道の両端——繋がった先に待つもの
最初の変化は、音だった。馬蹄の音。車輪が石畳を踏む音。見知らぬ人間の声。五十年間、村人の足音と風の音しかなかった街道に、新しい音が混じるようになった。
二日目に行商人が一人。四日目に商隊が一つ。六日目には旅の吟遊詩人までやってきた。リュートを弾いて村の広場で歌い、子供たちが珍しそうに集まった。歌の内容は王都の流行歌だという。五十年前なら当たり前に流れていた音楽が——今は異国の響きに聞こえる。
健悟は通行料の徴収所に立っていた。橋の手前——街道がハルベルトの領域に入る地点だ。木の机と椅子を置いただけの簡素な場所だが、通行料の設定と記録はすでに整えてある。料金表をマギクリートの板に刻んで掲示した。
「徒歩一人、銅貨二枚。馬車一台、銀貨一枚。商隊は積荷の申告制で——重量に応じた従量制です」
「わかりやすいわね。前世の有料道路と同じ発想?」マルテが帳面を広げた。
「道路特定財源の考え方ですね。通行料は全額、街道の維持管理に充てる。一般財源には入れない。目的税方式です」
「あたしに言わせれば、最初は一般財源に入れて村の運転資金にしたいところだけど——維持費を確保するほうが長期的には正しいか」
「正しいです。日本でも道路特定財源を一般財源化した結果、道路の補修予算が削られて橋梁の老朽化が——」
「はいはい、前の世界の話は三行以内でお願い」
マルテの切り返しが鮮やかだった。商人は過去より未来を見る。帳面のページをめくり、今日の通行記録に目を落とす。
通行料の収入は——予想以上だった。開通七日間で銀貨十四枚。月換算で銀貨六十枚。街道の年間維持費が銀貨百二十枚と見積もっているから、半額は通行料で賄える計算だ。
「残りの半額は」
「マギクリートの販売収益から補填する提案書を——もう書いてあるわよ」マルテが帳面の別のページを開いた。数字がびっしり並んでいる。「イレーネとの定期取引で月に銀貨八十枚の売上見込み。原価を引いて利益が五十枚。維持費に三十枚、残り二十枚を運営資金に回せるわ」
「もう計算してあるんですか」
「商人を甘く見ないでよ」
マルテの目が誇らしげに輝いた。数字の世界では——この村で彼女に勝てる者はいない。
しかし、数字だけでは測れないものもある。
午後。ノルンの家を訪ねた。
老婆は薬草を干す棚の前に座り、記録帳を膝に置いていた。窓から差し込む午後の光が、乾燥した薬草の束を照らしている。部屋中に甘苦い香りが漂っていた。健悟が入ると、いつものように薬草茶を淹れ始めた。火にかけた鉄瓶から湯気が立つ。
「ノルンさん。街道が開通して——どうですか」
「どう、と聞かれてもねえ」
ノルンの声は静かだった。いつもの穏やかな語調だが——どこか違う。言葉を選んでいる。
「あたしは八十年この村にいるよ。若い頃——街道が生きていた時代も知ってる。あの頃は商人が毎日来た。宿屋は三軒あった。鍛冶屋も二軒。パン屋だってあった。村の広場で市が立って、子供たちが走り回ってた」
ノルンが薬草茶を健悟に渡した。指が震えている。歳のせいだけではない。記憶の重さが、手を震わせている。
「街道が死んでから五十年。何度も——何度も期待したよ。村長が代わるたびに『街道を直す』と言った。リーゼの父親もそう言った。計画を立てて、人を集めて——でも途中で挫折した。資材がない、人手がない、金がない。繰り返すうちに——期待すること自体がつらくなった」
健悟は黙って茶を飲んだ。薬草の苦味が舌に広がる。
「今度は——本当に繋がった。人が来てる。でもね、健悟さん」
ノルンの目が健悟を見た。八十年の歳月が刻んだ皺の奥に、鋭い光がある。この老婆は——村の記憶そのものだ。
「繋がった先に何が来るか——あたしは知ってるんだよ。良いものだけじゃない。五十年前に街道が死んだのは洪水のせいだけじゃない。領主が通行税を引き上げて、商人が寄りつかなくなった。宿屋は潰れ、鍛冶屋は去り、パン屋の釜は冷えた。外と繋がるということは——外に振り回されるということだよ」
「覚えておきます」
「覚えておくだけじゃなく——備えなさい。あんたなら、できるだろう。堤防を作ったんだ。水を防いだんだ。人の悪意も——同じように防げるはずだよ」
ノルンが記録帳を閉じた。窓の外を見た。街道を荷馬車が一台、ゆっくりと進んでいく。新しい轍が、マギクリートの路面に刻まれていく。ノルンの目が——少しだけ潤んでいた。期待と不安が混じった目だ。八十年分の経験が、感情を複雑にしている。
夕方。リーゼの執務室——と言っても、村長の家の居間だ。
リーゼが机の上の書類を整理していた。通行記録、物資の受領書、イレーネとの取引覚書。書類の量が——一週間で倍増している。健悟が入ると、疲れた顔を上げた。
「ねえ健悟。見知らない人が増えるの——正直、ちょっと怖い」
「村人から何か?」
「トビアスのお母さんが言ってた。『あの商人、うちの畑を見る目が品定めみたいだった』って。悪い人じゃなかったみたいだけど——慣れてないんだよ、みんな。五十年間、よそ者が来なかった村だから。知らない顔を見るだけで緊張する」
リーゼが髪を束ね直した。亜麻色の毛先が指に絡まる。疲労が滲んでいる。村長の仕事は——道を造ることより、造った後のほうが大変だ。
「物価も上がってる。マルテが言うには、塩の値段が二割上がったって。外から物が入るようになったのに——逆に高くなるの、変じゃない?」
「変じゃないです。需要が供給を上回っているんです。村の購買力が上がったのに、供給量がまだ追いついていない。経済学で言う需給ギャップです。一時的な現象ですが——放置すると村人の不満が溜まる」
「対策って何かある?」
「定期便の確立です。イレーネとの取引で、週に一度の定期輸送を組めれば供給が安定する。安定すれば価格も落ち着きます。加えて——村内の生産も増やす必要がある。自給できるものは自給する」
「また仕事が増えるね」
「増えます。でも——道を造って終わりだと思っていましたか?」
リーゼが苦笑した。「思ってなかったけど——こんなに早く次の問題が来るとは思わなかった」。その顔は——疲れているが、暗くはない。問題があることは、村が動いている証拠だ。停滞した村には問題すら生まれない。
夜。ロッテの宿に明かりが灯っている。
宿は満室だった。開通以来初めてのことだ。旅の商人が二人、行商人が一人、そして——商隊の隊長が一人。ロッテは忙しそうに立ち回っている。洗い物の山。追加の寝具。食材の在庫確認。「昔はこれが普通だったんだよ」とロッテは笑った。「毎晩満室で、皿洗いが追いつかなくて。懐かしいねえ」。
マルテが食堂に出た。商隊の隊長——四十代の男で、顎鬚を蓄えた体格のいい人物だ。名はゲオルク。ヴァッサーからさらに東、ブルクハルトの穀物商だという。テーブルの上に地図を広げ、交易路の話をしていた。
「ハルベルトの街道が開通したと聞いて来た。噂より立派な道だな。あのマギクリートという建材——うちの町の倉庫の床にも使えそうだ。購入は可能か」
「販売は可能よ。ただし——供給量に限りがあるから、長期契約が条件になるわ」
「商売上手だな、嬢ちゃん。——ところで一つ聞きたい。この村の近くに、古い遺構があると聞いた。中継塔とか、古代の街道跡とか」
マルテの目が一瞬だけ鋭くなった。商人の直感が警告を発している。この話題には——裏がある。
「誰から聞いたの?」
「ヴァッサーで辺境伯の測量士と飲んだ時にな。連中、やたら古い地図に興味を持っていた。何でも——辺境伯閣下が直々に調査を命じたとか」
マルテは表情を変えなかった。グラスを傾け、葡萄酒を一口飲んだ。喉が渇いているわけではない。間を取るための動作だ。
「古い遺構ならこの辺にはいくらでもあるわよ。三百年前の村の跡とか、朽ちた石垣とか。観光名所にもならない廃墟ばかり。辺境伯閣下も物好きね」
「ふむ。——まあ、俺には関係ない話だ。穀物が売れればそれでいい」
ゲオルクはそれ以上追及しなかった。興味本位の質問だったのか、それとも誰かに頼まれた探りなのか——判断がつかない。マルテは内心で情報を整理した。
(辺境伯の関心は古代遺構。ザインの報告書がきっかけ——じゃない。ザインが去る前から測量士はヴァッサーにいた。つまり、伯爵府は以前から古代遺構に目をつけていた。ハルベルトの街道復旧は——遺構へのアクセスが開くという意味もある)
食堂を出て、裏口からリーゼの家に向かった。夜風が冷たい。街道の向こう——東の空に、星が瞬いている。
「リーゼ。起きてる?」
「起きてるよ。——何かあった?」
「あったわ。辺境伯の本当の関心が何か——少しわかったかもしれない」
マルテの声は低く、真剣だった。星明かりの下で——二人の影が寄り添った。窓から漏れる宿の灯りが、街道の石畳を微かに照らしている。その灯りの中を——今日も新しい轍が通っていった。
道は繋がった。繋がったことで、村は豊かになり始めている。同時に——繋がった道の向こうから何が来るかは、まだ誰にもわからなかった。ノルンの言葉が耳に残っている。「外と繋がるということは——外に振り回されるということだよ」。八十年の知恵は——重い。




