防壁起工——村を守る意志を形に
村の南側——テール川と街道に挟まれた広い平坦地が、防壁の建設予定地だ。健悟が測量杭を打ち、フェリスの魔法ペンで描いた設計図を基に基礎のラインが引かれている。冬の冷えた朝、白い息を吐きながらトビアスが鍬を振り下ろした。
「建設班、作業開始!」
トビアスの号令に、若い男たちが応えた。農閑期に入り、畑仕事の手が空いた村人が十二人。これに加えてイレーネがヴァッサーから派遣した職人と人夫が八人。合計二十人の建設隊だ。村の工事としては過去最大の規模になる。
健悟は現場を歩き回りながら、地面に手を当てた。
【地盤情報:防壁基礎予定地・南側】
【地質:砂質粘土(N値12)】
【地耐力:推定50kN/㎡】
【地下水位:GL-2.3m】
「地耐力は十分。地下水位も問題ありません。——ただし、排水溝の深さは二メートル以上確保する必要があります」
グリュックが隣で頷いた。
「地下水との間に余裕を持たせるんじゃな。排水と地下水が混ざると——汚染が起きる」
「その通りです。上水道の教訓を活かします」
防壁の設計は、健悟のこれまでの仕事の集大成だった。古代の統合設計思想を取り入れた多機能構造物。壁の内部に排水溝を組み込み、定期的に壁体外側に雨水を排出する。壁の上部には三箇所の見張り台を設け、各台に魔力灯を設置する。壁の内側には等間隔で補給庫を作り、緊急時の物資備蓄に使う。一つの壁が、防御・排水・照明・備蓄の四つの機能を兼ねる。
(前世の高速道路の遮音壁を思い出す。あれも壁としての遮音機能に加えて、排水機能と太陽光パネルを一体化した多機能構造物だった。予算が限られた自治体で、一つの構造物に複数の機能を持たせるのは——財政難の定石だ)
しかし人手が足りない。二十人では、この規模の防壁を一月以内に完成させることはできない。第一区画——南側の百メートル分を、まず完成させる。残りは後続工事として計画する。
ガルドが朝の巡回から戻ってきた。自警団の配置を済ませた後、防壁予定地を歩いている。軍事的な目で地形を見ている。
「ここに門を設けるなら——左右の壁を厚くしろ。門は壁の弱点だ。攻撃を受けるとしたら門からだ」
「門を攻撃するような敵が来ますか」
「魔物の群れが来ることはある。十年に一度くらいの頻度で——森から溢れ出す。三年前にもあった。あの時は柵と弓だけで凌いだが——犠牲が出た」
ガルドの声が硬い。犠牲の記憶だ。
「防壁があれば——」
「全員守れる。一人も死なせん」
短い言葉だった。しかし重かった。守りたい、ではなく、守れる。ガルドにとって防壁とは、過去の後悔を塗り替える構造物なのだ。
午前中、ロッテの宿にイレーネからの伝書鳩が届いた。
マルテが紙片を広げ、リーゼと一緒に読んだ。
「イレーネの提案——労働者をさらに十五人派遣する代わりに、ハルベルトの交易特権を要求してるわ」
「交易特権?」リーゼが眉をひそめた。
「防壁完成後に開設される検問で、ヴァッサー商会の荷物は通行料免除。さらに——ハルベルト内での優先取引権」
「それは——他の商人に不公平じゃないかな」
「不公平よ。だからこそ交渉が必要なの」
マルテの目が光っていた。商人の顔だ。帳面を広げ、条件の修正案を次々と書き出していく。
「通行料免除は三年間の期限付きにする。優先取引権は特定品目に限定——建材と魔法石粉だけ。他の商品は競争入札。これなら——」
「損しない?」
「しないわ。むしろイレーネの方が譲歩している形になる。十五人の労働力は銀貨にして月額四十五枚分。三年間の通行料免除は——せいぜい銀貨百枚。イレーネは計算ずくよ。長期的な拠点を確保したいのよ」
リーゼが頷いた。数字は苦手だが、マルテの判断は信頼している。
「マルテに全部任せるよ。でも——一つだけ条件を追加して。ヴァッサーの労働者も、うちの村人と同じ待遇にすること。食事も宿も同じ。差をつけない」
「……分かったわ。コストが増えるけど——それがリーゼの流儀なら」
マルテが伝書鳩の返信を書き始めた。商人の字は早い。インクが紙の上を走る音が、小さな部屋に響いていた。
交渉の返事は夕方に届いた。イレーネは条件を飲んだ。三日後に追加の十五人が到着する。これで建設隊は合計三十五人。第一区画の工期が大幅に短縮される。
午後、防壁建設現場。
改良マギクリートのブロックを積み上げる作業が始まった。ドラガの工房で成形された灰色のブロックが、荷車で次々と運ばれてくる。一個あたりの重さは成人男性が抱えられるぎりぎりの大きさだ。トビアスが軽々と二個持ちしているのは例外として。
フェリスが各ブロックに魔力を注入し、接合面の密着を強化する。指先から流れる銀色の光が、ブロックの継ぎ目に沿って走る。グリュックが排水溝の組み込み位置を指示する。坑道技師の目で勾配を読み、水の流れる方向を計算している。
「勾配は百分の二——いや、百分の三は欲しいのう。緩いと水が溜まるぞい」
「百分の三で設計しています。地下の古代排水溝と同じ数値です」
「おお、やるのう」グリュックが嬉しそうに笑った。ドラガとは違い、この弟弟子は感情を隠さない。
ガルドは——黙って壁を積んでいた。
自警団長が命じれば、部下に任せることもできた。しかしガルドは自分の手で石を運び、自分の腕でブロックを積んでいる。大きな背中に汗が光っている。冬の冷たい空気の中で、体から湯気が上がっている。
健悟が隣に立った。
「ガルドさん。指揮に回ってもらった方が——」
「俺は剣しか振れないと思っていた」
ガルドの声が低い。ブロックを一つ持ち上げ、壁の上に据えた。手つきが意外に丁寧だ。
「冒険者時代は、壊すことしかしなかった。魔物を斬り、扉を蹴破り、壁を砕いた。——建てることは、やったことがなかった」
「今は——」
「悪くない」
ガルドが短く言った。壁を積む手は止まらない。一つ一つのブロックを、丁寧に置いていく。剣を振る腕が——壁を積む腕に変わっている。
「守るというのは——こういうことか。剣で斬るんじゃない。壁を積むんだ」
健悟は黙って頷いた。言葉は不要だった。ガルドの背中が全てを語っている。
「でも、ガルドさんの剣がなければ、壁を積む人間を守れません。どちらも必要です」
「……ああ」
ガルドが振り返らずに答えた。声がかすかに揺れていた。四十五年間、剣を振り続けた男が——初めて何かを建てている。そしてその行為を、認めてもらえた。
夕陽が防壁の上端を照らした。まだ高さは腰ほどしかない。しかし確実に——形になり始めている。百メートルのうち、最初の三十メートル分の基礎が完了した。マギクリートの灰色が夕陽に照らされて、淡い琥珀色に輝いている。
リーゼが夕食の差し入れを持って現場にやってきた。大鍋のスープとパンの山。ロッテと二人で作ったのだろう。ヴァッサーから来た人夫たちにも同じ量を配った。差をつけない。リーゼの条件が、早くも実行されていた。
「おいしい」とヴァッサーの職人が言った。「うちの宿場の飯より上等だ」
「でしょ」リーゼが笑った。「ロッテさんの料理は、この辺で一番だから」
夜。建設現場で火を焚き、見張りの自警団員が交代で番をしている。
フェリスは防壁の完成部分に手を触れていた。改良マギクリートに魔力を注入し、自己修復機能を活性化させている。壁が微かに温かくなる。魔力を帯びた建材が——まるで呼吸しているかのようだ。
「フェリスさん」
自警団の若い兵士が声をかけた。フェリスは振り返らなかった。壁に向かったまま、淡々と答える。
「はい」
「あの——ここに来て、どれくらいですか」
「二十日ほどです」
「帰るんですか? いつか」
フェリスの手が——一瞬だけ止まった。そしてすぐに動き出した。
「帰る場所はありません。追放されましたから」
「じゃあ——ずっとここに?」
「分かりません。私はエルフです。ここにいる人間たちは——いずれ皆、老いて死にます」
若い兵士が黙った。フェリスの声に感情はなかった。事実を述べているだけだ。しかし——事実であるがゆえに、重い。
フェリスは壁から手を離した。夜空を見上げた。冬の星が鋭く光っている。
(この壁は二百年持つ。私がここで過ごす時間と——同じくらいだろうか。健悟さんも、リーゼも、ガルドも、ドラガでさえ——この壁より先にいなくなる。私だけが残る。壁と私だけが——この場所を覚えている。この笑い声を。この汗の匂いを)
魔力灯の光が防壁の表面を照らしている。フェリスの手から漏れた魔力が、壁の中に静かに染み込んでいく。長命のエルフが注いだ魔力は——壁と共に、ここに残り続ける。たとえ全員がいなくなっても。
「——悪くありません」
フェリスは小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。百二十年の人生で——初めて、自分の技術が誰かの暮らしを守るために使われている。学院の研究室では決して得られなかった手応えが、指先に残っている。
冬の澄んだ星空の下、防壁が夜露に濡れていた。フェリスの魔力を吸った壁が、かすかに温かい。




