急報——南部街道、遮断さる
震えていたのは——地図の方だった。春風がテール川の河面から吹き上がり、手元の地図をはためかせている。銀色のインクで描かれた街道ネットワークの上に、レオンハルトの書状が重なっている。「街道を防衛線として使わせてもらえないか」。
健悟はまず地図を広げた。《万象鑑定》を街道の構造データに向けて発動する。
【構造物:ハルベルト南部街道(全長12km)】
【路面強度:通常荷重に対し安全率3.2】
【防衛用途適性:未設計(防壁なし、退避路なし)】
防衛用途適性——未設計。当たり前だ。この街道は人と物を運ぶために作った。戦場にするために作ったのではない。しかし——レオンハルトは実戦の中でこの街道の価値を見出した。開けた道は魔物の侵入を可視化する。マギクリートの路面は騎馬の展開を容易にする。街道があるだけで——防衛側の選択肢が格段に増える。
(前世では想像もしなかった。国交省で設計した道路が——戦場になるなど。しかしここでは——道路の意味が前世よりも遥かに広い。物流路であり、通信路であり、そして——防衛線でもある)
「ガルド。レオンハルトからの急報です」
見張り台の上のガルドに書状を渡した。ガルドの目が文面を走る。表情が——変わった。武骨な顔に、冒険者時代の鋭さが戻っている。
「三つの村が孤立か。——備蓄はどのくらいだ」
「推定十日分。ただし井戸水が濁り始めている村もあるとのこと」
「十日——。救援が遅れれば、水から先に尽きる。俺は何度も見てきた。水を失った村がどうなるか」
ヴォルフが隣で腕を組んでいた。見回り担当の男が——地図を覗き込む。
「街道の遮断地点は——ここか。南部の渓谷付近だな」
「ああ。あの辺りは——昔から魔物が出やすかった。パーティ時代にも何度か通った」
ガルドとヴォルフが——同時に同じ場所を指した。かつての冒険仲間の記憶が、まだ繋がっている。
「遮断の原因は?」健悟が聞いた。
「魔物の群れが街道上に居座っている——とある。だが、それだけで三つの村が同時に孤立するのは不自然だ」ガルドの声が低い。「地形に何かが起きている可能性がある」
健悟は地図に書き込んだ。遮断地点。孤立村の位置。推定備蓄日数。救援に必要な物資量。頭の中で——国交省時代の災害対応マニュアルが起動していた。被災地への物資輸送計画。迂回路の選定。応急復旧の優先順位。あの頃は書類の上の計画だった。今は——自分の足で走らなければならない。
リーゼが市場から駆けてきた。エプロンをつけたままだ。マルテの報告を聞いたのだろう。碧い目が真剣に光っている。
「レオンハルトからの急報——読んだ?」
「はい。三つの村が孤立しています。救援が必要です」
「行くの?」
「行かなければなりません。ただし——町としてどこまで力を貸すか、町長に判断いただきたい」
リーゼが一瞬だけ目を瞑った。碧い目が開いた時——そこには町長の覚悟があった。
「行って。ガルドも、健悟も。救援が必要なら——町として力を貸す。それが、この町の在り方だから」
リーゼの声は震えていなかった。半年前なら——不安で声が震えていただろう。しかし今の碧い目には——迷いがない。
「ただし——町の守りも残して」
「ヴォルフに任せます」
ヴォルフが頷いた。「行ってこい。こっちは——俺が見る」
ガルドがヴォルフの肩を叩いた。何も言わない。しかし——その手の重みが、全てを伝えていた。
その夜、健悟は作業部屋で応急的な防御陣地の設計図を引いた。
魔法ペンが羊皮紙の上を走る。インクの鉱物臭が深夜の部屋に漂う。街道の両脇にマギクリートの低壁を設置し、退避路を確保する。防衛用途の設計ではないが——土木工学の基本は同じだ。障害物を配置し、通路を制限し、防御側に有利な地形を作る。
(国交省時代に道路の防災設計をやった。落石防護柵、法面保護工、避難路の設計。あれは自然災害に対する防御だったが——考え方は魔物に対しても同じだ。障害物で速度を落とし、退避路で人を逃がす。急所に防壁を設置し、見通し線を確保する)
折り畳み定規を取り出した。前世から持ってきた唯一の道具だ。金属の表面が魔力灯の光を反射する。この定規で——何本もの設計図を引いてきた。橋の修繕。堤防の設計。街道の復旧。港湾の建設。そして今——防御陣地の設計。
三箇所に低壁を配置する。高さ一メートル。マギクリートなら——魔物の突進にも耐えられる。壁の間に通路を残し、騎士の反撃と住民の退避を同時に可能にする。
リーゼが扉の前に立っていた。
「救援物資の手配——終わった。食料と毛布と薬草。ロッテとノルンが準備してくれた」
「マニュアルには——」
「マニュアルは見たよ。でも——マニュアルに書いてないことも自分で判断した。薬草は多めに。毛布は子供用を別に。あと——ロッテが『温かいスープを持っていきなさい』って。保温容器に詰めたの」
健悟は——少し笑った。マニュアルを超えた判断。それが——町長の成長だ。前世の国交省では——マニュアルから外れた判断は許されなかった。しかしリーゼは——マニュアルを土台にして、自分の判断を積み上げている。
「完璧です」
「完璧じゃないよ。でも——今の私にできる精一杯。あと——住民への情報開示も済ませた。『南部で魔物被害が出ている。救援隊を送る。町の守りはヴォルフが担当する』って。みんな——少し怖がってたけど、ちゃんと聞いてくれた」
住民への情報開示。マニュアルの第七章に書いた項目だが——リーゼは自分の言葉で伝えた。健悟の書いた官僚的な文面ではなく、町長としての率直な言葉で。
リーゼが去った。足音が廊下に消えていく。あの足音は——半年前より重い。責任の重みを知った足音だ。
出発前夜。ガルドがレオンハルトと通信塔越しに言葉を交わした。
通信塔の青白い光が夜空に浮かんでいる。ガルドが塔の下で腕を組み、空を見上げている。フェリスが操作盤に手を当て、通信を繋いだ。
塔から——レオンハルトの声が流れた。遠く、南部の野営地からの声だ。
「ガルド。来てくれるのか」
「ああ。——だが、昔みたいに背中は預けんぞ」
短い沈黙。
「ああ。今度は——横に並べ」
通信が切れた。フェリスが操作盤から手を離す。琥珀の瞳が通信塔の光を映している。
「通信状態は良好でした。南部の中継点まで——信号の劣化は二パーセント以内です」
「ありがとうございます、フェリスさん。——通信塔が間に合ってよかった」
「間に合った——というより、必要になった、ですね。インフラは——危機の時にこそ真価を問われます」
塔の光が——少しだけ揺れた。夜風が石と金属の塔を通り抜けている。この塔を作ったのは——つい先日のことだ。しかし今、この塔が命を繋いでいる。
ガルドが右腕の傷痕をさすった。冒険者時代の古い傷。パーティ壊滅の時に負った傷だ。あの日から——七年以上が過ぎた。かつて背中を預け合った男と——今度は横に並ぶ。立場は違う。町の警備隊長と、伯爵の騎士団副団長。しかし——守るべきものは同じだ。辺境に住む人たちの命。
健悟は設計図を巻いた。防御陣地の設計図と、救援ルートの地図。二枚の紙が——明日の行動計画の全てだ。
翌朝。春の空が澄み渡っていた。ハルベルトの正門から、救援隊が出発した。
ガルドが先頭。健悟が地図を持ち、トビアスが建設班から精鋭を四人連れている。マギクリートの防壁材と工具を積んだ荷車が二台。ロッテの保温容器が——荷台の一番上に載っている。
リーゼが門の前に立っていた。亜麻色の髪が朝風に揺れている。
「おかえりを——待ってるから」
「はい」
街道を南へ。春の朝日が街道のマギクリートを照らしている。自分が作った道を、自分が歩いている。人を運ぶために作った道を——今は、人を救うために歩いている。
エミルが門の後ろから顔を覗かせていた。十歳の少年が——救援隊を見送っている。ガルドがちらりと振り返り、小さく頷いた。エミルも頷いた。言葉はない。しかし——あの子にとってガルドは、パンを恵んでくれた人だ。帰ってこなければならない理由が、門の向こうにある。
ドラガが鍛冶場の前に立っていた。白い顎鬚を撫でながら、荷車のマギクリート防壁材を見送っている。
「ワシの材料じゃ。壊すなよ」
「壊しませんよ」
「壊れんように作ったからな。——しかし、防壁に使われるとは思わんかったぞい」
ドラガが鼻を鳴らした。しかし——その目は真剣だった。自分が作った建材が、人の命を守るために使われる。職人にとって——それ以上の誉れはない。
春の街道を歩く。足元のマギクリートが朝日に白く光っている。自分たちが作った道だ。ガルドの靴音。トビアスの重い足取り。荷車の車輪が路面を転がる音。全ての音が——マギクリートの上で響いている。この道が人を救う。そう信じて——南へ向かう。




