生命線——街道が繋ぐ避難路
追加の二十騎が、伯爵の命令から半日で出発した。金色の髪を風に靡かせた副団長が先頭を駆ける。頬の古い傷が朝日に白く光っている。街道は健悟が設計し、トビアスの建設班が敷いた石畳だ。馬蹄が規則正しく石を叩く音が、辺境の静寂を切り裂いていく。
街道の幅は二台の馬車がすれ違える設計だ。勾配は最大八パーセント。排水溝が両側に走り、雨天でも泥濘化しない。路面のマギクリートが馬蹄を確実に受け止め、滑りを防ぐ。交通インフラとして設計された道が——今、軍事インフラとして機能している。騎馬兵の展開速度は未整備路の三倍。健悟が道路設計の基礎として計算した速度差が——今日、命の差になる。
最初の救出は——フェルゼン経由でフィンケン方面だった。
フィンケンまでの街道は整備済みだ。レオンハルトが十騎を率いて駆けつけた時、自警団の三人が村の柵の前で槍を構えていた。柵の外に——魔物の死骸が四体転がっている。灰色の毛皮の獣型魔物だ。普段は森の奥に棲む種で、人里まで降りてくることは稀だった。
村の入り口に辿り着いた。柵の前に血痕が散っている。獣の臭いが——朝の冷気に混じって鼻を突いた。
「間に合ったか」レオンハルトが馬を降りた。長剣の鞘が腰で揺れる。
「ぎりぎりだ。夜明け前に来た。五体だった。一体は逃げた」自警団長の顔に安堵と疲労が混在していた。額に浅い切り傷がある。
「怪我人は」
「うちの団員が一人、腕を噛まれた。命に別状はない。——しかし副団長殿。こんなことは初めてだ。この村にいて三十年になるが、魔物が群れで攻めてきたのは」
レオンハルトは頷いた。周囲を見回した。村の柵は木製で、高さは人の背丈ほど。防壁と呼べる代物ではない。しかし街道があった。街道を通じて、半日で援軍が到着できた。
レオンハルトは防衛態勢の指示を残し、再び馬に跨った。次の村へ。休む暇はない。通信塔から次々と入る報告が——辺境全域で事態が同時進行していることを告げていた。
問題は——街道がない場所だった。
残り十騎を率いた騎士が、南西のグラーベン方面に向かった。グラーベンまでは街道が途中で途切れている。未整備区間が約六里ある。獣道と農道を繋いだだけの泥道だ。
泥道は馬の足を取り、速度が三分の一に落ちた。雨が降れば通行不可能になる。前世の国交省で「道路整備の優先度評価」を何百回もやった。費用対効果、交通量、地域の必要性。全て数字で判断した。しかしその数字の向こうに——こういう現実があった。道がないことで、助けが間に合わないという現実が。
報告が通信塔経由で届いた時、健悟は制御室で地図に印を落としていた。
「グラーベン方面、断片的報告あり。魔物の数が多い。十体以上の群れが南西から接近中。柵を一箇所突破された模様。自警団が応戦中だが——数に押されている」
四時間。街道があれば一時間半の距離だ。街道がないことで——二時間半の遅れが生じている。その二時間半に——人が死ぬかもしれない。
健悟はペンを握る手に力を込めた。「道があれば救えた。なければ救えなかった」。レオンハルトが以前言った言葉が、頭の中で反響した。あの時は——過去の話だった。今は——現在進行形だ。
フェリスが制御盤のデータを読み上げた。
「各地の魔物出現データを時系列で整理しました。興味深いパターンがあります」
「パターン?」
「魔物の出現は——ランダムではありません。まず街道途絶区間の端に出現し、次に未整備区間の中央部に集中する。まるで——街道の切れ目を狙い撃ちにしているかのようです」
「統率されている——?」
「統率というより——誘導です。地下の古代制御機構が魔力を放出する際、街道下の古代導管が残っている区間では魔力が導管に吸収される。しかし導管が断絶した区間では、魔力が地表に噴出する。その噴出点に魔物が集まる」
健悟の目が見開かれた。つまり——魔物は「古代インフラの欠損部」に集まっている。街道が無事な場所は、地下の古代導管も無事で、魔力が地表に漏れない。街道が途絶した場所は、古代導管も破損していて、魔力が地表に噴き出し、それが魔物を呼ぶ。
「インフラの穴が——攻撃を受ける穴になっている」
「正確には、インフラの穴が魔力の噴出口になり、魔物の誘引点になっています。意図的な攻撃ではなく——構造的な脆弱性です」
構造的脆弱性。前世の土木用語が、異世界の魔物災害にそのまま当てはまる。壊れた堤防が洪水を招くように、壊れた古代導管が魔物を招く。インフラの欠損が災害を引き起こす。当たり前の理屈だ。前世では道路の陥没が事故を起こした。ここでは古代導管の断絶が魔物を呼ぶ。スケールは違うが——本質は同じだった。
通信塔に新しい報告が入った。
「グラーベン。柵が一箇所破られたが、住民は集会所に避難済み。自警団が集会所の周囲で防衛中。死者なし。——ただし、南から新たな群れが接近中」
死者なし。しかし——まだ終わっていない。
グラーベン方面の騎馬隊はまだ二時間かかる。南からの新しい群れが来る前に到着できるか——時間との勝負だった。
健悟はリーゼに状況を報告した。碧い目が地図を見つめている。
「避難民の受け入れ準備を進めます。ロッテに——炊き出しの準備を。マルテに——物資の追加手配を。ヴォルフに——町内の警戒を強化してもらいます」
リーゼの指示は的確だった。迷いがない。町長実務マニュアルの「避難民受入」の項目を——既に自分のものにしている。あの三日間の猛勉強が、今この瞬間に実を結んでいた。数字は苦手でも、人を動かすことは——リーゼの天性の才能だ。
マルテが市場の片隅で帳面を広げていた。そろばんの珠を弾く音が——戦時の中で妙に日常的だった。
「イレーネに緊急発注をかけたわ。食料と包帯と毛布。——街道が使えるうちに運ばせないと。物流が止まったら終わりよ」
商人の目で見れば、これは兵站の問題だった。マルテの言う通りだ。道が魔物に遮断されれば、物資が届かなくなる。食料が尽きれば——防衛も何もない。
午後。通信塔にグラーベンからの報告が入った。
「騎馬隊到着。魔物の第二群を村の南側で迎撃、撃退しました。死者ゼロ。負傷者七名、全員軽傷。——自警団長が泣いていた。『あと一刻遅ければ集会所まで突破されていた』と」
死者はゼロだった。街道が完全に整備されていれば——もっと早く着けた。もっと余裕があった。しかしゼロはゼロだ。一人も死なせていない。その事実に——健悟は一瞬だけ目を閉じた。
しかし——グラーベンの南にある小集落ヴァインベルクからは、連絡が途絶えたままだった。街道がない。通信塔の圏外。声も道も届かない場所だ。地図の上では——ただの空白。しかしそこにも人が住んでいる。名前のある人間が暮らしている。レオンハルトが偵察隊を送ったが、帰還は翌朝になるだろう。
夕方。ハルベルトに最初の避難民が到着した。フィンケンの老人と子供——自警団の判断で、戦闘能力のない住民を先にハルベルトに送ったのだ。街道を歩いてきた。八時間の徒歩だった。
ロッテが温かいスープを用意していた。大鍋から立ち上る湯気が、夕暮れの冷たい空気に白く漂う。避難民の子供がスープを受け取り、両手で椀を抱えた。小さな手が震えている。寒さではなく——恐怖の名残だった。
エミルが走ってきた。十歳の少年が——避難民の子供に自分のパンを差し出している。かつて自分がパンを盗んだ子供が——今、パンを分けている。ガルドがあの日、黙ってパン代を払ったことの意味が、ここにある。
リーゼが一人一人に声をかけた。名前を聞き、家族の状況を確認した。全員の名前を——その場で覚えた。町長の武器は記憶だ。誰一人、番号では呼ばない。
夜。ヴァインベルクの偵察隊からの報告はまだない。通信塔の圏外——声が届かない闇の中で、何が起きているのか分からない。待つことしかできない。前世の災害対策本部でも——連絡が途絶えた地域を待つ時間が、一番苦しかった。情報がないことが、最も恐ろしい。
健悟は制御室で地図を見つめていた。街道の線と途絶区間。被害地点と無事な地点。救えた村と——まだ連絡が取れない集落。
道があれば救えた。道がなければ——救えない。その残酷な線引きが、地図の上にくっきりと浮かんでいた。
翌朝、偵察隊が帰還した。レオンハルトが報告書を健悟に手渡した。金色の髪が泥で汚れている。一晩で老けたように見えた。
「ヴァインベルクは——半壊だ。住民は森に逃げ込んで命は助かった。だが家屋の七割が魔物に破壊されている。死者はゼロ。しかし——帰る家を失った十二人が、避難民としてこちらに向かっている」
「道があれば——」
「ああ。道があれば、騎馬隊を間に合わせられた。街道整備済みの村は全て守れた。未整備の集落は——守れなかった。お前の言った通りだ、健悟」
レオンハルトの声に——苦みがあった。「街道があれば救えた命がある」と自分が言ったことを、覚えている。
道がなかった場所の代償。それが——十二人の失われた日常だった。地図の空白は——ただの空白ではない。そこに人が住んでいた。暮らしがあった。それが消えた跡だ。




