三日間の政治——城内の暗闘
マルテが朝から城下町の市場に出かけた。商人の嗅覚だ。数字は——市場に落ちている。帳簿に載る前の、生の数字が。
健悟はマルテに同行した。カッセルの街の市場は——規模が大きい。石畳の広場に百以上の露店が並び、野菜、果物、穀物、布地、金属器具、陶器——ありとあらゆるものが売られている。しかし——健悟の目が捉えたのは、活気ではなかった。
空き店舗が目立つ。
「マルテさん。あの空き店舗——」
「見えてるわ」マルテの目が鋭くなった。「あたしの記憶が正しければ——半年前にカッセルに来た時は、あの区画は全部埋まってたわ。今は——三分の一が空いてる」
売れ残りの果物が箱に積まれている。熟れすぎた甘い匂いが漂っていた。値下げの札が貼られているが——買い手がいない。商人たちが店先で愚痴を言い合っている。
「交易制限令の影響は——ハルベルトだけじゃなかったのね」
マルテが果物売りの老人に声をかけた。
「すみません。最近、景気はどうですか」
「景気?」老人が苦笑した。「悪いに決まってるだろう。テール川の交易が減ってから——ここに流れてくる物資も減った。物が減れば値段が上がる。値段が上がれば客が減る。悪循環さ」
「テール川の交易——つまりハルベルトの」
「そうだよ。あそこの港が制限されてから——川を使った物流が半減した。うちは農産物を扱ってるんだが、上流から来る穀物が減ったんだ。仕入れ値が三割上がった」
マルテが帳簿にメモを取っている。商人の顔だ。数字を拾い、関連を読み取り、全体像を描く。
市場を一周した後、マルテが低い声で言った。
「健悟さん。これは——思ったより深刻だわ」
「カッセル領全体の経済が——」
「そう。交易制限令はハルベルトを押さえるために出された。でも——テール川の物流はカッセル領全体の循環の一部なのよ。ハルベルトの港を絞めれば——上流も下流も影響を受ける。伯爵は——自分の首を絞めてるわ」
健悟は頷いた。想定外の情報だった。提案書には「カッセル領全体への波及効果」を書いた。しかし——それは予測値だった。今、目の前にあるのは——予測ではなく現実だ。制限令は既にカッセル領全体の経済を蝕んでいる。
(伯爵は——気づいているのか。いや、気づいていないはずがない。三十年の統治者が、自分の領の経済悪化に気づかないわけがない。では——なぜ制限令を解除しないのか。経済以上に大切なものがある。秩序だ。しかし——秩序を守るために経済を犠牲にすれば、いずれ秩序そのものが崩れる。国交省で見た光景と同じだ。予算を削って道路を維持した結果、道路が崩壊して——もっと大きな予算が必要になった)
回答待ちの二日目。
ガルドが城下町の酒場で情報を集めた。
薄暗い酒場の木テーブル。傷だらけの天板にエールのジョッキが置かれている。ガルドの隣に座っているのは——城の衛兵崩れの男だ。かつてガルドが冒険者だった頃に顔見知りだったらしい。
「最近の辺境はどうだ」ガルドが低い声で聞いた。
「ひどいもんさ」男がエールを煽った。泡が唇についている。「魔物が——増えてる。去年の冬から急にだ。辺境の村が三つ、被害を受けた。死者も出てる」
「三つも——」
「ああ。伯爵は騎士団を出したが——兵力が足りん。防衛予算がないんだ。交易が落ちて税収が減ったから——軍事費を削った。その結果が——これだ」
ガルドの右腕の傷痕が疼いた。魔物被害。冒険者時代に何度も見た光景だ。村が焼かれ、人が逃げ、畑が荒らされる。それを止めるために——冒険者がいた。
「レオンハルト副団長は——」
「あの人は優秀だが——一人じゃどうにもならん。三方面に分散して対応してる。騎士団の士気は——限界に近いぞ」
ガルドは黙ってエールを飲んだ。苦い味が喉を通る。酒場の壁に古い冒険者ギルドのポスターが貼ってあった。「辺境魔物討伐——報酬:銀貨五十枚」。かつてはこの程度の金額で冒険者が集まった。今は——報酬を倍にしても人が来ないらしい。
「なあ。一つ聞いていいか」
男がジョッキを置いた。
「お前さん——冒険者を辞めて、何してるんだ。こんな辺境の村にいるって聞いたが」
「守るものができた。それだけだ」
男が笑った。「お前も——変わったな」
「変わったかもしれん。しかし——やることは同じだ。誰かを守る。刃物を持つか、鍬を持つかの違いだけだ」
宿屋に戻り、健悟とマルテに報告した。
「辺境の魔物被害が——深刻化してる。伯爵は防衛予算の不足に頭を悩ませている」
「防衛予算——」健悟が考え込んだ。「交易制限令で税収が減り、その結果防衛費が削られた。つまり——制限令は安全保障にも悪影響を与えている」
「因果が——繋がったわね」マルテが言った。「経済を絞めれば、税収が減る。税収が減れば、軍事費が減る。軍事費が減れば、辺境の守りが手薄になる。伯爵が守ろうとした秩序が——伯爵自身の判断で崩れていく」
皮肉な構図だった。しかし——これは交渉のカードにもなる。
リーゼが窓辺で、宿屋の部屋から城下の景色を見ていた。
「カッセルの街は——ハルベルトよりずっと大きい。でも——元気がないね」
「見た目は大きくても、中身が空洞化し始めてる」マルテが帳簿を閉じた。「ハルベルトの方が——今は活気があるわ。皮肉よね」
「でも——伯爵はそれを知ってるのかな。城の中にいたら——市場の空き店舗は見えないかもしれない」
「知ってるわよ。あの人の目なら」
マルテの声に——尊敬とも恐怖ともつかない響きがあった。あの伯爵の目は——全てを見通す目だ。城下の経済悪化も、ハルベルトの成長も、健悟の正体の疑惑も。全てを見た上で——判断を下そうとしている。
回答待ちの三日目の夜。
宿屋の部屋の扉を、誰かが叩いた。控えめな、しかし急を告げるノック。
健悟が扉を開けた。
廊下に男が立っていた。フードを被り、顔を隠している。しかし——声で分かった。伯爵城の顧問官。ヘルマンではない。もう一人の——若い方の顧問官だ。名はブルーノ。ザインが城内の人物について教えてくれた時に聞いた名前だ。
「夜分に失礼する」
ブルーノが部屋に入り、扉を閉めた。廊下を忍ぶ足音がまだ耳に残っている。扉の金具がかちりと鳴った。
「単刀直入に言おう。伯爵閣下は——拒否に傾いておられる」
健悟の胸が冷えた。マルテとリーゼが顔を見合わせる。ガルドだけが——表情を変えなかった。
「しかし——条件次第では、話が変わる」
「条件——」
ブルーノが声を潜めた。部屋の隅に吸い込まれるような小声だ。
「ハルベルトの代官を——伯爵が指名する権利。現在のザインを解任し、伯爵が選んだ人物を代官として送る。それが条件だ」
リーゼの顔が強張った。ザインを——解任する。ザインは味方だ。伯爵のために報告書を書きながらも、ハルベルトのために動いてくれた人物だ。
「それは——」
「私の提案ではない。伯爵閣下の——考えの一つだ。公式な提案ではない。だから——非公式に来た」
ブルーノの目が暗闇の中で光った。この男が何を考えているのか——健悟には読めなかった。善意か。それとも——伯爵の意図を別の形で伝えるための使者か。
「お答えは——」
「一晩考えます」
健悟が静かに言った。ブルーノが頷き、音を立てずに部屋を出た。足音が廊下を遠ざかり、静寂が戻った。
四人が顔を見合わせた。
「代官指名権——」マルテが腕を組んだ。「ザインさんの代わりに、伯爵の息のかかった代官が来る。それは——ハルベルトの自治を失うということよ」
「しかし——制限令の緩和は得られる」
「交換条件としては——重すぎるわ」
リーゼが黙っている。碧い目が床を見つめていた。署名簿を握る手が——震えている。
「ザインさんは——味方だよ。あの人がいなかったら——ここにも来れなかった。ザインさんを切って得る交渉なんて——」
「リーゼ。感情で判断するな」ガルドが言った。「しかし——俺も反対だ。味方を売って得る勝利は——長続きしない。冒険者時代に何度も見た。裏切りの上に築いた同盟は——すぐに崩れる」
健悟は窓辺に立った。夜のカッセルの街が眼下に広がっている。灯りが点在し、時折馬車が通る音がする。
(受けるか、断るか。代官指名権を渡せば——制限令は緩和される。しかしザインを失う。ザインがいなければ——伯爵との交渉チャンネルが消える。短期的利益と長期的リスク。国交省の判断基準なら——断る。しかし——ここは国交省ではない。村の未来が懸かっている)
答えを出す前に——夜空に、赤い光が走った。
健悟が窓の外を見た。北の方角。地平線の近くに——赤い光の筋が上がっている。一つ——二つ——三つ。等間隔で、三本の赤い光が夜空に伸びていた。
「あれは——」
「狼煙だ」ガルドが窓に駆け寄った。顔が険しくなった。「三方向から同時に——辺境の村が、助けを求めている」
遠方から——微かに鐘の音が聞こえた。伯爵城の方角だ。警鐘が鳴っている。
政治の話は——終わりだった。戦が始まろうとしている。




