たかが五十年の工事でしょう?
南側百メートル。高さ三メートル。改良マギクリートの灰色の壁が、冬の日差しを受けて淡く光っている。壁の上部に三基の見張り台が等間隔で並び、各台に魔力灯が設置されている。壁の内側には四つの補給庫。壁の中を排水溝が走り、雨水を外側に排出する仕組みだ。一つの構造物に四つの機能。
ロッテが広場に長テーブルを並べ、祝いの食事を用意していた。
トビアスが一番乗りで席についた。十二日間の重労働で日焼けが一段と濃くなっている。ヴァッサーから来た人夫たちも同じテーブルについている。最初はよそよそしかった両者が、十二日間壁を積む中で自然と打ち解けていた。汗を流す仕事は、言葉より早く人を繋ぐ。
「乾杯!」リーゼがエールの杯を掲げた。
歓声が上がった。ドラガが一杯目を一息で飲み干した。グリュックが負けじと二杯目を注文した。師弟の酒量対決が始まっている。
ノルンが涙ぐんでいた。
「こんな立派な壁が——あたしが生きているうちに見られるとは思わなかったよ」
「ノルンさんが塗った防水材のおかげです。排水溝の防水が完璧でした」
「やめておくれ。褒められると照れるんだよ」
ノルンが薬草茶を飲みながら笑った。しわだらけの顔が——柔らかく綻んでいる。この村に光が戻り、水が通り、壁が立った。老婆の目に映る村は——かつての姿を取り戻しつつある。
マルテが帳面を広げた。祝いの席でも数字は手放さない。
「第一区画の工費、銀貨百二十枚。予算内よ。イレーネの人夫派遣分を差し引いても——」
「マルテ。今日は帳面を閉じなさい」ロッテが娘を叱った。
「お母さん! 商人に帳面を閉じろと言うのは、剣士に剣を置けと言うのと——」
「置け」ガルドが横から一言。マルテが「えっ」と固まった。ガルドの冗談は珍しい。周囲が笑った。
午後。祝いの席が落ち着いた頃、健悟は一人で上水道の浄水施設を歩いていた。
防壁を見上げながら、《万象鑑定》を発動した。
【構造物:ハルベルト防壁・第一区画】
【壁体強度:設計値の103%(自己修復作用により微増)】
【排水機能:正常稼働】
【耐用年数:推定140年以上】
百四十年。改良マギクリートの自己修復機能が——時間とともに壁を強化していく。建てた瞬間が最も弱い。時間が経つほど強くなる壁。前世のコンクリートとは逆の性質だ。古代ドワーフが追い求めた「生きた建材」に——一歩近づいている。
排水溝の勾配も設計通りだ。壁の中を流れる水音が微かに聞こえる。雨水を集めて外側に排出する仕組みが、既に稼働を始めていた。
「興味深い数値ですね」
背後からフェリスの声がした。振り返ると、銀髪のエルフが浄水施設の計器を確認しながら歩いてきていた。
「百四十年以上の耐用年数。設計時の予測を上回っています」
「フェリスさんの魔力注入が効いているんだと思います。自己修復の活性化が想定以上に進んでいる」
「それは建材の品質とドラガ殿の製造技術によるものです。私の寄与は限定的です」
フェリスは謙遜しているのか、事実を述べているだけなのか——判別がつかない。おそらく後者だろう。このエルフは、感情を排した分析が常に先に立つ。
「では——次の計画に移りましょう。下水道の設計と河港の予備調査があります。五十年もあれば充分でしょう」
「五十年——」
健悟が笑った。苦笑ではなく——柔らかい笑みだった。
「フェリスさん。五十年は人間にとって一生の大半です」
「存じています。人間の平均寿命は六十年から七十年」
「寿命の話ではなくて——五十年を費やすということは、人生をかけるということです」
フェリスが首を傾げた。琥珀の瞳が、本気で不思議そうに健悟を見ている。
「たかが五十年の工事でしょう? エルフの感覚では——午前中の作業です」
一瞬の沈黙。
健悟が——声を出して笑った。前世では滅多に出さなかった、腹の底からの笑いだった。
「午前中——」
「何がおかしいのですか」
「いえ。嬉しいんです。五十年を午前中と言えるフェリスさんがいれば——この村のインフラは長く守られる」
「当然です。私が注入した魔力は、百年は持続します」
「だったら——俺は人間の寿命で最大の成果を出す設計にします。五十年じゃなく、十年で同じ結果を出してみせますよ」
フェリスの目が——わずかに見開かれた。そして、かすかに——本当にかすかに——口角が上がった。
「興味深い宣言ですね。——実現できるかどうか、見届けましょう」
「見届けてください。フェリスさんにはそれができる」
二人の間を冬の風が吹き抜けた。寿命の壁がある。健悟が全力で十年働いても、フェリスにとっては一瞬だ。しかしその壁を超えて、技術を継承することはできる。フェリスが見届け、次の世代に伝える。エルフの時間と人間の時間が——ここで交差している。それは悲しいことではなく、美しいことだと健悟は思った。
夕方。リーゼが浄水施設の前を通りかかった。
「二人とも、何してるの?」
「次の工事の相談を——」
「お祝いの日に!」リーゼが呆れた。しかし笑っている。亜麻色の髪が夕日に透けて金色に光っている。「この村に来てくれる人は——みんなちょっとおかしいね」
「おかしい、ですか」フェリスが首を傾げた。
「おかしいよ。過労死した元官僚でしょ、追放されたエルフの学者でしょ、放浪のドワーフの鍛冶師でしょ。普通の人は来ないよ、こんな辺境の村に」
「私も含まれますか」
「もちろん! 一番おかしいのは——この村を好きになっちゃったところだよ」
リーゼが笑った。フェリスは「否定はしません」と小さく答えた。
夜。健悟は一人で堤防の上に立っていた。
眼下にハルベルトの夜景が広がっている。魔力灯が街道沿いに並び、柔らかな青白い光が村を包んでいる。宿から明かりが漏れ、鍛冶場の方角から炉の赤い光が見える。防壁の第一区画が、見張り台の灯りと共にぼんやりと浮かび上がっている。
かつて暗闇だった村に、光が灯った。橋が修繕され、堤防が建ち、街道が復旧し、水が通り、壁が立った。人口五十人の寒村が——少しずつ、しかし確実に変わり始めている。通りすがりの旅人が「活気がある」と評する村になった。イレーネの商会が拠点を置き始めた。かつての交易都市ハルベルトの再生が——始まっている。
(前世では——東京の夜景を見下ろしたことがある。国交省の庁舎の二十階から。あの夜景は美しかった。しかし——あれを作ったのは俺ではない。ここの灯りは——俺たちの手で灯した灯りだ)
風が吹いた。冬の風だ。しかし冷たさの中に——温もりがあった。村の煙突から立ち上る煙。パンの焼ける匂い。遠くで誰かが笑っている声。
健悟は灯りを見つめていた。この村で定時退社は実現できていない。しかし——この仕事は、終電に追われる仕事とは違う。自分の意思で、自分が納得する仕事を、信頼できる仲間と一緒にやっている。それだけで——前世の自分が羨むだろう。
翌朝。
朝の空気がいつもと違った。
ガルドが最初に気づいた。冒険者の勘だ。街道の東から——地面が微かに震えている。複数の馬蹄が近づいている。大地を規則正しく叩く音。訓練された騎馬の音だ。
「全員起きろ!」
ガルドの声が村に響いた。自警団が詰所から飛び出す。リーゼが宿から駆け出してきた。健悟がすぐ後に続く。
街道の東の丘の上に——朝日を背に騎馬隊が現れた。
八騎。先頭の騎手が辺境伯の紋章旗を掲げている。鎧が朝日を反射して眩しく光っている。統制の取れた隊列だ。自警団とは次元が違う。訓練された軍の動きだ。
先頭の騎手が、兜を外した。
金色の髪が朝日に靡いた。鋭い眼差し。四十代半ばの、彫りの深い顔立ち。頬に古い傷がある。背筋が真っ直ぐ伸びている。完璧な姿勢で、完璧な表情。感情を一切見せない顔だ。
ガルドの手が剣の柄を握った。握りしめた。そして——離した。
「レオンハルト」
騎馬隊の先頭が、村の入口で止まった。金髪の騎士が馬上からガルドを見下ろした。
「久しぶりだな、ガルド」
声は静かだった。低く落ち着いている。しかし——冷たくはなかった。
騎士が革の筒を差し出した。辺境伯の紋章が刻印された封蝋がされている。
「辺境伯ヴェルナー・カッセルの親書だ。——ハルベルト村長宛て」
リーゼが一歩前に出た。亜麻色の髪の村長が、騎馬隊の前に立つ。小さな体が、朝日の中で影を落とした。
「受け取ります」
リーゼの声は震えていなかった。健悟がその横に並んだ。
親書の封蝋は——まだ割られていない。中身は分からない。召喚か、査察か、管理強化か。あるいは——もっと厳しい内容か。しかし辺境伯の紋章を刻んだ赤い封蝋が、これまでの猶予が終わったことだけは確かに告げていた。
レオンハルトの視線が村を巡った。防壁を見た。一瞬だけ目が細くなった。魔力灯を見た。街道の舗装を見た。そして——ガルドの顔に戻った。
朝日が二人の間に長い影を落としている。かつてのリーダーと前衛。二十年の歳月が、二人の間に横たわっている。
ハルベルトの新しい朝が——始まった。




