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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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定時で帰れる世界

 鶏の声が聞こえる。遠くで子供が笑っている。窓を開けると、秋の冷たい空気が肌を撫でた。空が高い。薄い雲が東から西に流れている。テール川のせせらぎが、風に乗って聞こえてくる。


 ザインが村を去ってから三日が経っていた。文官は最後に「また参ります」とだけ言い残し、護衛と共に街道を南へ消えた。辺境伯への報告書が上がるまで、しばらく静かな日が続くだろう。ノルンは「嵐の前の凪だよ」と言ったが、凪には凪の過ごし方がある。


 着替えて階下に降りると、ロッテが朝食を用意していた。黒パンとチーズと干し果実。質素だが十分だ。


「おはよう。今日も畑かい?」


「はい。南の区画の鑑定が残っています」


「朝飯はちゃんと食べてから行きなよ。リーゼから言われてるんだ、あんたが飯を抜かさないように見張ってろって」


「……監視されているんですか」


「監視じゃないよ。心配してるのさ」


 ロッテが笑った。母親の笑みだ。この世界に来てから、健悟はロッテの存在に何度も救われている。温かい食事と乾いた寝床。当たり前のことが、当たり前にある幸福。国交省時代は——コンビニ弁当と缶コーヒーが食事だった。比べるべくもない。


 朝食を済ませ、橋を渡った。朝日が石のアーチを照らしている。毎朝、橋を渡る時に欄干に触れる。もはや習慣だ。今日の安定度は——55%。昨日より1%上がっている。水路の排水が続いているおかげで、地下浸食が止まり、基礎が少しずつ回復している。


 対岸の畑では、すでにトビアスが鍬を振るっていた。


「おはようございます、鑑定士さん!」


「おはようございます。早いですね」


「農家は朝が早いもんですよ。——あ、ここの畝なんですけど、昨日蒔いた豆が朝見たらもう芽が出てて」


「三日目で発芽ですか。土の温度が高いんでしょうね。洪水の堆積層が断熱材のように働いて——」


「ダンネツザイ?」


「つまり土が温かいということです」


「じゃあそう言ってくださいよ」


 トビアスが苦笑した。健悟の専門用語は、この世界ではことごとく通じない。リーゼに「もっと分かりやすく言って」と叱られるのが日常になっていた。


 南の区画を鑑定した。ここは傾斜地で排水が良い。果樹に向いている。数年後には——この区画からリンゴやプラムが収穫できるかもしれない。ロッテの焼きリンゴの材料が自給できる日が来る。そう思うと少し楽しかった。


 午前中の鑑定作業を終え、村に戻った。橋を渡りながら、欄干の石を触る。ひび割れの進行はない。良好だ。


 昼食後——村のインフラ点検に回った。これも日課になっている。水路の排出口を確認する。流量は安定している。次に井戸。村の中央にある共用井戸は、水路の修復後に水質が改善していた。地下水の流れが正常に戻ったことで、井戸に入り込んでいた濁水が減っている。


 井戸の石蓋に手を当てた。


  【構造物:石組み井戸】


  【深度:8.2m】


  【水質:飲用可(微量の鉄分あり、許容範囲)】


  【石組み状態:上部にひび割れ2箇所、補修推奨】


 ひび割れ。放置すれば石が崩れて井戸が使えなくなる。今のうちに補修しておくべきだ。やることリストに追加。


 (やることリストが減らない。一つ片付けると二つ見つかる。これは——国交省と同じだ)


 しかし——不思議と苦痛ではなかった。国交省での残業は、書類の山と向き合う孤独な作業だった。ここでは、問題を見つけるたびに村人と話す。解決策を一緒に考える。その過程に、人がいる。


 午後——リーゼ、マルテ、ガルドとの打ち合わせ。場所はロッテの宿の一角。テーブルに村の地図を広げ、今後の作業計画を話す。


「水路の本格修復は、乾季に入ってから着手した方がいいでしょう。掘削中に増水されると困ります」


「いつ頃になるの?」


「あと一月半ほどで乾季に入るとノルンさんが言っていました。それまでに設計と資材の準備を進めます」


「資材はどうするの。石は森で拾えるけど——粘土は?」


「南の丘の斜面に良質な粘土層があります。昨日鑑定で確認しました」


 リーゼが頷く。マルテが帳面に数字を書き込む。ガルドが腕を組んで聞いている。


「問題は人手だ。畑の作業と並行するのは厳しいだろう」


「ガルドさんの言う通りです。人手の配分を考えないと——」


「あたしが隣村に声をかけるわ」


 マルテが口を挟んだ。


「隣村にですか」


「橋が直ったおかげで、隣村のペーターが行商に来るようになったでしょ。あっちにも人手が余ってるって聞いたわ。労働力を借りて、収穫で返す。バーター取引よ」


「さすが商人の発想ですね」


「商人じゃなくて経営者よ。——そろそろ格上げしてくれない?」


 マルテが得意げに鼻を鳴らした。健悟は笑った。この打ち合わせが好きだ。国交省の局議よりずっと建設的で、ずっと速い。議事録を三部作る必要もない。


 打ち合わせが終わり、夕方。日が傾いた。この時間になると——健悟はノルンの家に向かう。これも日課だ。


 ノルンの家で、この世界の歴史と地理を学んでいる。帳簿の読み方。文字の書き方。辺境伯領の行政構造。税制。法律。ノルンは元薬師だが、先代の村長の補佐をしていただけあって行政知識も豊富だった。


「今日はグレンヴァルト辺境伯領の税制について聞きたいのですが」


「税の話かい。——あんた、本当に役人だねえ」


「元役人です」


「税は基本的に収穫の一割だよ。ただし辺境伯の裁量で増減がある。過去には一割五分まで上がったこともあるけど——あたしの記憶では、この村が一割以上払ったことはない。払うほどの収穫がなかったからね」


「もし対岸の畑が全面稼働した場合——一割の税はどの程度になりますか」


「そうだねえ。ざっと計算して——銀貨十五枚くらいかね」


 銀貨十五枚。マルテの試算では、対岸の畑の年間生産額は銀貨百五十枚。その一割なら十五枚。適正な額だ。しかし辺境伯がそれ以上を求めてきた場合——交渉が必要になる。


「ノルンさん。もう一つ聞いてもいいですか」


「なんだい」


「辺境伯に対して、村が交渉力を持つには——何が必要ですか」


 ノルンが細い目で健悟を見た。皺の奥に、鋭い光がある。


「金だよ。それと——代わりが利かない何かを持つことさ。この村にしかないもの。それがあれば、お上も無茶はできない」


「代わりが利かない何か——」


「例えば——街道の要衝にある橋。それを管理できるのが、この村だけだとしたら?」


 ノルンが笑った。何もかも見通しているような笑みだ。


 講義が終わり、外に出た。夕闘は終わり、空には星が出始めている。ロッテの宿に向かって歩く。宿の灯りが温かく見える。


 橋のたもとで立ち止まった。修繕された橋の上を——子供たちが走っている。三人。名前はまだ全員覚えていないが、クルト爺さんの孫のミーナがいる。橋の上を走り回り、笑い声を上げている。石の欄干に触れ、川を覗き込み、また走る。


 橋の上で——子供が遊んでいる。それだけのことだ。しかし二週間前、この橋は崩落寸前だった。子供を通すことも危険だった。今は——走り回れる。笑える。欄干に登って叱られる。


 (国交省では——自分が予算をつけた橋を使う人の顔を見たことがなかった。書類の上では「日交通量一万台」「受益者数三十万人」と書いた。しかし三十万人の顔は知らない。橋を渡る子供の笑い声を聞いたこともない。あの数字の向こうに——こういう光景があったのだ)


 ミーナが健悟に気づいた。


「あ、鑑定士さんだ! ねえねえ、この橋ってさ、本当に三百年前に作られたの?」


「そうですよ。三百年前の石工さんが作った橋です」


「すごーい! じゃあこの石も三百年前の?」


「欄干の石は一部新しいものに交換しましたが——アーチの石は三百年前のものです」


「三百年の石かあ。……つめたい!」


 ミーナが石に頬を押し付けて笑った。他の子供たちも真似をする。三百年の石に頬をつける子供たち。石は——三百年分の日差しと雨と風を吸い込んで、少し冷たい。


 健悟は——その光景を見ながら、ふと呟いた。


「これが……定時退社か」


 朝、畑を鑑定して。昼、インフラを点検して。午後、打ち合わせをして。夕方、ノルンに教わって。そして日が暮れたら——宿に帰る。この生活には、終電がない。深夜残業がない。付箋だらけのモニターもない。缶コーヒー四本も必要ない。


 やることはある。山ほどある。しかし——日が暮れたら止まる。止められる。明日がある。明日もここにいる。だから今日は終わっていい。


 背後から声がした。


「テイジ? 何それ」


 リーゼだった。いつの間にか隣に立っている。


「えっと——日が暮れたら仕事を終えて帰ることです」


「それ、普通のことじゃないの?」


「前の世界では——普通じゃなかったんです」


「……健悟の前の世界って、やっぱり変だよね」


「否定できません」


 リーゼが笑った。夕暮れの橋の上で。子供たちの笑い声の中で。亜麻色の髪が風に揺れている。


「でもさ、今は——普通でしょ?」


「はい。今は——普通です」


 普通の一日が終わる。畑を見て、橋を点検して、打ち合わせをして、歴史を学んで。その全部が噛み合って、村が少しずつ良くなっていく。手触りのある仕事。顔の見える受益者。日が暮れたら帰れる毎日。


 過労死した元国交省職員が手に入れた、ささやかな日常。


 完璧ではない。辺境伯の影が迫っている。水路の本格修復もまだだ。街道の整備も手つかず。課題は山積みだ。しかし——一つずつやればいい。明日もこの橋を渡る。明後日も。その先も。


「ロッテがご飯できたって」


「行きます」


 リーゼと並んで橋を渡った。子供たちが先を走っていく。石の橋が、その軽い足音を受け止めている。三百年前の石工と、異世界から来た元官僚が守った橋。


 夕焼けが、村を橙色に染めていた。ロッテの宿から、食事の匂いが漂ってくる。今日も一日が終わる。定時で帰れる世界で、定時に帰る。それだけのことが——この世界に来て初めて手に入れた、かけがえのない日常だった。

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