増水との競争
テール川の水位が——朝には三十センチ上昇していた。普段は穏やかな川が、濁った茶色の水を勢いよく流している。上流の山から流れ込む雨水が、川を膨らませていた。
健悟は橋の上から川を見下ろしていた。雨合羽の代わりに、ロッテが出してくれた防水の外套を被っている。水滴が顔を叩く。風が強い。
(水位はまだ上がる。上流の雨はこれからがピークだ)
橋の欄干に手を置いた。《万象鑑定》が起動する。
【テール川水位:通常+32cm(上昇中)】
【流速:通常の1.8倍】
【橋脚1基礎:根固め石に水圧負荷あり、現在許容範囲内】
【推定ピーク水位:通常+80cm(到達予想:午後2時頃)】
プラス八十センチ。健悟の顔から血の気が引いた。
根固めの石が耐えられるのは——六十センチまでの設計だった。三日間で積んだ五十個の石は、平常時の水流と穏やかな増水を想定していた。八十センチの増水は想定外だ。石と石の間を流れる水圧が、石を一つずつ剥がしていく。それが始まったら——連鎖的に根固め全体が崩壊する。
「リーゼ」
健悟は振り返った。リーゼが橋のたもとに立っていた。亜麻色の髪が雨に濡れて、首筋に張り付いている。碧い目に——覚悟が灯っている。
「橋は——持つの?」
「このままでは難しい。水位がさらに上がります。根固めの補強が必要です」
「何をすればいい?」
「土嚢です。根固めの石の外側に土嚢を積んで、水圧を分散します。あと——水路の排出口を確認しなければ。修復した水路が正常に機能していれば、地表の溢水を川に逃がせます」
リーゼは一瞬も迷わなかった。
「分かった。私が人を集める」
走り出した。雨の中を。泥を蹴立てて。
リーゼは——この一週間で変わった。いや、変わったのではない。元々持っていた力が、発揮される場面に出会ったのだ。父親を失い、衰退する村を必死に支えていた二十歳の女性が——危機の中で本領を発揮している。
健悟は橋脚の状態を鑑定しながら待った。手を欄干から離さず、五分おきに数値を読む。水位はじわじわと上昇している。三十二、三十四、三十七。時間との勝負だ。前世の災害対応でも——初動の速度が全てを決めた。最初の一時間で何をするかが、被害の規模を左右する。あの時は対策本部の会議室で電話を受けていた。今は現場にいる。足元を水が流れている。
三十分後——十人以上の村人が橋に集まった。雨の中、麻袋と土を持って走ってきた。子供を連れた女性もいる。リーゼの号令で、全員が土嚢作りに取りかかった。
「袋に土を詰めて! 八分目まで! 口はしっかり縛って!」
リーゼが叫ぶ。雨音に負けない声だ。村長としての声だ。亜麻色の髪を束ねたまま、自ら鍬を握って土を掬っている。泥だらけだ。構わない。
「リーゼ、あんたは指示を出す側だろう」
ガルドが言った。
「村長だから泥まみれになるんだよ! みんなと同じことをやらなきゃ——ついてきてくれないでしょ!」
リーゼの声に——村人たちが応えた。誰も手を止めなかった。泥だらけの村長が鍬を振るっている。それを見て——逃げる人間はいなかった。
健悟は橋脚の下で土嚢の配置を指示した。根固めの石の外周に——三段に積む。水の流れを受け止めて、石への直接的な衝撃を和らげる。
「この土嚢は——もう少し右。水が左から来ますので、正面よりやや左寄りに厚く積んでください」
トビアスとガルドが土嚢を運ぶ。雨の中、川に入って腰まで浸かりながら——土嚢を積む。水の冷たさが骨に染みる。歯の根が鳴る。流れが速い。足を取られそうになる。水を吸った土嚢は倍以上の重さだ。
「ガルドさん! 無理をしないでください!」
「無理じゃない。冒険者時代はもっとひどい川を渡った。——ワニがいたからな」
ガルドが冗談を言った。健悟がこの世界に来て以来、ガルドの冗談を聞いたのは初めてだった。
午前中に土嚢を六十個積んだ。根固めの外周が二重の防護壁で覆われた。これで——水圧に対する耐力が四割増しになる。鑑定で確認すると、防護壁の安定度は良好だった。
しかし——雨は止まない。むしろ強くなっている。視界が白くかすむほどの豪雨だ。水位は上がり続けている。午前十一時の時点で通常プラス五十センチ。予想よりも早いペースだ。
ロッテが屋根の下にテントを張り、温かい飲み物を用意してくれていた。作業の合間に村人たちが駆け込み、冷えた身体を温める。ロッテの存在が——士気を支えていた。食事を出す人間がいるということは、この戦いに後方支援があるということだ。それだけで人は頑張れる。
「水路は——ちゃんと機能してるの?」
マルテが傘もささずに駆けてきた。泥跳ねで裾が汚れている。しかし本人は気にしていない。数字に生きる商人は——今、数字で状況を把握したがっていた。
「確認します」
健悟は水路の排出口に向かった。橋の上流側、川岸に近い場所。昨日修復した水路の出口だ。
手を当てた。鑑定が起動する。
【水路排出口:機能中】
【排水量:毎分約200リットル】
【地表溢水軽減効果:推定40%】
機能している。あの夜通しの掘削が——あの雨の中の水路補修が——今、この瞬間に効果を発揮している。修復した水路が、地表に溢れるはずだった水の四割を川に直接排出していた。これがなければ——地表を流れた水が橋脚基礎を直接洗い、根固めの石を裏側から崩壊させていただろう。
「水路は動いています。地表の水を四割減らしています」
「四割! それは大きいわね」
マルテの目が光った。数字に反応する商人の本能だ。
「橋が持つかどうかは——午後二時頃のピーク水位次第です。それまで耐えれば——勝ちです」
「勝算は?」
「五分五分です」
「商人としては——最悪のオッズね。でも賭ける価値はある」
正午を過ぎた。水位は通常プラス六十センチに達した。設計限界ぎりぎりだ。
土嚢の一つが——水圧で押し流されそうになった。ガルドが飛び込んだ。腰まで浸かりながら、片手で土嚢を押さえ、もう片手で新しい土嚢を積み上げた。
「ガルドさん!」
「黙って次の土嚢を寄越せ!」
トビアスが土嚢を投げた。ガルドがキャッチし、崩れかけた場所に押し込む。水飛沫が顔を叩く。しかし——一歩も退かない。
リーゼが土嚢作りの指揮を執りながら——自分も泥だらけの手で袋を縛っている。髪が顔に張り付いている。しかし目は——燃えていた。
「まだ足りない! もっと土嚢を!」
村人たちが応える。誰も帰らない。誰も諦めない。一週間前、「どうせ無駄だ」と傍観していた村人たちが——今、全身ずぶ濡れで泥まみれになって戦っている。この橋が自分たちの生命線だと、全員が理解していた。
マルテが帳簿を片手に——ではなく、鍬を片手に駆けつけた。
「商売にならない日は体を動かすに限るわ」
小柄な体で麻袋に土を詰めている。商人の矜持が見え隠れする。この村の経済を支えているのはマルテだ。橋が落ちれば一番困るのも彼女だ。
健悟は橋脚の安定度をモニタリングし続けた。手を欄干から離さない。青い構造線が視界に広がり、数値パネルが刻々と変化する。
午後一時。プラス七十センチ。土嚢が水圧を受け止めている。根固めの石は——まだ動いていない。
午後一時半。プラス七十五センチ。設計限界を大きく超えている。しかし——土嚢が踏ん張っている。そして水路の排水量が増加した。水圧が上がったことで、逆に水路の流速が増し、排水効率が上がったのだ。地表の溢水が減っている。水路が——予想以上に機能している。
遠くで雷鳴が響いた。空が暗い。しかし——西の空に、わずかに明るい部分が見えた。雲が薄くなっている。
(雨は——そろそろピークを超えるかもしれない)
しかし油断はできない。増水のピークは雨のピークより遅れてやってくる。上流の山に降った雨が川に到達するまでのタイムラグがある。国交省で何度も見た水位グラフの形——降雨ピークの数時間後に水位ピークが来る。
リーゼが健悟の横に来た。雨に濡れた顔が、真剣な表情で健悟を見上げている。
「どう?」
「まだ上がります。あと一、二時間。——でも、ピークを超えれば下がるはずです」
「持ちこたえれば——勝てるんだね」
「はい。増水には必ずピークがあります。ピークを超えれば水位は下がる。下がり始めれば——勝ちです」
「じゃあ——持ちこたえるだけでいいんだ」
「そうです。耐えるだけです」
リーゼが頷いた。そして——踵を返して土嚢作りの輪に戻った。背中が小さい。しかし——その背中に、村の全員がついてきている。
午後二時。水位がピークに近づいている。健悟は欄干を握る手に力を込めた。青い構造線が——橋全体を包んでいる。三百年の橋と、十日間の修繕と、一晩の土嚢が——増水と戦っている。
(あの時——国交省で折衝資料を作っていた自分に言ってやりたい。書類の数字の向こうには、こういう光景がある。泥まみれの人間が、冷たい雨の中で橋を守っている。それが——インフラの現場だ)
ここが——正念場だ。全てはあと数時間で決まる。




