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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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秩序と変革

 謁見の間。ヴェルナー・カッセル辺境伯が玉座から身を乗り出した。灰色の髪に白いものが混じった五十代の男が、鋭い目で健悟を見ている。左右に文官が二人。書記が羽ペンを構えている。レオンハルトが玉座の横に立ち、腕を組んでいる。


「まず——お前の素性を聞こう。ハルベルトの査察報告では『遠い国から来た技術者』とある。だが具体的な国名は空白であるな」


 ザインの報告書。「技術の由来:空白」。あの空白が——今、問われている。


 健悟は一歩前に出た。膝をつかない。この世界の礼法に則り、軽く頭を下げる。


「遠い国の行政機関で、公共事業の計画と管理を担当していた技術者です。国名は——申し訳ありませんが、この世界の地図には載っていません」


 嘘は言っていない。しかし全てを話してもいない。伯爵の目が細くなった。


「地図に載っていない——つまり、答える気はないということであるか」


「答えられない事情があります。しかし——技術は本物です。事業計画書の数字は全て検証可能です」


 伯爵が巻物を広げた。事業計画書の第四章——費用便益分析のページだ。


「費用便益比一・八。年間便益銀貨三百六十枚。——この数字は何を根拠にしている」


 来た。数字の話だ。ここからは——健悟の土俵だ。


「根拠は三つです。第一に、テール川の水運による輸送コスト削減。陸路との比較で一荷物あたり六割減。年間の荷物取扱量の想定は、ヴァッサー商会の現行取引量を基準に算出しています。第二に——」


 健悟は事業計画書の該当ページを指しながら、一つ一つ説明した。前世の国交省で百回以上やったプレゼンテーション。声のトーン、間の取り方、数字の見せ方。全てが——体に染み付いている。


 伯爵は黙って聞いていた。時折、左右の文官に何かを耳打ちしている。文官が手元の帳面と照合し、計算を走らせ、伯爵に頷き返す。数字を——リアルタイムで検証しているのだ。前世の財務省でも同じ光景を見た。主計官が数字を聞きながら、横の担当者に「裏取り」させる。権力者が数字を鵜呑みにしない——それは有能な証拠だ。


「——以上が、費用便益分析の根拠です」


 沈黙。伯爵が巻物を閉じた。文官の一人が小さく頷いた。もう一人が——メモに何か書き込んでいる。おそらく質問事項だろう。しかし伯爵はそれを待たなかった。


「数字については——認める。計算に矛盾はないようであるな」


 文官が頷いた。伯爵は自分で判断するが、専門家の確認も怠らない。有能な領主だ。


「しかし」伯爵が立ち上がった。玉座の前に立つ。身長は健悟より少し高い。灰色の目が——真正面から健悟を見ている。「利益は認める。問題は——秩序であるな」


「秩序——ですか」


「辺境の一村が、独自に港湾を建設し、交易同盟を結び、古代遺構を活用する。前例がない。前例がないということは——制度の外にあるということだ。制度の外にある事業が成功すれば——他の村も同じことをしたがる。そうなれば——領内の秩序が乱れる」


 健悟の心臓が冷えた。この反論は——予想していた。しかし聞くと重い。伯爵の懸念は正当だ。一つの村の成功が——他の村の無秩序な模倣を生む。それは——領主にとって最大のリスクだ。


「お言葉ですが——」


「健悟さん」


 マルテが一歩前に出た。帳面を胸に抱えている。


「伯爵閣下。ハルベルトの商人、マルテ・ヴァイスと申します。秩序の問題について——商人の観点から申し上げてよろしいでしょうか」


 伯爵の眉が動いた。辺境の村の商人が——公聴会で発言する。これも前例がない。


「許す。申せ」


「ありがとうございます」マルテが帳面を開いた。手は震えていない。声も震えていない。ロッテの娘は——ここぞという場面で肝が据わる。


「秩序の問題は——制度で解決できます。ハルベルト河港を、村の独自事業ではなく、伯爵領の公共港湾として位置づけてはいかがでしょうか」


「公共港湾——」


「はい。伯爵閣下の管轄下に置く。使用料の一部を領主に上納し、代官を港湾管理に参加させる。そうすれば——前例にならない。なぜなら——これは伯爵が認可した公共事業になるからです。他の村が模倣したければ——同じ手続きを踏む必要がある。つまり——伯爵閣下の許可が必要になる」


 伯爵の目が——光った。知性の光だ。マルテの提案の意味を——瞬時に理解している。


「公共港湾——つまり、私の管轄下に置くことで、前例ではなく制度にすると」


「その通りです。制度の中にあれば——秩序は保たれます」


 健悟は驚いた。マルテの提案は——自分が考えていたものと同じだった。しかし自分から言うよりも——村の商人から出た方が、説得力がある。伯爵にとっても——村側から歩み寄った形になる。


 伯爵が玉座に戻った。腰を下ろし、顎に手を当てた。考えている。文官たちが何かを囁き合っている。


「条件がある」


 全員が息を止めた。


「第一。使用料の三割を領主に上納するものとする」


 マルテの目が鋭くなった。三割は——高い。しかし交渉の余地がある。


「第二。伯爵府の代官一名を港湾管理に参加させる」


 これは想定内だ。


「第三。半年以内に港湾を稼働させよ。稼働しなければ——許可を取り消す」


 半年。厳しい期限だ。しかし——工程表では五ヶ月半で完成する見込みだ。ギリギリだが、不可能ではない。


 健悟が口を開こうとした。しかし——マルテが先に動いた。


「閣下。使用料の三割上納について——修正をお願いしたいのですが」


「何であるか」


「初年度は二割。二年目から三割。初年度は建設費の回収が残っているため——出資者への還元が圧迫されます。二割であれば——出資者のヴァッサー商会も納得します」


 伯爵が——初めて笑った。薄い笑みだが、確かに口角が上がった。


「商人というのは——どこまでも数字で話すものであるな」


「利益が出なければ、事業は続きません。続かない事業は——閣下にとっても損です」


「……もっともであるな。——初年度二割、二年目以降三割。認める」


 マルテが——小さく拳を握った。交渉で一歩を勝ち取った。銀貨にして年間数十枚の差だが——それは原則の問題だ。交渉で押し返せるという前例を——ここで作った。


 伯爵が立ち上がった。


「許可を出す。ただし——条件付きであるな。半年の期限を忘れるでないぞ」


 健悟が膝をついた。リーゼが頭を下げた。マルテが帳面を閉じ、深く一礼した。ガルドは——剣の柄から手を離し、静かに頭を下げた。


 許可が——出た。


 謁見の間を出たとき、リーゼの膝が——震えた。ガルドが肩を支えた。


「よくやった、リーゼ」


「ガルドさん——足が、動かない——」


「緊張が解けたんだ。当然だ。伯爵の前で立っていただけで——大したもんだ」


 ガルドが珍しく穏やかな声で言った。かつて冒険者パーティのリーダーだったレオンハルトに命を預けた男が——今は、二十歳の村長を支えている。


 マルテは廊下の壁にもたれかかっていた。帳面を胸に抱え、目を閉じている。


「——疲れた。イレーネとの交渉の百倍疲れたわ」


「しかし勝った」健悟が言った。


「勝ったんじゃないわ。——合意したの。勝ち負けじゃない。お互いが——少し損をした地点を見つけた」


 健悟が笑った。イレーネとの交渉の時に自分が言ったことを——マルテが実践した。「お互いが少し損をする地点」。交渉の本質を——この若い商人は体で覚えた。


 レオンハルトが近づいてきた。金色の髪が廊下の蝋燭の光に揺れている。


「よくやったな」


 それだけ言って——去っていった。しかし声に——わずかな温かさがあった。査察官の職務を超えた——個人的な感情。ガルドがそれを聞いて、小さく笑った。


「あいつは——変わっていないな。褒めるのが下手だ」


 城の外に出ると、冬の夕陽が城壁を赤く染めていた。長い影が石畳に伸びている。四人は馬車の横に立ち、城を見上げた。


「帰ろう」リーゼが言った。碧い目に涙が——滲んでいた。嬉しさと、安堵と、疲労が混ざった涙。「みんなが待ってる」


 健悟は革の筒——空になった筒を見た。四十二ページの書類は伯爵の手元に残した。前世で書いた何百もの書類の中で——これが最も大事な書類だった。そして——初めて、書類が人を守った。


 (前世では——書類に殺された。ここでは——書類で生きている。同じ書類なのに——何が違うんだろう。……違うのは、書く理由だ。前世は上司の命令で書いていた。ここでは——自分の意思で、自分の村のために書いている)


 帰路の馬車の中で、マルテが帳面に書き込みを始めた。


「上納二割の初年度——経費を組み直さないと。イレーネへの還元額が変わるわ」


「もう仕事?」リーゼが呆れた。


「仕事よ。許可が出たら——次は実行。数字は待ってくれないの」


 ガルドが馬車の横を歩いている。剣の柄に手を置き、前を見ている。


「半年か。——厳しい期限だな」


「間に合います」健悟が答えた。「工程表通りにいけば——一ヶ月の余裕がある。ただし——不測の事態がなければ」


「不測の事態は——いつでも起きるぞ。冒険者時代の経験から言えば」


 ガルドの言葉は——予言のようだった。しかしこの時の健悟には、それがどんな形で現れるか——まだ分からなかった。冬の星空が、帰路の上に広がっていた。

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