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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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雨季の足音——テール川氾濫記録

 まだ降っていない。空は曇っているだけだ。しかし風が湿気を含んでいる。テール川の水面が、いつもより暗い色をしている。健悟は橋の欄干に手を置いて、上流の空を見た。灰色の雲が低く垂れ込めている。


 (嫌な雲だ。国交省時代に河川局で見た積乱雲の前兆に似ている——いや、あれほどではないか。しかし油断はできない)


 朝の鑑定巡回を終えた帰り道。橋の安定度は56%。順調に回復している。水路の排水も安定だ。問題は——上流だ。


 ノルンの家を訪ねた。いつもの薬草茶を出される。


「ノルンさん。この村で過去に大きな洪水はありましたか」


「洪水かい。——ああ、あったよ。何度もね」


 ノルンが棚から古い帳面を取り出した。革の表紙が擦り切れている。ページは黄ばみ、端が欠けている。しかし文字は読める。几帳面な筆跡で、日付と出来事が綴られている。


「これは先々代の村長——あたしの父が書き溜めた記録さ。村の出来事を百年分。洪水のことも載ってる」


 健悟は記録を読み始めた。ページをめくるたびに、紙の匂いが鼻をくすぐる。古い紙の匂い。図書館に似ている。


 記録は明確だった。


 過去三十年で——大洪水が七回。平均して四年に一度以上。しかも洪水の規模は、徐々に大きくなっている。三十年前の最初の記録では「畑が一部浸水」だったものが、十五年前には「家屋三棟が損壊」、八年前には「旧堤防の一部が崩壊」。


「最後の大洪水はいつですか」


「三年前さ。リーゼの父さんが村長だった頃だ。あの時は——村の南側が膝まで浸かったよ。家畜小屋が二つ流された。羊が六頭死んだ」


 ノルンの声に、微かな翳りがあった。記憶を語るのが辛いのではない。あの時何もできなかった無力感が、今も残っているのだ。


「規模が大きくなっているのは——なぜですか」


「さあねえ。昔から雨季は雨季だよ。ただ——あたしが子供の頃より、雨季の雨は強くなった気がするね」


 (気候変動か。あるいは上流の環境変化か。いずれにしても——放置すれば次の洪水はさらに大きい。三年前で膝上。次は腰か——それ以上か)


 ノルンの記録を一枚一枚めくりながら、健悟は数字を拾っていった。洪水の月日、被害の範囲、復旧にかかった日数。その合間に挟まれた日常の記述が妙に生々しい。「秋祭りの準備中に増水」「種蒔きの直後に浸水、播き直し」。洪水は——暦の上の事件ではなく、生活の中に突然割り込んでくる暴力だ。


 記録を借り、宿に戻って整理した。テーブルに紙を広げ、年表を作る。日付、水位、被害範囲、被害内容。数字を並べると——パターンが見える。洪水は雨季の始まりから一月以内に集中している。しかし八年前と三年前は、雨季の開始が例年より二週間早かった。


 (つまり——「いつもの雨季」を想定していると足をすくわれる。早期到来パターンへの備えが必要だ)


 午後。リーゼとガルドに声をかけて、旧堤防を見に行った。


 テール川の東岸、村から上流に四百歩ほどの場所。かつて堤防があった痕跡が残っている。石を積んだ低い壁。しかし壁の上半分は崩れ落ち、下半分は土に埋もれていた。雑草が隙間から伸びている。


「これが堤防だったの?」


 リーゼが呆れた声を出した。


「堤防だったものです。おそらく五十年以上前に作られて——以来、補修された形跡がありません」


 健悟は石壁に手を当てた。


 青い構造線が走る。


  【構造物:石積み堤防(旧式)】


  【築造推定:65年前】


  【基礎深度:0.4m(必要深度の30%)】


  【排水構造:なし】


  【耐水圧:現在の平水位の1.2倍まで(増水時不足)】


  【総合評価:防災機能喪失】


「基礎が浅すぎます。深さ四十センチしかない。増水したら底から水が回り込んで、堤防ごと押し流される構造です」


「四十センチって——それ、子供の砂遊びと変わらないよね」


「的確な比喩です」


 ガルドが石壁を押した。ぐらりと揺れる。


「……これを堤防と呼んでいたのか」


「排水構造もありません。堤防の裏側に水が溜まった時に逃がす仕組みがないんです。つまり増水するたびに堤防自体が水を吸い込んで、弱くなっていく」


「それは——直せるのか」


「直すというより、作り直す必要があります」


 ガルドが眉を寄せた。リーゼも無言で堤防の残骸を見ている。


「ノルンさんの記録では、三十年間に大洪水が七回です。四年に一度以上。しかも規模が大きくなっている。次の雨季で——」


「今年の雨季はいつ頃?」


「ノルンさんは『今年は早いかもしれない』と言っていました」


 リーゼの顔が曇った。空を見上げる。灰色の雲は変わらず低い。


 宿に戻って、打ち合わせをした。ロッテの食堂のテーブルに地図を広げる。


「治水計画を立てたいんです。堤防の設計——ただの石積みではなく、洪水に耐える本格的な堤防を」


「どのくらいの規模になるの?」マルテが聞いた。


「まだ概算もできていません。まず上流の地形を調べる必要があります。堤防だけ作っても、水の流れ全体を理解しなければ意味がない」


「大げさね。堤防でしょ? 石を積めばいいんじゃないの」


「旧堤防がまさに『石を積んだだけ』で、結果が今の状態です」


 マルテが口をつぐんだ。


「治水は——堤防だけの問題じゃないんです。上流の水源、川の蛇行、支流の合流点、地下水の流れ——全部が関係する。流域全体を一つのシステムとして設計しなければ——」


「健悟。——もっと分かりやすく言って」


 リーゼが手を挙げた。いつもの台詞だ。


「川の水を制御するには、川だけ見ていてはダメだということです。山から海まで——水が通る道全部を見なければならない」


「じゃあ——まず何をすればいいの?」


「上流の偵察です。川がどこから来て、どう流れているか。それを見ないと設計が始まりません」


 ガルドが立ち上がった。


「俺が案内する。上流は何度か行ったことがある。森の中だが——道はある」


「お願いします。明日、行きましょう」


 トビアスが手を挙げた。


「俺も行きますよ。荷物持ちなら任せてください」


「ありがとうございます。三人なら心強い」


「危険はあるのか」ガルドが聞いた。


「魔物の出没はこの辺りでは聞きませんが、足場が悪い可能性はあります。森の中の川沿いですから」


「なら問題ない。この程度の森で怯むような男は、冒険者をやっていない」


 ガルドが肩をすくめた。無骨な自信だ。この男が同行してくれるなら、安全面は心配ない。冒険者時代に鍛えた身体能力と判断力は——旧堤防の石壁より遥かに頼りになる。


 打ち合わせが終わった。日が暮れていく。宿の窓から見える空は、まだ曇っている。


「毎年のことだよ」


 ロッテが片付けをしながら言った。


「雨季が来て、川が増えて、少し浸かって——乾いたら元通り。ここの人間はそうやって暮らしてきたんだ」


「今年は——元に戻らないかもしれません」


 ロッテの手が止まった。健悟の声が真剣だったからだ。


「三年前の洪水で旧堤防が壊れました。次に同じ規模の洪水が来たら——もう壁がありません。村の中心部まで水が来る可能性があります」


「……この宿も?」


「分かりません。だから——調べるんです」


 ロッテが頷いた。その顔に不安の色があった。しかし——不安と同時に、別の感情が浮かんでいた。誰かが「調べる」と言ってくれることへの安堵。問題に向き合ってくれる人間がいるという事実が、それだけで小さな灯りになる。


 ノルンが夕食後に顔を出した。


「今年の雨季はね——早いかもしれないよ」


「根拠はありますか」


「根拠はないさ。八十年生きた勘だよ。風の匂いが——いつもと違う。南から吹く湿った風が、例年より早い」


 健悟は窓の外を見た。風が強くなっている。テール川のせせらぎが、いつもより低い音を立てている。水量が増えているのかもしれない。


「ノルンさんの勘は——当たるんですか」


「外したことはないね。残念ながら」


 ノルンが薬草茶を啜った。諦めでも恐怖でもない、淡々とした顔だった。


 (治水は時間との勝負だ。河川局時代、堤防整備が間に合わなくて被害が出た事例を何件も見た。「予算がつかない」「住民合意が取れない」「工期が足りない」——何かが常に不足していた。この世界でも同じだ。足りないのは時間と人手と資材。しかし——ここには一つ、あの世界になかったものがある。《万象鑑定》だ。設計の精度を上げることはできる)


 健悟は宿の二階に戻り、紙と羽根ペンを広げた。堤防の基本設計図。前世の河川工学の知識を手がかりに、断面図を描き始める。基礎の深さ、勾配、排水孔の配置——。


 羽根ペンの書き心地に、まだ慣れない。国交省時代は設計図面を見るのが仕事であって、自分で描くことはなかった。外注先のコンサルタントが描いた図面に赤を入れるのが仕事だった。しかしここには外注先がない。自分で描くしかない。


 線が歪む。消して描き直す。また歪む。


 (CADが欲しい。切実に。あるいはせめて——定規が欲しい)


 まだ上流を見ていない。データが足りない。しかし描かずにはいられなかった。設計は——いつだって手を動かすところから始まる。不完全でもいい。手を動かすことで、頭が回り始める。


 蝋燭の灯りが揺れた。窓の外で風が唸っている。雨季が近づいている。


 テール川の流れが——かすかに速くなった音がした。

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