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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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条件交渉——官僚の矜持

 対案の骨格はできている。昨夜のうちに三枚の羊皮紙に書き上げた。修正線が幾重にも重なっているが——論理は通っている。今朝、最終版を清書した。四枚目の羊皮紙。修正なしの清潔な文面。伯爵の目に触れる文書は——見た目も重要だ。前世の課長がよく言っていた。「大臣が読む書類に修正液を使うな」。


 対案の核心は三つの切り替えだ。


 第一に、「拠点移転」を「定期駐在」に切り替える。カッセル城下町に常駐するのではなく、月の半分をカッセルで顧問業務に充て、残りの半分をハルベルトで現場指揮を取る。理由は明確だ。インフラ事業は現場なしには動かない。机上の顧問が城下町に座っていても——道路は一メートルも延びない。


 (前世の国交省でも同じ論理があった。本省の役人が地方整備局に出張する。現場を見なければ判断できない案件がある。霞が関だけでは——日本のインフラは動かない)


 第二に、「全事業の事前承認」を「一定規模以上の事業の事前承認」に切り替える。小規模な補修や維持管理まで伯爵の承認を待っていたら——道路の穴一つ埋めるのに数日かかる。閾値を設定し、それ以下の工事はハルベルトの村長——リーゼ——の判断で実行できるようにする。


 ここが核心だ。リーゼの自治権を守る。「実行権限はリーゼ」。これだけは——譲れない。


 第三に、「技術情報の帰属」を「技術情報の共有」に切り替える。マギクリートの製法は伯爵府に帰属させるのではなく——伯爵府と技術者(ドラガ、フェリス)の共同保有とする。伯爵府は製法を使用する権利を持つが、独占はしない。技術者には改良の自由を保障する。


 (知的財産権の共同保有。前世の産学連携スキームと同じだ。大学の研究成果を企業が使う時、大学の権利を守りながら企業の利用を認める。あの枠組みを——ここに適用する)


 マルテが部屋に入ってきた。朝の市場を回ってきたのだろう、髪に花粉がついている。


「対案、見せて」


 健悟が羊皮紙を渡した。マルテの目が——商人の速度で文面を走る。


「いいわね。ただ——経済面の裏付けが薄いわ。伯爵は数字の人でしょう。追加するわよ」


 マルテが自分の帳面を広げた。昨夜のうちに計算していたのだ。


「街道ネットワークが完成した場合の経済効果。交易量の増加予測——現在の制限令下でも、街道沿いの集落では交易が維持されている。街道延伸による新規交易路の開通で——カッセル領全体の交易量が推定三割増。伯爵の上納金収入も——当然、増える」


「つまり——伯爵にとっても儲かる話だと」


「そうよ。儲からない話に伯爵は乗らないわ。防衛と経済の一石二鳥。この数字を対案に追加して」


 マルテの計算を追加した。交易量の増加予測。上納金の増収見込み。五年後の累積効果。マルテの数字は——いつも正確だ。商人の勘と帳簿の裏付けが同居している。


 午後。伯爵城の書斎。


 謁見の間ではなかった。伯爵の私的な書斎だ。広くはないが——壁一面に書棚が並び、書物と巻物が詰まっている。領地の地図が壁にかかり、赤い印が幾つも刺さっている。魔物被害の地点だろう。


 伯爵が書斎の机の向こうに座っている。健悟が対面に座った。間にテーブルがある。テーブルの上に——健悟の対案の羊皮紙が広げられている。少人数の会談だ。ハインリヒも文官もいない。伯爵と健悟の二人だけ。


 (書斎での二者会談。前世でいえば——副大臣室での内々の折衝。公式の会議ではなく、事前に落としどころを探る場だ。伯爵はそれを知っている。だから謁見の間ではなく書斎を選んだ)


 伯爵が対案を読んでいる。鷲鼻の下で——唇が微かに動いている。数字を暗算しているのだろう。灰色の目が文面を追う速度は——速い。この男は文書を読み慣れている。三十年間、領地の書類を読み続けてきた男だ。


「定期駐在。月の半分をカッセルに」


 伯爵が対案の第一項を読み上げた。声に抑揚はない。評価を保留している声だ。


「はい。現場を離れては事業が進みません。インフラの建設は——図面だけでは動きません。現場で土を掘り、石を積み、水路の勾配を目で確認する。それは——カッセルの書斎ではできないことです。しかし——伯爵の管理下にいることは保証します。月次報告と四半期監査は——予定通り実施します」


「一定規模以下の工事は村長の判断で実行。——小賢しいな」


 伯爵の声に——苛立ちはなかった。むしろ——感心に近い響きがあった。


「リーゼ・ハルベルトを実質的な現場指揮官にするわけだ。お前は顧問として助言するが、実行権限は村長に残す。——お前は形式を渡して実質を取る男だな」


 (見抜かれた。しかし——見抜かれて構わない。伯爵に筋を見せることが目的だ)


「伯爵。私が求めているのは——ハルベルトの自治権の維持です。顧問職は受けます。報告義務も受けます。しかし——村の人々が自分たちの判断で生きる権利は——お渡しできません」


 伯爵が目を細めた。対案の羊皮紙をテーブルに置いた。


「技術情報の共同保有。——これはドワーフとエルフの技術者を守るためか」


「はい。彼らの技術なくして、マギクリートは存在しません。技術者が自由に改良できる環境を維持しなければ——技術は停滞します」


「……ふむ」


 伯爵が椅子の背もたれに体重を預けた。窓から西日が差し込んでいる。二人の間のテーブルの上を、光の中の塵が金色に舞っている。


「マルテ・ベッカーの経済分析も添えてあるな。交易量三割増。上納金の増収。——この商人の娘は、数字を作るのが上手い」


「事実に基づいた予測です」


「事実に基づいた予測は——解釈次第で楽観にも悲観にもなる。お前はそれを知っているはずだ。——行政官ならば」


 鋭い。伯爵は——数字を読むだけでなく、数字の裏を読む男だ。


 沈黙が落ちた。西日が書斎の書棚を照らしている。古い書物の背表紙が光を受けて、題字が浮かんでいる。歴史書。法律書。農業書。この書斎は——三十年間の統治の記録だ。


「最後に一つ問う」


 伯爵が——健悟を見つめた。鋭い目だ。しかし——さっきまでの値踏みの目ではない。もっと深い——何かを探る目だ。


「道は誰のためか」


 その問いが——予想外だった。政治的な質問ではない。哲学的な問いだ。伯爵が——行政官の矜持を試している。


 (道は誰のためか。前世でも——考えたことがある。国交省の道路局で。国道は誰のためにあるのか。国民のため。税金を払っている人のため。車を運転する人のため。いや——歩く人のため。全ての人のため。道路局の看板に書いてあった。「道はすべての人に」。当たり前すぎて、忘れていた言葉だ)


「歩く全ての人のためです」


 健悟の声が——静かに書斎に響いた。飾りのない言葉だ。官僚的な修辞もない。政治的な計算もない。ただ——前世から持ち続けてきた信念だ。


 伯爵の目が——一瞬だけ、柔らかくなった。ほんの一瞬だ。次の瞬間には——元の鋭い目に戻っている。しかし健悟は見逃さなかった。


「……小賢しい。だが——筋は通る」


 伯爵が立ち上がった。窓辺に歩み、外を見た。城下町の屋根が夕焼けに染まっている。


「対案を受け入れる。修正点はある。詳細は文官と詰めよ。——健悟」


「はい」


「余はお前を信用したのではない。お前の数字を信用したのだ。数字が嘘をついた時——覚悟はあるな」


「数字は嘘をつきません。——私がつかせませんから」


 伯爵が——鼻を鳴らした。今度は——確かに笑いが混じっていた。


 帰路の街道。夕暮れの空が紫に染まっている。


 馬車の車輪がマギクリートの舗装を踏む音が心地よい。自分たちが作った道だ。この道があるから——カッセル城下町からハルベルトまで、馬車で半日で帰れる。道がなければ二日かかる距離だ。道の価値を——全身で感じている。


 馬車の中で、マルテが帳面に条件の最終版を書き込んでいる。帳面の端に小さく「勝ち」と書いてあるのが見えた。商人にとっての交渉の評価だ。ガルドが御者台に座っている。手綱を操りながら——何も言わない。しかし背中が穏やかだ。リーゼは——ハルベルトで待っている。


 街道が丘を越えた。眼下に——ハルベルトの灯りが見えた。魔力灯の青白い光が街道の道標に灯っている。港の灯台が回転する光を投げている。テール川の水面に灯りが反射して、銀色の筋が揺れている。自分たちが灯したインフラの光が——夕闇の中に浮かんでいる。半年前にはなかった光だ。


「見えたわね」マルテが窓から顔を出した。


「ああ」


 村の入口に——人影が立っていた。亜麻色の髪を束ねた女性。碧い目が——馬車を見つけて、駆け出した。


「おかえり」


 リーゼの拳が——健悟の胸を軽く叩いた。強くはない。しかし——声が震えている。


「ただいま。——村の人間のまま、帰ってきました」


 リーゼが——笑った。碧い目に夕焼けの残光が映っている。涙ではない。安堵だ。


「村の人間のまま——当たり前でしょ。ここがあんたの村なんだから」


 リーゼの声が——いつもの声に戻っていた。快活で、少し乱暴で、温かい声。


 ロッテが宿の入口から手を振っている。「スープが冷めるよ」。トビアスが駆け寄ってきて、馬車の荷物を降ろしている。ドラガが鍛冶場の入口で白い顎鬚を撫でながら「無事に戻ったか」と呟いている。フェリスが二階の窓から銀髪を風に揺らしながら、静かにこちらを見ている。


 帰ってきた。ここが——自分の場所だ。

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