辺境伯の眼——ザイン・ヴァルト着任
秋の朝だった。霧が丘の斜面を這い上がり、街道のマギクリート舗装が湿気を帯びて鈍い光を放っている。トビアスが通行料徴収所で欠伸をしていた。最近は旅人の数が増えた。一日に三、四組が通過する。半年前は——月に一人だったのに。
「馬だ。——一頭。護衛なし」
トビアスが目を細めた。霧の中から、輪郭が浮かび上がる。中背の男。旅装に革鎧。腰に短剣。背中に筒状の革ケース。
「あ——ザインさん」
トビアスが声を上げた。辺境伯の文官ザイン・ヴァルト。三度目の訪問だ。前回は書簡と護衛兵を連れていた。今回は——一人。馬も痩せている。急いで来たのだろう。
ザインが馬を降りた。蹄鉄が石畳を叩く音が止む。ザインは——数秒、動かなかった。街道を見ている。マギクリートの灰色の舗装が、霧の中で東へ延びていく。排水溝が街道の両脇に走っている。側溝の蓋が等間隔に並んでいる。
(これは——前回とは別の村だ)
ザインの内心は、顔には出なかった。しかし、革ケースを握る手が——微かに強くなった。報告書では伝わらない変化がここにある。街道の完成度が違う。工事現場だった場所が——道になっている。本物の、機能する道に。
「通行料は——」
「銅貨三枚ですね。覚えております」
ザインが正確な額を差し出した。前回の記録が頭に入っている。文官の記憶力だ。
「お待ちしてました——ってわけじゃないんですけど、リーゼさんが『そろそろ来るかも』って」
「村長殿の勘は鋭いですね」
ザインが微かに笑った。馬を徴収所の柱に繋ぎ、革ケースを肩にかけ、村に向かって歩き始めた。
霧の中を歩く。堤防が見えた。マギクリートの壁面が朝露で濡れている。前回見た時より——壁の色が均一になっている。補修が入ったのだろう。排水溝の出口から、透明な水が川に流れ落ちている。機能している。設計通りに。
橋を渡った。欄干に手を触れた。石の感触が——以前より滑らかだ。表面が風化するのではなく、むしろ緻密になっている。自己修復の萌芽——報告書にあった記述を思い出した。
ドラガの鍛冶場の煙が見える。煙の色が——以前と違う。白い煙の中に、微かな銀色が混じっている。魔法石粉の処理をしているのか。そして——鍛冶場の隣に、見慣れない作業台が増えている。設計図が広げられ、道具が並んでいる。二人分の作業スペースだ。
(エルフの魔法工学士が加わったと聞いている。ドワーフとエルフの共同作業——辺境伯領で前例がない)
村の広場に出た。井戸端で女たちが朝の水汲みをしている。子供が走り回っている。活気がある。しかしザインの目が捉えたのは、広場の隅に積まれた管状の構造物だった。灰色のマギクリートで成形された——管。直径は掌を広げたほどか。内壁に銀色の光沢がある。防水加工だろう。
上水道。報告書にはまだ記載のない事業が——始まっている。
「ザインさん」
リーゼの声が広場に響いた。村長の家の前に立っている。亜麻色の髪を一つに束ね、朝の光に碧い目が輝いている。
「お久しぶりです、村長殿」
「堅いなあ。リーゼでいいって前も言ったのに」
「では——リーゼ殿」
「殿もいらない」
リーゼが苦笑した。しかし目は笑っていない。ザインの訪問が何を意味するか——分かっている目だ。
「とりあえず中に入って。朝ごはんまだでしょ」
「いえ、まず——閣下からの書簡を」
「ご飯を食べてからにして。空腹で話すと判断を間違えるって、ガルドが言ってた」
ザインは——一瞬、目を瞬いた。そして小さく頷いた。この村のやり方に従う。前回もそうだった。ここでは——辺境伯の権威より、ロッテの焼きたてパンの方が優先される。
朝食の席に、健悟が現れた。
相変わらず目の下にクマがある。ワイシャツは——もはや原形を留めていない。袖口は革の当て布で補修され、ボタンはドワーフ製の金属留め具に置き換わっている。しかし——前回と決定的に違うのは、その隣に座る人物だった。
銀髪のエルフ。白い長衣に革ベルト。琥珀の瞳が、ザインを静かに観察している。
「フェリス・ルーンハイムです。魔法工学を研究しています」
「ザイン・ヴァルトであるな。辺境伯閣下の文官を務めております」
フェリスの目が——わずかに鋭くなった。辺境伯という言葉に反応している。学院を追放された者は、権力者に対して警戒心が強い。ザインはそれを読み取った。
朝食後。書簡を開封した。
辺境伯ヴェルナーの名が記されている。内容は——「定期視察」。前回と同じ文面だ。しかしザインは知っている。前回の書簡にはなかった一文が付け加えられていた。
「——古代遺構に関する追加調査を含む、とあります」
リーゼの碧い目が、健悟を見た。健悟が微かに頷いた。予想通りだ、という顔。
「視察の範囲は?」
「村全体を改めて見せていただきたい。前回の記録と——比較するための視察です」
「比較ね。——いいよ。見たいものは全部見せる。隠すことはないから」
リーゼの声は——前回より強かった。覚悟が入っている。村の変化を、正面から見せる。隠してもいずれ露見する。ならば——堂々と。
ザインが立ち上がった。革ケースから新しい記録帳を取り出す。前回の記録帳は——すでに埋まっている。二冊目だ。この村のためだけに。
「では——案内をお願いできますか」
リーゼが頷いた。碧い目が——まっすぐ前を向いた。この村を見せる。全てを。
視察は街道から始まった。
リーゼが先頭を歩き、健悟が説明を加え、ザインが記録する。三人の足音がマギクリートの路面に響いた。
「ここが最後に完成した区間です。旧街道の石畳をそのまま下地にして、マギクリートで舗装しました」
「荷馬車の通行に耐えうる強度ですか」
「十分です。荷馬車だけでなく——軍用の輜重車両にも耐えられるよう設計しています」
ザインのペンが一瞬止まった。軍用の輜重車両。その発想は——民間人のものではない。しかしザインはメモを続けた。問い詰めるのは今ではない。
堤防の上で、ガルドが待っていた。腕を組み、川面を見ている。ザインが近づくと、視線だけでこちらを認めた。
「また来たか。文官殿」
「定期視察です。ガルド殿」
「俺は殿じゃない。——ただのガルドだ」
「では——ガルド」
ガルドが鼻を鳴らした。しかし、前回のような警戒の色は薄い。ザインが実害のある人物ではないと——半ば認めている。
「街道の巡回は順調ですか」
「問題ない。夜間の見回りも始めた。通行人が増えたからな。——おかしな連中も、たまに紛れてくる」
「おかしな連中——具体的には」
「それは報告書に書かなくていい話だ」
ガルドの目が、一瞬だけ鋭くなった。境界線を引いている。教えることと教えないこと。ザインは頷いた。踏み込まない。今は。
上水道の掘削現場を見た。村人たちが溝を掘っている。マギクリートの管が溝の脇に並んでいる。トビアスが班長として指揮を執っている。半年前に通行料を徴収していた少年が——今は二十人の掘削班を動かしている。
「管の品質を確認してよろしいですか」
ザインが膝をつき、管の内壁に指を触れた。滑らかだ。銀色の光沢がある。防水層。フェリスの魔法工学。
「これは——学院水準の防水加工ですね」
「学院以上です」フェリスの声が背後から響いた。いつの間にか現場に来ていた。「学院の防水技術は理論止まりでした。実用化したのは——ここが初めてです」
ザインが立ち上がった。記録帳に数行を書き加え、革ケースに戻した。
夕刻。ザインはロッテの宿の二階に戻った。
蝋燭の灯りの下で、記録帳を広げた。一日の所見を整理する。羽根ペンが紙の上を走る。
マギクリートの品質向上——従来比八倍の強度。上水道工事の着工。エルフの魔法工学士の参画。ドワーフとエルフの共同作業。村人の組織化の進展。通行料収入の安定。
数字の羅列が、報告書の骨格を形作っていく。しかし——ザインのペンは途中で止まった。
(行政的な物の見方——)
二年前に自分が言った言葉だ。土師健悟の思考回路を評して。あの時は疑問だった。今は——確信に変わっている。この男は、前世で行政官だった。しかもかなり上位の。インフラの連続性を理解し、維持管理の概念を持ち、村人を組織化して公共事業を遂行する。辺境の鑑定士にできることではない。
窓の外で、村の灯りが点々と見えた。新しい灯り——魔力灯だろうか——が、街道沿いに並んでいる。前回はなかった光だ。
ザインは報告書の末尾に、一行を書き加えた。
「なお、本村の発展速度は辺境伯領の他の村落を著しく凌駕しており、その要因は引き続き精査が必要と思料する」
精査——その言葉が、ザインの中で二つの意味を持っていた。辺境伯への報告のための精査。そして——個人としての、この村への関心のための精査。二つの忠誠は、まだ——並走している。しかしいつか、分岐点が来るかもしれない。
蝋燭の炎が揺れた。窓から秋の冷気が忍び込んでいる。ザインは記録帳を閉じ、ペンを拭き、革ケースに戻した。
明日もこの村を歩く。記録する。そして——判断を保留する。それが、今のザイン・ヴァルトにできる、最善の忠誠だった。




