残業三百時間の果てに
土師健悟は、モニターの数字を睨んでいた。橋梁耐震補強予算。概算要求額と財務省の査定額の差が三十二億。この差を埋めるための折衝資料を、明日——いや今日の午前十時までに仕上げなければならない。
年度末だった。三月の国交省は戦場だ。予算の繰越手続き、次年度の事業計画、各地方整備局からの報告書の取りまとめ。全てが同時に降ってくる。
(今月の残業、何時間だ。二百八十……いや、三百は超えたか)
Excelのセルに数字を打ち込む手が、微かに震えている。疲労ではない。寝不足だ。いや、疲労だ。どちらでも同じだった。この三年間、月の残業が二百時間を下回ったことがない。
「土師くん、まだいたのか」
守衛の田中さんが巡回で顔を出した。六十代の温和な顔が、心配そうに歪んでいる。
「もう少しで終わりますので」
「その『もう少し』、先週も聞いたよ」
田中さんが苦笑して去る。廊下の足音が遠ざかり、またフロアは静寂に戻った。デスクに視線を戻す。付箋だらけのモニター。飲みかけの缶コーヒーが四本。弁当の空き容器が二つ。携帯の不在着信が十二件——母からだ。三日前から折り返していない。
(ごめん。週末に電話する)
週末は来ない。正確には、来るが休めない。この三年間の週末は全て出勤日だった。
別に不満はない——と思い込んでいた。国交省に入った理由を覚えている。大学の研究室で橋梁工学を学んだ。人の生活を支えるインフラを作りたかった。設計図を引いて、コンクリートを打って、人々が安全に渡れる橋を架ける。それが夢だった。
現実は違った。東大工学部を出て国交省に入り、配属されたのは霞が関のデスクだった。設計図は外注。施工も外注。自分がやるのは予算の折衝と書類の決裁と会議の調整。十一年間、橋に触ったことすらない。図面の上でしか橋を見たことがない。
それでも——自分の仕事に意味があると信じていた。この書類一枚が、全国の橋の安全を支えている。この数字一つが、何百万人の通勤路を守っている。そう信じて、三百時間を超える残業に耐えてきた。
しかし。
胸が、痛い。
最近——ここ数週間、時折胸に圧迫感がある。三十三歳で狭心症は早い。疲れだろう。きっと疲れだ。来月になれば年度が替わる。少しは落ち着く。今だけ耐えれば——。
キーボードを叩く指が止まった。
折衝資料のページ七——橋梁の耐震補強工法比較表。免震支承の単価が古いデータのままだ。昨年の実績単価に更新しないと、財務省に突き返される。
データを探す。共有フォルダの奥、三階層下のファイル。開く。数字を確認する。修正する。保存する。次のページに移る。同じ作業を繰り返す。午前三時四十五分。四時。四時二十分。
窓の外を見た。空が白み始めている。霞が関の高層ビル群の隙間から、細い空が覗いている。東京の空は、明け方だけ少し綺麗だ。
四時五十三分。折衝資料の最終ページを保存した。百二十八ページ。これで——あとは印刷して、課長のデスクに置けば。
立ち上がった瞬間、視界が歪んだ。
左胸に、杭を打ち込まれたような痛み。
(——え?)
床が傾いた。いや、自分が傾いたのだ。膝から力が抜ける。デスクの角を掴もうとして、缶コーヒーを薙ぎ倒した。茶色い液体がキーボードに広がる。Excelの画面が——遠ざかる。
(橋梁の——耐震補強の計算書。課長に渡していない。あれを渡さないと、来年度の——予算が)
床の冷たさが頬に伝わる。冷たい。三月の夜明け前、国交省のリノリウムの床は冷たい。
(まだ——仕事が。終わっていない。まだ——)
意識が暗転する直前に見えたのは、デスクの上に散らばった付箋だった。黄色い付箋に、自分の字で書かれた文字——「R7橋梁点検 3/15〆」。
三月十五日。今日だ。間に合わなかった。
暗転。
◆
——風が、頬を撫でた。
温かい風だった。国交省の空調とは違う。乾いた草の匂いがする。湿った土の匂いがする。太陽に温められた空気の匂いがする。
(何だ——これは)
目を開けた。青い空が広がっていた。雲一つない空。東京の空ではない。こんなに青い空は見たことがない。
身体を起こした。ワイシャツが草で汚れている。ネクタイが曲がっている。革靴の底に泥がついている。——なぜ自分は草原にいるのだ。
(病院ではないのか。倒れて——救急車が来て——)
見渡す限りの草原。遠くに森が見える。山が見える。道がある——石畳の、古い道だ。ところどころ石が欠けて、雑草が隙間から伸びている。
(夢だ。きっと夢だ。過労で倒れて、ICUで夢を見ている)
頬をつねった。痛い。
腕を見た。スーツの袖の下に、腕がある。自分の腕だ。しかし——疲労で灰色だった肌が、少し血色が良い。目の下のクマが消えている。身体が軽い。三年分の疲労が——消えている。
「あのー」
声がした。背後から。振り返った。
ボロボロの荷馬車が、石畳の道に止まっていた。馬は痩せていて、荷台の板は朽ちかけている。御者台に——一人の女性が座っている。
亜麻色の髪を一つに束ねた、二十代前半の女性。日に焼けた肌。活発そうな顔。服装は——中世ヨーロッパの農民のような、簡素な麻の衣。腰に短剣を差している。
彼女が健悟を見下ろしていた。碧い目が、困惑と警戒を半々に映している。
「大丈夫? 急に光って——そこに倒れてたんだけど」
言葉が通じる。日本語ではないはずだが——意味が頭に入ってくる。
「ここは——どこですか」
「ハルベルト街道。ハルベルト村まであと半刻くらい。——あなた、旅人? その格好、見たことないんだけど」
ワイシャツとスラックスとネクタイ。確かに、この風景には似合わない。
「すみません、状況がよく分からなくて。ここは——日本ですか」
「ニホン? 知らないなあ。ここはアルヴェストリア大陸、グレンヴァルト辺境領のハルベルト街道だよ」
アルヴェストリア大陸。グレンヴァルト辺境領。聞いたことがない地名が二つ。日本語が通じるのに日本ではない場所。中世風の服装。ボロボロだが明らかに実用的な荷馬車。
(これは——異世界、という認識でいいのか)
国交省で培った状況判断能力が、高速回転を始めた。現状を整理する。
一、自分は国交省のオフィスで倒れた。おそらく心臓発作。二、気がついたら草原にいた。三、言葉が通じる中世風の世界。四、身体の疲労が消えている。
結論——状況不明。情報収集が必要。
「あの。お忙しいところすみませんが——近くに宿はありますか」
自然と丁寧語が出た。相手が誰であれ、初対面には丁寧語。国交省の習慣だ。
亜麻色の髪の女性が、首を傾げた。
「宿……ロッテのところなら泊めてもらえるかも。でもお金は——」
「持っていません」
「だよね。その格好、荷物もないし。——まあいいや。乗って。村まで送るよ」
荷馬車の荷台を指さした。あっけらかんとした声。警戒はしているが、困っている人間を放っておけない性格らしい。
健悟は、荷台に乗った。朽ちかけた板が軋む。干し草の匂いがした。馬が歩き出す。ゆっくりとした足取りだ。革靴の底から、荷台の振動が伝わってくる。
石畳の道を進む。石の組み方が目に入った。——古い。かなり古い。しかし基礎工事はしっかりしている。排水のための微妙な傾斜もある。これを作った人間は、道路工学を理解していた。ただし補修が全くされていない。石の欠損率は三割を超えている。このまま放置すれば——五年以内に通行不能になる。
(……職業病だな)
異世界に来て最初に考えたことが道路の劣化判定。自分でも呆れる。
「ねえ」
御者台の女性が振り返った。
「名前、聞いてなかった。私はリーゼ。リーゼ・ハルベルト。あなたは?」
「土師健悟です」
「ハジ……ケンゴ? 健悟、でいい?」
「ええ。健悟で」
「健悟。変な名前だね。噛みそう」
「お互い様でしょう、リーゼさん」
「さん、って何。リーゼでいいよ」
リーゼが笑った。快活な笑い声だ。荷馬車の上で風に亜麻色の髪が揺れている。
荷馬車が丘を越えた。眼下に——小さな村が見えた。五十軒ほどの家屋。中央に石造りの橋が架かっている。川は細いが、橋は立派だ。いや——立派だった、と言うべきだ。
遠目にも分かる。橋のアーチに亀裂が走っている。欄干が一部崩落して、石が川に落ちたまま放置されている。橋脚の基礎が——露出している。洗掘だ。河床が下がって基礎石が剥き出しになっている。
(あの橋——危ないな)
国交省時代の感覚が、警鐘を鳴らしていた。
「あれがハルベルト村。私の村だよ」
リーゼの声には誇りと——少しの疲れが混じっていた。
荷馬車が坂道を下り始める。村が近づく。橋が近づく。亀裂がはっきり見えた。主桁のクラック。これは——相当まずい。
健悟は異世界に来て三十分。まだ何も分からない。自分がなぜここにいるのか。元の世界に帰れるのか。何一つ分からない。
しかし——一つだけ確実に分かることがあった。
(あの橋は、放置したら落ちる)
国交省の人間として。橋梁耐震補強の折衝資料を百二十八ページ書いた男として。それだけは——確信を持って言えた。




