結果を見せなければ——税は搾取と同じだ」


 ノルンの言葉が——重い。しかし正しい。予算の公開だけでなく——成果の報告。前世の行政では「事業評価」と呼ばれていた。情報公開と事業評価。ゼロから作る行政に——前世の制度が組み込まれていく。


「約束します。年に一度——住民に対して、税の使途と成果を報告する集会を開きます」


「年に一度? 四半期ごとにしなさい。金のことは——忘れる前に報告するもんだ」


 ノルンが笑った。皺が深くなるが、目は鋭い。この老婆は——生まれながらの監査人だ。八十年の人生で身につけた知恵が、行政の透明性を要求している。


「四半期ごとに。了解しました」


「それとね——報告は集会所の壁に貼りなさい。全員が読めるように。集会に来られない病人や老人も——壁に貼ってあれば誰かが読み聞かせてくれる。情報は——足で運ぶものだよ」


 健悟は——メモを取った。情報公開の具体的な方法を、八十歳の老婆に教わっている。前世の情報公開法よりも——実践的な助言だった。


 夜。通りを歩いていると——ザインが追いついてきた。魔力灯の青白い光が二人の影を長く伸ばしている。


「健悟さん」


 ザインの声が——いつもと違った。穏やかさの奥に——真剣さがある。


「住民登録。土地台帳。税制。予算の公開。成果の報告——これは……行政制度そのものです」


「はい。町を運営するには——制度が必要ですから」


「あなたは本当に——『遠い国の土木技師』なのですか」


 ザインが立ち止まった。魔力灯の光が琥珀色の目を照らしている。真っ直ぐな目だ。文官の目。嘘を見抜く目。


「これは土木の仕事ではない。これは——統治者の仕事です。制度を設計し、法を作り、税を定める。それは王や領主がやることだ。土木技師の知識では——ないはずです」


 健悟は——一瞬、言葉に詰まった。ザインの指摘は正しい。土木技師が行政制度を設計するのは——不自然だ。前世の記憶を使うたびに——嘘の綻びが広がっていく。


「……前世の国で——行政の近くにいたことがあります。技術者でしたが——制度の仕組みも、少しは知っています」


 半分は本当で、半分は嘘だ。その嘘の重さが——喉を締めつける。ザインが——しばらく健悟を見つめた。


「……そうですか。少し、ではないと思いますが——今は聞きません。あなたがこの町のために誠実に働いていることは——私の目で見て、疑いの余地がありません」


 ザインが頭を下げて去った。足音が石畳に響いて消えていく。健悟は——立ち止まって自分の影を見下ろした。魔力灯の光が影を長く石畳に伸ばしている。土木技師の影と、行政官の影。二つの自分が——一つの体の中で共存している。いつまで——この危うい均衡を保てるだろうか。

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