二つの忠誠——文官の迷い
滞在四日目。辺境伯ヴェルナーの命を受けてハルベルトに赴いてから、彼は毎朝同じことをしている。村の端から端まで歩き、記録帳に所見を書き留める。文官としての習慣だ。正確な報告は、正確な観察から始まる。
しかし——この村は、観察すればするほど報告書が書きにくくなる。
街道工事の現場を見た。マギクリートと呼ばれる灰色の建材が、旧街道の石畳の上に整然と敷かれている。工事は八割がたを終えていた。村人たちが朝早くから砂利を運び、型枠を組み、トビアスという若い農夫が的確に指示を出している。建設班と呼ばれるチームが、二十人ほどの村人を束ねて動いていた。
五十人の村で、この規模の土木工事を遂行している。
ザインは記録帳に数字を書いた。工事延長、推定投入人時、使用建材の量。すべて辺境伯領の他の村では考えられない数値だった。王都の工兵隊でも、これだけの効率は出せないかもしれない。
(伯爵閣下は「異常な発展」と仰った。確かに——異常ではある。だが異常の質が問題だ。これは反乱の兆候ではない。単に——有能な人間が一人いるだけだ)
工事現場の脇で、ドワーフの老人が建材の配合を調整していた。ドラガという名だ。白い顎鬚を揺らしながら、砂利と粉末を混ぜている。その手つきは——二百年の経験が凝縮された、無駄のない動きだった。ザインは職人の技を見る目は持っていないが、それでもわかる。この老人は一級品の技術者だ。
堤防も見た。テール川沿いに延びるマギクリートの壁。雨季の洪水を被害ゼロで凌いだという話は、ヴァッサーにまで届いている。ザインは堤防の天端に立ち、水面との距離を目で測った。設計通りの余裕高が確保されている。排水溝も機能している。これを——五十人の村が自力で造った。
仮宿に戻り、机の前に座った。
蝋燭の灯りの下で、報告書の下書きを広げる。羽根ペンを手に取り——止まった。何度目かの逡巡だ。
辺境伯ヴェルナー・カッセルは、慎重な人物である。有能であり、領地経営は安定している。しかしその安定は「変化を制御する」ことで成り立っている。予測できない変化は、それが善であれ悪であれ、脅威と見なす。秩序を守るとはそういうことだ。
ハルベルトの変化は——予測の範囲を超えている。
ザインがペンを走らせた。「土師健悟なる人物が主導する基盤整備は、現時点では周辺地域への影響は限定的であり——」
ペンが止まる。嘘ではない。しかし真実の全体でもない。街道が完成すれば影響は限定的ではなくなる。隣町ヴァッサーとの交易が始まれば、物流が変わる。物流が変われば——権力構造が変わる。それは辺境伯領の均衡を揺さぶりかねない。
(これを正直に書けば、伯爵閣下は即座に介入を命じるだろう。書かなければ——文官としての職務に反する。二つの忠誠が——ぶつかっている)
ザインは椅子の背にもたれた。天井の木目を数える。古い宿屋だ。ロッテという女将が毎朝、頼んでもいないのに温かい朝食を出してくれる。薬草茶と堅焼きパンと干し肉のスープ。素朴だが丁寧な食事だ。帳簿をつけながら「宿代に含まれてるから遠慮しないで」と笑う女将の顔が——印象に残っている。
監視対象の村で、もてなされている。伯爵府の執務室では、冷たい水と乾いたパンが昼食だ。ここの食事のほうが——遥かに人間らしい。
複雑な気分だった。
午後、工事現場に足を運んだ。
土師健悟が設計図を広げていた。街道の最終区間——渓谷に架ける橋の概略図だ。マギクリートの橋脚、アーチ構造の主桁、石畳の路面。紙の上に引かれた線は、ザインが見慣れた王都の建築図面とは違う。もっと緻密で、もっと実用的だ。応力、荷重、安全率——文官には半分も理解できない専門用語が並んでいる。
「ザインさん。見学ですか」
「視察であるな。——言い方は同じだが、立場が少し違う」
健悟が苦笑した。眉間の皺が一瞬緩む。この男は——笑うと年齢より若く見える。しかし目の下のクマは消えない。いつ見ても寝不足の顔をしている。昨夜も遅くまで設計図に向かっていたのだろう。
「この村に必要なのは監視ではなく支援です。ザインさんも、四日間見ていてわかるのではありませんか」
ザインは黙った。三秒。五秒。返事を選んでいる。文官は言葉を選ぶ生き物だ。
「私は伯爵の臣下であるな。あなたの味方ではない」
「わかっています」
「わかっているなら——なぜそんな穏やかな顔で言うのだ」
健悟の表情は平静だった。怒りも焦りもない。ただ事実を述べる顔だ。
「支援と言ったのは、具体的には何を指すのだ」
「街道完成後の通行税の取り扱いです。辺境伯領の税制に、新規街道の通行収益に関する規定がない。規定がなければ——全額を辺境伯が召し上げることも可能です。それでは村に維持費が残らない」
「維持費か」
「道は造って終わりではありません。毎年の補修費、排水溝の清掃、路面の再舗装。魔物被害による破損の修繕。維持管理を怠れば——三年で元に戻ります。造った意味がなくなる。前の世界でも、道路を造っておきながら維持費を削った結果、橋が崩落した事例が——」
健悟が言葉を切った。前の世界の話は出さないようにしているのだろう。しかしザインの記録帳は正確だ。「前の世界」。この男は——どこか別の場所から来たのか。天恵として鑑定スキルを得た異邦人。それだけでは説明がつかない知識の深さがある。
ザインは記録帳に書いた。「通行税に関する制度整備の必要性——当事者より指摘あり。論拠は明確かつ合理的」。文官としての癖が出た。指摘が正当であれば、出所に関係なく記録する。そして——この指摘は、ザインがこれまで伯爵府で見てきたどの陳情よりも論理的だった。
夕刻。村の出口。
ザインは馬に荷を括り付けていた。四日間の滞在を終え、辺境伯の居城に戻る。夕日が街道のマギクリートを橙色に染めている。村人たちがまだ工事を続けていた。日没まで働くつもりらしい。
リーゼが見送りに来ていた。亜麻色の髪が夕日に透けている。
「短い滞在だったね、ザインさん」
「必要な調査は済んだのでな。——村長殿の治世は、なかなかのものであるな」
「お世辞はいいよ。報告書に何を書くかのほうが気になるんだけど」
リーゼの目は笑っていない。碧い目が真っ直ぐにザインを見ている。この若い村長は勘が鋭い。二十歳で村を背負う人間は——目の奥に鉄を持っている。
「正直に書くつもりだ。文官は嘘を書かない」
「それが一番怖いんだけどね」
ザインは馬の鞍に手をかけた。振り返った。
「一つだけ——個人的な所感を述べるならば」
「うん」
「この村は面白い。五十人の村に、これほどの密度で変化が起きている場所を、私は他に知らない。面白い場所は——壊すより、観察を続けるほうが利口であるな」
リーゼが目を瞬いた。ザインの言葉の裏を読もうとしている。読めたのか、読めなかったのか——表情からは判断できなかった。
ザインは馬に跨がった。革の鞍が軋んだ。
報告書の結論は——すでに決めていた。「当面は監視継続が妥当。急ぎの措置は不要」。事実上の猶予だ。辺境伯がどう判断するかは、ザインの権限の外にある。しかし報告書の書き方ひとつで——判断は変わる。文官はそれを知っている。
街道の工事現場を横目に見ながら、馬を進めた。夕日の中で、村人たちの影が長く伸びている。砂利を運ぶ者。型枠を外す者。水を撒く者。誰一人として手を止めていない。監視役が去るからといって——何かを隠すような気配は微塵もなかった。
(面白い村だ。——いや、面白い男だ。土師健悟。あの目は——何かを諦めた人間の目ではない。何かを取り戻そうとしている目だ。かつて失ったものを——形を変えて、ここで)
マルテが村の出口で待ち構えていた。小柄な体で道を塞ぐように立っている。
「ザインさん。帰る前にひとつ、商談があるんだけど」
「商談? 私は文官であるな。商人ではない」
「この村の交易許可の件よ。辺境伯領の規定では、新規の交易路を開設する場合——伯爵府への届出が必要でしょう。その書式と手続きを教えてほしいの」
ザインは——思わず口元が緩んだ。この村の人間は、文官をただの監視役で終わらせない。
「書式は三通。届出先は商務局。審査に通常二ヶ月かかるが、添付資料が揃っていれば一ヶ月に短縮できるであるな。——帰ったら、様式の写しを送るとしよう」
「ありがとう。損はさせないわよ」
マルテの目が、商人の光で輝いた。
ザインは馬を進めた。ハルベルトが背後に遠ざかっていく。
報告書の結論が——もう一行増えた。「なお、当該村落における交易活動の萌芽については、制度的対応が望ましいと考えられる」。
支援とは書かない。制度的対応。文官の言葉で——できることをする。
それが、二つの忠誠の間でザイン・ヴァルトが選んだ答えだった。
馬が丘の上に達した時、振り返った。ハルベルトの灯りが夕闇の中に点々と見えた。小さな村だ。しかし——灯りの数が、半年前よりも増えている気がした。




