崩壊と再建——戦場のインフラ工事
防壁の南東角に集中した。まるで——設計図を読んだかのように、壁の薄い区間を狙っている。フェリスが昨夜言っていた通りだ。魔物が防壁の弱点を「鑑定」している。古代の制御機構が——魔物を誘導しているのだ。
トビアスが補修した接合部に、甲殻型の魔物が群れで体当たりを繰り返す。壁が震える。振動が地面を伝わって建物にまで届く。防壁の内側の集会所で避難している住民が悲鳴を上げた。子供の泣き声が夜の空気を震わせた。
ガルドが壁の上で剣を振るった。一体。二体。三体。しかし——右腕が重い。古い傷痕が疼いている。二十年前の傷が——この最悪のタイミングで主張し始めた。振り下ろした剣が、甲殻を捉えきれず滑った。
「ガルド!」レオンハルトが横から長剣を突き刺した。甲殻の隙間を正確に突く。近衛騎士の剣技だ。
「悪い」
「黙って振れ。昔のお前なら——謝る暇があったら斬っていた」
その通りだった。ガルドは歯を食いしばり、次の一体に剣を叩き込んだ。今度は甲殻が割れた。全力の一撃。
南東角の接合部が——鳴った。嫌な音だ。マギクリートの亀裂が広がっている音。トビアスが補修した箇所が、繰り返しの衝撃で再び開き始めていた。
健悟は《万象鑑定》で壁を見つめた。
【南東角接合部: 健全度47%→崩壊リスクⅢ】
【推定耐衝撃残量: 12回】
十二回。甲殻型の体当たりがあと十二回で——壁が崩れる。
「トビアス! 南東角、もう一度補修を!」
「こっちも手一杯だ! 西側の接合部も揺れ始めてる!」
二箇所同時の亀裂。建設班は四人。分散すれば——どちらも中途半端になる。
その時——リーゼが走ってきた。防壁の内側から、集会所の方角から。亜麻色の髪が乱れ、息が上がっている。しかし碧い目に涙はない。怒りに似た——いや、責任を背負った人間の決意があった。町長の徽章が胸元で揺れている。
「ハインツ! クルト! 防壁の補修を手伝って!」
避難民の元石工と元大工が——工具を持って駆けてきた。ハインツの太い腕がマギクリートの骨材を抱え、クルトが木枠を組み始めた。二人とも顔は青ざめている。しかし手は——職人の手だ。怯えていても、工具を握れば体が動く。避難民が——町を守る側に回った瞬間だった。リーゼが住民台帳で把握していた技能情報が、この瞬間に生きた。全住民の名前と顔と技能を覚えている町長だからこそ——瞬時に適材適所の判断ができた。
トビアスが叫んだ。「ハインツ、南東角に行け! マギクリートの充填だ! やり方は——見れば分かる、押し込んで均せ!」
「石を積むのと同じだろう。任せろ」ハインツの手が——正確にマギクリートを亀裂に押し込んだ。元石工の手は——建材を知っている。マギクリートの硬化する感触を、指先で感じ取っていた。
壁の上でガルドが戦い続けている。ヴォルフが隣で槍を振るう。防壁の外では魔物が壁を叩き、内側ではハインツが壁を直している。破壊と修復が——同時に進行していた。
健悟は——頭が痛かった。《万象鑑定》を使い続けている。防壁の全体構造を常時モニタリングし、応力が集中する箇所が移動するたびにトビアスに指示を出している。南東角。次は西側の中央部。次は北の門扉の周辺。魔物は弱い箇所を次々と狙ってくる。まるで防壁の設計図を読んでいるかのように——接合部や、壁厚が薄い区間を正確に叩く。
鑑定のたびに——脳の奥が軋む感覚がある。前世で、三日間徹夜で災害対策本部に詰めた時と同じだ。書類の文字が滲んで見えた。コーヒーの味がしなくなった。同僚が肩を叩いて「もう帰れ」と言ったが、帰れなかった。帰ったら——誰が数字を追うのか。
あの時と同じだ。意識が薄くなっていく。
視界の端が暗くなった。青い構造線が——ちらつき始めた。
【警告: 鑑定者の魔力残量低下。精度-15%】
自分の体にも限界がある。前世で過労死した体が——この世界でも同じ過ちを繰り返そうとしている。数値パネルが——鑑定者自身の限界を告げていた。皮肉だ。他人のインフラの健全度は測れるのに、自分の体の健全度は無視していた。
「健悟さん!」フェリスが横から腕を掴んだ。銀髪が乱れている。琥珀の瞳に——焦りがあった。「鑑定を中断してください。このまま続ければ意識を失います」
「しかし——防壁の監視が」
「私が代わりに魔力感知で監視します。精度は落ちますが——あなたが倒れれば全てが止まる。指揮官が倒れるのが最悪の事態です」
フェリスの言葉は正しかった。前世の災害対策本部でも——本部長が倒れたら指揮系統が崩壊する。自分が倒れるわけにはいかない。
健悟は《万象鑑定》を解除した。青い構造線が視界から消えた。途端に——世界が暗くなった。鑑定に頼りきっていた自分に気づく。数字がなければ——何も見えない。しかし数字がなくても——仲間の目がある。耳がある。
「トビアスさん、南東角の状況を目視で報告してください」
「亀裂は——ハインツが塞いだ。今のところ持ってる。西側もクルトが木枠で補強した。——まだ行けるぞ!」
トビアスの声が——数値パネルの代わりになった。人の目と声で伝える情報。前世のデジタル機器がなかった時代——人はそうやって災害を乗り越えていた。
防壁の外で——甲殻型の魔物が一体、壁の上端に爪をかけた。壁を越えようとしている。ガルドの剣が——その爪を断ち切った。魔物が壁の外に落ちた。
「越えさせん」ガルドの声が低く響いた。
第三波が去ったのは——日が完全に暮れてからだった。魔力灯が照らす防壁の外に三十四の死骸が散乱している。壁面は血と爪痕で汚れ、南東角の補修跡がまだ白く新しい。壁の上にガルドとレオンハルトとヴォルフの三人が立っている。全員が血に塗れていた。魔物の血だ。自分のではない。しかしガルドの右腕が——震えていた。古い傷痕の上に、新しい切り傷が一本走っている。甲殻型の爪に掠められた。浅いが、二十年前の古い傷が記憶と共に疼いていた。
リーゼがロッテの用意した温かいスープを壁の上に運んだ。自分で木の梯子を登って。重い鍋を片手で支えながら。ロッテが下から「気をつけなさい!」と叫んでいた。
「飲んで。——休んで。次が来る前に。体を温めて」
ガルドが椀を受け取った。血に塗れた大きな手が椀を包む。湯気が夜の冷気に白く立ち上る。ロッテのスープだ。野菜と薬草の匂いが——血と汗の匂いを洗い流すように広がった。一口飲んだ。温かさが、指先から体の芯に染みていく。
「うまい」ガルドが短く言った。
健悟は制御室で地図を見ていた。《万象鑑定》は使えない。しかしフェリスの魔力感知が代わりに情報を提供している。
「北東のエネルギー出力が——さらに上昇しています。臨界値の九十一パーセント。第四段階に移行しました」
九十一パーセント。あと九ポイントで臨界に達する。臨界——それは封印の完全崩壊を意味する。古代の制御核が全力で目覚め、八百年間蓄積された魔力が一気に解放される。辺境全域が魔力の奔流に覆われ、魔物の数は今の十倍、あるいは百倍になるかもしれない。そうなれば——マギクリートの防壁では防ぎきれない。ガルドの剣でも足りない。辺境そのものが壊滅する。
健悟は窓の外を見た。防壁の上でガルドがスープを飲んでいる。レオンハルトが壁に背を預けて目を閉じている。ヴォルフが槍を膝に乗せて座っている。三人とも——疲弊していた。明日の第四波を、あの体で迎えられるのか。
防壁で守るだけでは——限界がある。人の体力は有限だ。インフラの耐久力も有限だ。根本原因を断たなければならない。壊れた封印を——修復しなければならない。
前世では——壊れた橋を修繕した。壊れた道路を直した。壊れた堤防を補強した。全て同じだ。壊れたものを直す。それが土木技師の仕事だ。古代の封印も——インフラだ。維持管理が必要なインフラだ。
「フェリスさん。古代の封印を——修復することは可能ですか」
フェリスの琥珀の瞳が——大きく見開かれた。
「修復——? 封印を、直すのですか。八百年前の古代文明が作った魔力制御システムを」
「壊れたインフラは直す。三百年前の橋も直した。八百年前の下水道も直した。封印だって——構造物です。構造物は修繕できる。それが僕の仕事です」
フェリスは——しばらく黙った。琥珀の瞳が、健悟の顔を見つめている。百二十年を生きたエルフが——三十四歳の元官僚の目の中に、何を見たのか。
「——可能性はあります。ただし、制御核に直接アクセスする必要がある。遺跡の深部——地下数十メートルに降りなければなりません。そして古代の制御回路を理解し、修復手順を確立する。時間が要ります」
「行きましょう。明日——いや、今夜中にデータを揃えましょう。第四波が来る前に」
前世では——過労死した。今度は過労死しない。倒れる前に終わらせる。終わらせて——定時で帰る。定時がいつなのかは——まだ分からないが。
窓の外で、防壁の上の魔力灯が青白く輝いていた。ガルドの大きな影が壁の上に立っている。あの男が立っている限り——壁は破られない。しかしあの体も有限だ。人間の体は消耗する。明日までに——答えを出す。




