岩狼掃討——インフラ屋の戦い方
鳥の声がない。風すら止んでいる。足元の枯れ葉を踏む音だけが、不自然なほど大きく響く。空気が冷たい。呼吸のたびに白い霧が口元で消える。
健悟はガルドの後ろを歩いていた。ガルドの背中は大きく、視界の半分を占めている。その後ろにトビアスと自警団員のヨルグ。四人の足音が、森の静寂を乱している。
「この先だ」
ガルドが手を上げて止まった。低い声。岩狼の巣の外縁に入った合図だ。
岩場が見えた。苔むした岩が積み重なり、自然の壁を形成している。岩の隙間から——獣の匂いが漂っている。湿った毛皮と、腐った肉の匂い。胃が締め付けられる。
「第一の巣だ。小型。おそらく三頭」
ガルドが岩場を指差した。手信号で「静かに」と示す。冒険者時代の無言指示だ。
健悟は深呼吸した。手が震えている。恐怖だ。前世では——デスクの上の書類が相手だった。今日の相手は岩を噛み砕く牙を持つ魔物だ。
(しかし——やるべきことは同じだ。構造を把握し、弱点を見つけ、対策を立てる。相手が橋でも堤防でも魔物の巣でも——アプローチは変わらない)
岩場の端に手を当てた。《万象鑑定》が起動する。青い構造線が岩の内部に伸びていった。
【構造物:岩狼巣穴(天然岩場改変型)】
【入口:2箇所(南東・北西)】
【通路:幅0.8m×高さ0.6m、全長約12m】
【居室:1室(約4㎡)】
【換気口:3箇所(天井部の岩の隙間)】
【構造強度:岩盤のため極めて高い(人力破壊不可)】
「巣の構造が分かりました」
健悟は小声で報告した。ガルドが耳を傾ける。
「入口が二つ、換気口が三つ。居室は一つ。——換気口を塞いで、入口の一つから煙を焚き込めば、残りの入口から出てくるはずです」
「出てきたところを叩く——か」
「いえ。出口の先に、逃げ道を作ります。木の枝と布で通路を作って、縄張りの外に誘導する。戦闘せずに追い出す」
ガルドが目を細めた。
「本当にそれでいくのか。——失敗したら、煙で怒った岩狼が襲ってくるぞ」
「失敗した場合に備えて——退路は確保してあります。煙が効かない場合は、第二案で直接追い出します」
「第二案は?」
「ガルドさんが戦う案です」
「最初からそう言え」
ガルドが苦笑した。しかし——健悟の計画を否定はしなかった。
トビアスとヨルグが換気口を苔と粘土で塞いだ。健悟が鑑定で密閉度を確認する。空気の流れが止まっている。巣の中の換気が遮断された。
次に——南東の入口に、湿った草と生木の枝を積んだ。煙が多く出る燃料だ。国交省時代、山岳部のトンネル工事で換気の問題を何度も扱った。密閉空間に煙を送り込めば、酸素濃度が下がり、生物は退避する。原理は単純だ。
「点火します」
火打石で草に火をつけた。白い煙が立ち上り、巣穴の入口に吸い込まれていく。風向きが味方した。煙が奥へ奥へと流れていく。
三十秒後——北西の入口から、唸り声が聞こえた。低い、喉の奥から絞り出すような音。次に——足音。爪が岩を引っ掻く音。
「来る」
ガルドが剣を抜いた。構えたが——斬りかかりはしない。待っている。
岩狼が飛び出した。体長一メートル。灰色の毛皮に岩のような鱗が混じっている。赤い目が怒りに燃えている。煙に追われ、パニック状態だ。
しかし——出口の先に、木の枝で作った通路がある。視界を遮る布壁が、岩狼の走路を制限している。ガルドが剣の腹で地面を叩き、金属音を立てる。岩狼が音に反応して方向を変え、通路に飛び込んだ。
二頭目、三頭目が続いた。三頭とも——誘導路に沿って、縄張りの外へ走り去った。森の奥に消えていく。遠吠えが聞こえた。仲間を呼ぶ声——しかし、すでに巣から離れている。
「——成功か」
ガルドが剣を鞘に収めた。信じられないという顔をしている。
「戦わずに三頭を追い出した。——冒険者を二十年やったが、こんな魔物退治は初めてだ」
「魔物退治ではありません。立ち退き交渉です」
「立ち退き?」
「元の世界では——道路工事の前に、その土地に住んでいる人に立ち退いてもらう交渉をしていました。相手の事情を考慮して、代わりの場所を提供する。原理は同じです」
ガルドが呆れた顔をした。
「魔物に代わりの場所を提供する——文官の発想はぶっ飛んでいるな」
トビアスが笑った。緊張が解けた笑い声だ。ヨルグも笑っている。
第二の巣も同じ手法で成功した。五頭の岩狼が煙に追われて退避した。しかし——三つ目の巣は違った。
岩場の規模が倍以上ある。健悟が鑑定すると、居室が三つあり、通路が複雑に入り組んでいた。そして——居室の奥に、異常に大きな熱源が検知された。
【巣穴3:大型個体を含む群れ(推定5-7頭)】
【大型個体:体長推定2m超、通常個体の約2倍】
【警戒レベル:高(ボスクラスの可能性)】
「ガルドさん。三つ目は——大物がいます。体長二メートル超」
ガルドの目が鋭くなった。冒険者の目だ。獲物を見定める目ではなく——脅威を測定する目。
「ボスクラスか。——煙だけでは無理だな」
「はい。煙で小型を追い出した後、ボスは残る可能性があります。縄張りを守ろうとする」
「なら——俺の出番だ」
ガルドが剣を抜いた。鋼の刃が朝日を反射して光った。
煙を焚き込んだ。小型の岩狼が四頭飛び出し、誘導路を走り去った。しかし——巣の奥から出てこない個体がいる。低い唸り声が岩の中から響いている。地鳴りのような低周波だ。
「来い」
ガルドが巣の前に立った。構えは低い。盾はない。剣一本。
岩が砕けた。巣の入口から——大型の岩狼が突進してきた。通常の二倍のサイズ。灰色の鱗が全身を覆い、牙が口からはみ出している。赤い目が——殺意に燃えていた。
ガルドが横に跳んだ。大型岩狼の突進が空を切る。岩が砕ける音。着地の衝撃で地面が揺れた。
「健悟! 弱点は!」
「鑑定します——」
手を地面に押し当てた。大型岩狼が振り返る。足元の振動から情報を読む。《万象鑑定》が、生体構造を解析した。
【大型岩狼:鱗甲部——防御力極めて高(刃物無効)】
【弱点:左後脚関節(古傷あり、鱗甲が薄い)】
【行動パターン:突進→反転→再突進(反転時に左後脚に重心移動)】
「左後脚の関節に古傷があります! 鱗が薄い! 反転する時に重心が左後脚にかかる——その瞬間を!」
ガルドの目が光った。
「承知した」
大型岩狼が突進した。ガルドは動かない。地面が揺れる。巨体が迫る。あと三メートル、二メートル——ガルドが右に跳んだ。岩狼が通り過ぎる。反転——左後脚に重心がかかった瞬間。
ガルドの剣が閃いた。斜め下から斬り上げる一撃。刃が——鱗の薄い関節に吸い込まれた。
大型岩狼が悲鳴を上げた。足が折れ、バランスを崩し、地面に倒れた。ガルドが追撃せずに距離を取る。大型岩狼は——足を引きずりながら、森の奥に走り去った。
殺さなかった。追い出しただけだ。
「ガルドさん——すごい」
「お前の鑑定のおかげだ。弱点が分かれば——一撃で十分だ」
トビアスが盾を構えたまま呆然としていた。途中でガルドの右腕の古傷が疼いて一瞬鈍った時、盾で割り込もうとした姿勢のまま固まっていた。
「トビアスさん。割り込んでくれようとしたんですね」
「い、いや——ガルドさんが危ないと思って、体が勝手に——」
「いい反応だ」ガルドが短く言った。「次は——もっと早く動け」
トビアスの顔が赤くなった。叱られたのか褒められたのか分からない顔だ。
三つの巣の掃討——いや、立ち退き完了。街道ルート上の脅威が排除された。しかし——三つ目の巣を調査していた時、健悟は奇妙なものを発見した。
巣の奥、大型岩狼が寝ていた場所の壁に——人工物の痕跡があった。手を当てて鑑定する。
【構造物:石造中継塔(基礎部)】
【築年数:推定800年以上】
【材質:加工花崗岩(魔力強化処理済み)】
【魔力残留値:2.4mT(旧街道石畳の3倍)】
「八百年——」
健悟は息を呑んだ。旧街道より遥かに古い構造物だ。しかも魔力残留値が桁違いに高い。
「ガルドさん。ここに——古代の構造物があります」
「古代? どのくらいだ」
「八百年以上前。旧街道よりも五百年古い。——中継塔の基礎です。かつてここに、何らかの塔が建っていた」
ガルドが岩壁を見た。苔と泥に覆われた石の表面に、微かに文字が刻まれている。読めない文字だ。しかし——規則的な配列は、明らかに人工物だ。
「これは——ドラガに見せるべきだな」
「はい。ドワーフの技術に詳しいドラガさんなら——何か分かるかもしれない」
森を出た。朝日が眩しい。汗と泥と獣の匂いが体にまとわりついている。しかし——成果は大きかった。岩狼を追い出し、街道ルートを確保し、そして古代の遺構を発見した。
(八百年前の構造物。この土地には——まだ知らない歴史が埋まっている)
村に向かって歩き出した。ガルドが隣を歩いている。昨夜語り合った男と、今朝戦場を共にした。前世では——こんな朝を迎えたことがなかった。泥だらけの手が、生きている証拠のように温かかった。




