交渉の旅——マルテの算盤と舌戦
ハルベルトの正門を出て南西へ。最初の目的地は——ブルンネン村。ハルベルトから十八キロ。街道を馬車で半日の距離だ。
交渉団は四人。マルテが団長。そろばんと帳面を抱えた商人は——戦場に向かう将軍のような顔をしている。リーゼが副団長。町長としての公式な立場が必要だ。健悟が技術説明担当。そしてガルドが護衛。
「順番が大事だわ」マルテが馬車の中で帳面を広げた。「まずブルンネン。ここが最も協力的な可能性が高い。ハルベルトとの交易が活発だから——ネットワークの恩恵を理解しやすい。次にフェルゼン。鉱山村だから——資材の供給元としての利点を強調する。最後にグラーベン。ここが最も難しい」
「グラーベンは——何が問題ですか」
「伯爵に対する不信感が根深いの。三年前の増税で——村の若者が半数流出した。伯爵の名前を出すだけで拒絶反応が出る。辺境伯領の事業として提案すると——門前払いの可能性がある」
「では——ハルベルトと周辺村の共同事業として提案する。伯爵の名前は最初に出さない」
「そうね。伯爵の関与は——後から説明する。まずは村同士の互助ネットワークとして話を進めるわ」
マルテの交渉戦略は——前世の官僚が作る根回し計画に似ていた。相手の心理を読み、情報の出し方を制御する。商人と官僚は——手法が似ている。
ブルンネン村。午前中に到着した。
小さな農村だ。人口百二十人。麦畑が広がり、中央に石造りの井戸がある。先月の地脈の乱れで——井戸水が一時枯渇した村だ。健悟が井戸の応急修繕を行い、水脈を回復させた実績がある。
村長のブレンナーは——五十代の農夫だ。日焼けした顔に深い皺が刻まれている。健悟を見て——表情が和らいだ。
「ああ、あんたか。井戸を直してくれた人だ。——あれ以来、水が安定して出ている。礼を言わなければ」
「ありがとうございます。今日は——新しい提案を持ってきました」
健悟が通信塔の概要を説明した。マルテが経済効果を数字で示した。交易路の安全確認が瞬時にできる。災害時の支援要請が即座に届く。商品の価格情報がリアルタイムで共有される。
ブレンナー村長は腕を組んで聞いていた。しかし——途中で表情が曇った。
「話は分かる。便利なものだろう。しかし——うちの村に塔を建てる費用は出せない。先月の井戸の修繕で——村の蓄えは底をついている」
マルテが帳面を開いた。
「費用負担はありません。建設費はハルベルトが負担します。ブルンネン村には——設置場所の提供と、完成後の簡単な維持管理をお願いしたいだけです」
「維持管理——?」
「週に一度、塔の状態を目視確認するだけです。異常があればハルベルトに連絡する。それだけです」
ブレンナーの眉が上がった。費用負担なし——これは予想外だったらしい。
「しかし——そんな好条件には裏があるんじゃないか」
リーゼが前に出た。碧い目でブレンナーを真っ直ぐ見た。
「裏はありません。先月の地脈の乱れで——孤立した村に支援を届けるのに五日かかりました。通信塔があれば——半日で対応できます。ブルンネン村が再び孤立した時——すぐに助けに行けるようにしたいんです。それが——この計画の目的です」
二十歳の町長の言葉に——嘘はなかった。ブレンナーはそれを感じ取ったのだろう。長い沈黙の後——頷いた。
「分かった。場所は——村の北端の丘がいいだろう。見晴らしがいい」
さらにリーゼは付け加えた。
「もう一つ。ブルンネン村の南にある石橋——老朽化が進んでいると聞いています。通信塔の建設と合わせて——橋の修繕も無償で行います」
ブレンナーの目が見開かれた。あの橋は——村の生命線だ。唯一の南北交通路。修繕費用が捻出できず、三年間放置されていた。
「橋も——? 本当か」
「健悟さんが設計し、ハルベルトの建設班が施工します。費用はハルベルト持ちです」
健悟が頷いた。橋の修繕は——統合ネットワーク計画の一部だ。街道の補修と通信塔の建設は表裏一体。道が通じなければ、通信だけでは人は救えない。
ブルンネン村との合意が成立した。マルテが合意書を作成し、双方が署名した。
二つ目。フェルゼン村。鉱山を持つ村だ。人口八十人。ミスリル鉱石の産出地で——ドラガの鍛冶場に素材を供給している。
フェルゼンの村長ギュンターは——合理的な人物だった。通信塔の利点を数字で示すと、すぐに理解した。
「通信塔の建設は賛成だ。ただし——条件がある。中継点を我が村に設置するなら、ミスリル鉱石の供給価格を——現在の二割引きで固定してほしい」
マルテがそろばんを弾いた。計算は速い。
「一割五分なら——受けるわ。二割は厳しい。ただし——通信塔の通信費は永久無料にする」
「一割五分——」ギュンターが考え込んだ。「通信費無料と合わせれば——悪くない。いいだろう。合意だ」
商人同士の交渉は速い。感情ではなく数字で動く。マルテが合意書を書き、署名が交わされた。
フェルゼンを出る時——ギュンターが健悟を呼び止めた。
「あんた。坑道の支保工を直してくれた人だろう。——うちの鉱夫たちが感謝していた。あの修繕で——落盤の危険がなくなったと」
「以前の調査の時に気づいたことを——対処しただけです」
「そういう人間が——辺境にいるのは悪くない。頑張れ」
不器用な激励だった。鉱山の男は——言葉より行動で語る。健悟は頭を下げた。
三つ目。グラーベン村。——ここが本番だ。
グラーベンは——辺境の中でも孤立した村だった。人口六十人。三年前の増税で若者が流出し、高齢化が進んでいる。村長のオルトヴィンは——白髪の老人だ。杖をつき、背は曲がっているが——目だけは鋭い。
「帰ってくれ」
開口一番だった。村の集会所にすら入れてもらえなかった。入り口で——遮られた。
「伯爵の手先が来たか。また何を取り上げようというんだ」
「伯爵の使いではありません」マルテが冷静に答えた。「ハルベルトの町からの提案です」
「ハルベルト——? あの町もいずれ伯爵の犬になる。辺境伯領の事業だと言うんだろう。結局は伯爵の腹を肥やすだけだ」
健悟は——オルトヴィンの怒りの深さを感じた。三年前の増税で何が起きたか。若者が去り、畑が荒れ、村が衰退した。その記憶が——全ての提案を拒絶させている。
マルテの交渉術が通用しない相手だった。数字を出しても聞かない。利点を説明しても信じない。過去の痛みが——理性を上回っている。
リーゼが一歩前に出た。
「オルトヴィン村長。——私はリーゼ。ハルベルトの町長です。二十歳です」
「知っとる。小娘が町長だと聞いた時は——耳を疑ったわ」
「私が町長になったのは——前の町長が逃げたからです。魔物が襲ってきた時——町を守れなかった人の代わりに、私が立った。それだけです」
オルトヴィンの目が——少し変わった。
「この計画は——伯爵のためじゃありません。先月、三つの村が孤立しました。支援に五日かかりました。その五日間——何人が不安な夜を過ごしたか。水が出なくなった井戸の前で——何人の子供が泣いたか。私は——その五日間を、半日に縮めたいだけです」
リーゼの声は——震えていなかった。感情的でもなかった。ただ——事実を述べていた。二十歳の町長が——七十歳の村長に真正面から語りかけている。
「費用は要りません。人も出しません。ただ——繋がっていてほしい。孤立しないでほしい。次に何かあった時——すぐに助けに行けるように」
長い沈黙が落ちた。オルトヴィンは杖の頭を握りしめていた。節くれ立った指が——白くなっている。
「……小娘。お前さんは——嘘は言わんようだな」
「言いません」
「……入れ。——話だけは聞いてやる」
集会所に通された。そこからは——マルテの仕事だった。数字と条件を丁寧に説明する。健悟が技術面を補足する。オルトヴィンは何度も質問し、何度も疑い、何度も考え込んだ。しかし——最後には頷いた。
「条件付きだ。伯爵の通信は——うちの村を通さないこと。軍事目的には使わせない」
「承知しました。通信内容は——各村の自治に委ねます」
三村との合意が成立した。帰りの馬車で——マルテが深い溜息をついた。
「グラーベンは本当にきつかったわ。リーゼ、あんたの演説がなかったら——門前払いだった」
リーゼは窓の外を見ていた。碧い目に——夕日が映っている。
「演説じゃない。——本当のことを言っただけ」
ガルドが馬車の御者台から声を落とした。
「三村全部か。——大したもんだ」
健悟は帳面に合意内容を整理していた。三村の合意。通信塔三基の設置場所確定。ブルンネンの石橋修繕。フェルゼンのミスリル供給契約。グラーベンの軍事利用禁止条件。全てを文書化し——次は伯爵への提案書に組み込む。
馬車がハルベルトの正門に着いた時——通信塔の青白い光が、夜空に浮かんでいた。一つだけの光。しかし——もうすぐ、四つになる。




