文化祭当日
十一月十一日、日曜日。今日は当部活の文化祭におけるコンサート。特に今回は第50回記念と部活史上歴史に残るものである。さぞかし学内では注目されているだろうと思いきや、会場にはいまだ800人強の入場者しか居ないと同じ金管パートのチコちゃんに聞いた。トロンボーンの島崎が先ほど会場を見渡してみたらしいのだけれども、大体おばちゃんとかおじさんとかばかりだったらしく、学生はほとんど来ていないようだと言っていた。肝心の学生達はきっと今頃、自分の出店や文化祭を楽しむことに一杯一杯なのである。
ところで昨日僕は大沢さんに叱咤激励を受けてから放心状態でトイレに駆け込み、大便器に向かって少量の吐しゃ物を流した。何かにとり付かれたかのようになって、青色の小さなタイルで埋め尽くされた男子トイレに小走りに向い、金属製の入り口のドアを蹴っ飛ばして予定通り大便器に吐いたのである。口の周りは下腹部から押し出された胃酸が付いたことによってヒリヒリと痒みが現れ、両腕の産毛は逆立ち鳥肌が立っていた。それくらい精神的に衝撃的な出来事だったのである。トイレから出てきた時には既に20時を回っており、歩いて戻った舞台では全パートで平井エロスを奏でているところであった。途中から参加するのも気が引けたので、とりあえず学生指揮の平松が「ちょっとそこチューニングが狂ってるよ」と言うまで、舞台の袖でみんなを見守っていた。そして今は昨日ひっそりと見守っていた舞台袖に各セクションごとに別れ、本番開始10分前という最も緊張が高まる状態に居るのである。
僕は最前列から6番目のところで右の脇に楽器を挟み、出番を静かに待っている。今回の陰の主役である平井さんは緊張に狂っているのではないかと後ろを振り返ってみれば、案外冷静。それより相方の部長の方が緊張にイライラの様子である。
「平松さん、落ち着いて皆で成功させましょうね」
部長の平松に声をかける。
「あぁせやな。頑張ろな。やけど緊張するわ、ほんま」
「そうですね〜、僕だって緊張してますよ。でも終わった後のこと考えたら何とかなるて思ってますよ」
しかし本当は全然緊張して無い僕。いやちょっとは緊張しているのだろうけど、最近では意識的に気にしないようにしている。過剰な緊張は人を失敗に追いやることを体験上シコタマ知っているからだ。
「そやな。あぁでもどないしょ、昨日大沢さんのせいでイライラし過ぎてソロの所全然上手く練習できへんかったわ」
「えぇ、大沢さんですか。ちょっとくらい失敗してもいいじゃないですか。昨日それだけイライラしたんですから」
本当は失敗して欲しくなかったので、あえてそう言ってみる。
「失敗したくないわ!何いってん、人の苦労も知らんと」
「あぁすみません、でも平松さんならきっと本番だから上手くやれますよ」
平松さんホントに余裕ないんだろうなとふと思う。いつものフンガーな調子が出てないじゃないか!そう、平松は本番に弱いタイプなのである。本番に弱いというより、予測がつかないことに対する恐怖が強い人間なのだ。だから予測がつかないことに対する事前の予防策として、自分が全ての統率権を握り物事を為すか、他人に全てを託すかによって物事を為すということを課す人間なのである。昨日の大沢さんとのやり取りは、彼が全てを大沢さんに指揮を託すことによって物事が思い通りに進むと踏んでいたのだろうけれども、大沢さんのハチャメチャ振りに痺れを切らし、思い描いていた通りに平穏に進まないリハーサルを見て憤怒してしまったのであろう。しかし、今日の本番ではきっと上手くやってみせると平松さんには信じて欲しいのである。
「あ、平松さん、おまじないしました?」
「あぁしたした。あれやろ?手のひらに人って書いて飲み込むんやろ?」
そうそれ、それですよ知ってるじゃんこの人。
「いや、違います。人じゃなくて自分の名前を書くんです」
「何やねんそれ?自分の名前を書いて何の意味あるん?」
思いつきで言ってしまったよ、どうしよう。でも平松さんに大沢さんのことを忘れさせて、正気に戻したいのである。
「平松さんいいですか、自分の名前を飲み込むってことは他人に自分は飲み込まれないぞっていうまじないなんですよ」
「あぁそういうことか、なるほどね!よくそんなこと知ってるもんやね。ほんまに効果あるん?」
あぁ単純で良かったよフンガーさん。
「もちろんですよフン…、いや、平松さんがやるから効果が出るんですよ。平松さんこれだって決めたことは突き進む意志力があるじゃないですか。だからそれが失敗の方向へ向かったら本当に行ってしまいますから、ぜひ自分を飲み込んで自分の本心へ向く方向へこのおまじないを使ってみて下さい」
「おぉ、でさフンって何やねん?自分に頷きながら話す人嫌いやわ〜。あぁでも試したる、おまえが言うんやったら試したる」
そんな言い方なくねぇ?とか思いながら、さっきより和らいだ彼の表情を見ながら安心する。
「じゃぁ、これで本番頑張りましょうね」
彼の斜め前で自分の名前を手の甲に書く振りをして飲み込んでみせた。本番までまだ6分ある。ところで僕のパートは全部で3人。本当はもう一人欲しいところだが、生憎このホルンという楽器は人気が非常に少なく、今年の進入部員は金管セクションでは全部トランペットの方へ回ってしまったのである。だからこのペット野郎め!とか、全然関係ない犬とか猫とか想像しながらペット野郎なるものを妄想してみる。そんなホルン野郎の僕はポジション的にはセカンドを担当していて、上回生の竹沢さんはもちろん孤高のファースト担当。それで同じ回生の吉本くんはサード。でも、このセカンドというのがまた微妙なポジションで、大体竹沢さんの影としてメロディラインを這って行く。
竹沢F#の時に僕はAとか出してフラフラしていることが多い。竹沢ハッスルの時には僕は唾抜きしていることが多い。竹沢ソロの時には僕はリアルに裏打ちしていることが多い。シュポシュポシュポシュポー♪って。トランペッター達は大体そういう時に旋律を奏でながら調子にのっている。調子に乗るペッター達の中にはもちろん毎日練習を欠かさずにする今井君とか金田さんとか居るのだけれども、大抵の人間は軽音楽部とかJAZZサークルと掛け持ちしていて、この部活の戦力としては心細い。
「リーくん、どう緊張してるぅ?」
トランペッターに些細な恨みを持って妄想していると、ペッターの金田さんが聞いてきた。そう、僕はリー。陸という名前。だからあだ名がリー。親父が海が嫌いだから陸という名前にしたのだと以前母親から聞かされた。本当かよと戸惑ったが、本当らしい。祖父も同じことを言っていた。海が嫌いだから陸だって。いや、僕海好きだし。
「あ、少しだけ」
「ほんとにぃ?緊張してるんじゃないの、き・ん・ちょーぅ♪」
この目の前の色白ブリッ子女は部内では魔性の女として密かに警戒されていて、同じ回生、同じ年に入部した仲間である。男の先輩を何度か引っ掛け、危険人物として今では扱われている。
「緊張してますよ。もう金田さんにそんなこと言われたらドッキドキだよ」
「うそぉ?だいじょうぶだってリーくんなら」
「それより、金田さんが緊張してるんじゃないの?いつも以上にソワソワしてんじゃん」
「えっ、何で??」
そんなに驚かなくていいだろう、金田。
「だってさ、ペットにミュート差し込んだまま、ソワソワしてんだもん」
さっき練習した時にラッパの中心に差し込んだ細身のミュートを彼女は忘れているのである。
「あ、ほんと。忘れてんじゃん」
さっきのブリブリとは打って変わって冷静に男っぽい金田。耳がちょっと覆いかぶさるくらいのストレートパーマの彼女は、ボーイッシュでヤンチャでキュート。いつもニコニコしていているのに黄色い空気を出さずにピンクの空気を漂わすからヤバイ。
「でしょ?よかったよ気がついて。僕よく気がつくからさ、いま僕に話しかけてくれんかったら初っ端からミュートじゃん」
笑いながら返答してみる。すると目の前の金田の表情が急に曇って、何処と無くイラついた様な顔になってきた。さっきまで軽く足踏みしていたのに、しっかりと僕の目の前に立ってこう言った。
「ありがとね、助かる〜」
軽くドライに喋り、妙に俊敏な足取りで元の場所に戻っていった。といっても、僕の場所から後ろに4番目。言い方悪かったかなと、悩みの種をここで一つ増やす。とにかく僕は人が気が付かないことに誰よりも早く気が付いてしまったり予知してしまうために、よくも悪くもそれを指摘したときに場の空気を変えやすいのである。こういうのを心理学的に言えばS親和性というらしい。以前、その金田が属する文学部で開かれた心理学の講義に潜った時に聞いたのである。その時の彼女は横で真剣にノートを取っていて、女博士のような顔をしていた。まるでそれを昨日のことのようにして、彼女の真剣な眼差しを僕は覚えている。金田が部内では危険人物として扱われている反面、学部では最も静かに聴講している秀才でもあることを知っているのは仲間内では恐らく僕だけであり、同性の先輩から陰口を叩かれていてもめげない強さを持った彼女は、結構男の中では華だったりする。
ところで昔の話、ちょうどあれは1年前だっただろうか。秋が終わる頃部室へ忘れ物を取りに行った時のことである。第一学舎の廊下を小走りで通っていたとき、部活の練習で使う104号室の片隅で夜中に彼女が一人泣いていた。本来練習もとっくに終わり皆帰宅しているはずの時間なのだが、一人楽器を脇の机の上に置き、ぶつぶつ何か呟きながら泣いているのである。いつもみんなの前で明るく振舞い、魅惑的な空気を漂わし男を虜にする彼女は、遅くまで残ってペットを練習しているのだが今日は異常に遅くまで残っている。しかもあの華の金田が鼻をすすりながら泣いているのである。何か見てはならないものを見てしまったような気がして、僕はその場を立ち去ろうと思ったが、やはり僕は男なんだとかわけのわからないヒーローを気取って引き返した。間違ってもなんとかレンジャーに出てくるレッド系のヒーローではないことは認める。
どちらかというとそっと歩み寄るグリーン系。こうして不器用なグリーンが歩み寄る。その雰囲気が尋常ではなかったので窓際半分だけ蛍光灯の点いた教室に入るのにためらってしまい、タイミングを見計らうために頭の中で反復横飛びを何度もしてみたがドキドキして入れなかった。多分教室の前で2分くらい立ち尽くしていたと思う。
だからやっぱりグリーン系というより、多分2分後には危ない系になっていたと思う。切れ掛かった蛍光灯の様にチカチカと暗くなる金田に、何と声を掛けて上げれば良いのか分からなかったのである。とりあえず金田!っと叫んどけばいいのかもしれないと口先を尖らせて息を吸い込んだその時、彼女は実は携帯で誰かと話しているのだということに気がついた。しかもハンズフリー機能で。アホ臭、誰にも見られてない努力は何だったのさ。やっぱり最後までグリーンにすらなれないのか、僕。金田に声をかけずにこのまま帰るのがベストだろうと思ったのだが、せっかく何か呟いているのだから内容くらい聞いたっていいじゃないかと思って聞耳を立てる。廊下の窓からそっと耳をすませばしてみよか。よし、そうしよう。正直に出歯亀になって、鼻紙みたいになった金田の話を聞いてやる。
「うん、ぐっぅ、うん。うん。うん。えぇ?やだよ。それはダメでしょ。うん。うん。だから…」
よく分からない。うんとかイヤとかそんなYES&NOの攻防戦。向こうの川岸にいる御方は一体誰なんだ!しかし次の瞬間、その御方に関する決定的な台詞が飛び出した。
「だってマっちゃんずるいわ、あたしを何と思ってるの?大事にしてよ」
おっと、マっちゃんってもしかして平松さんのこと?あの平松さんと付き合ってんのか?
「…、ぅん、ぅん。イヤ!!絶対イヤ!絶対絶対イヤ!!」
何かとてつもなく激しい金田。
「うん、イヤもうイヤ!お前消えろよ!イラねーよ!!」
激しすぎる今晩の金田。やっぱり見てはいけないものを見てしまった気分になって、そのときその場を立ち去ろうとしたのだが、彼女が闇夜のベランダ側の窓に反射し映った僕の姿に気付き、驚いた顔でこちらを振り向いた。
「…。リーくん、なんでここに居るん?…見ないでよ!帰ってよっ!!」
盗み聞きしていたことを見られて、かなり動揺してしまったリーくんは足元に置いていた自分のバッグにつまずき廊下に転ぶ。すると彼女は目の前の自分の携帯電話を黒板に投げつけ、後ろの教室のドアを開けてトイレに駆け込んでしまった。
「おぃ金田!待ってよ、どうしたんだよ。聞いて悪かった。たまたま通りかかったんだよ!」
とっさに出た言葉がそれだった。今ならもっとマシな言葉が出ていたと反省している。せめて自己弁護じゃなくて彼女を保護する方向の言葉を発せていたと思う。金田はその後20分くらいトイレの中で泣き、ヘトヘトになって出てきた。泣きじゃくってボロボロになった彼女は外で待っていた僕に抱き付き、左の肩に自分の顔を押し付け鼻水まみれにしてくれた。その後は彼女の切ない失恋話を明け方まで近くの漫画喫茶で聞き、何も事はせず夜を明かし、いつもどおりそのまま学校へ登校した。
そんな昔話、今では懐かしい思い出。きっと彼女にとって、そんな日のことはどうでもいい話なのだろう。最近はたぶん毎日ハッピーハッピーの金田。竹沢さんと付き合っている。もう勝手にして。さてあぁもう本番じゃん。金田のお陰で待ち時間緊張せずに済んだよ。緊張返してくれよ。
開始のブザーが鳴ると同時に、舞台袖の黒幕が引かれる。一列になり、それぞれのセクションがそれぞれの配置に着き姿勢を正した。そして444Hz、Aのチューニング。平井さんのこだわり444。呪われるで平井さん。グヘヘヘ〜、呪われまっせ。平井マジック!みたいな〜。でもマジックが解け、会場は一斉に消え行く夏の終りのようにシーんと静まり返ってしまった。そして上座の舞台袖からはあのOSAWASEIJIが胸を張り上げてやってくる。会場一同、拍手喝采。うまいね、ザーサイ。さーて平井エロスが始まるぞ〜!やっほー、やっほー、やっほほ。
僕の左に座るサードの吉本は緊張のせいか黒いスラックスを履いた膝をガクガクと震わせている。右に座る竹沢さんは貴公子の様な眼差しで真正面を向いている。もちろん僕は脇目を振って確認したわけではない。馬のように、右と左を真正面を見ながら確認してみたのである。草食動物のように耳をプルんプルんさせて確認してみたのではない。そして肝心の自分の楽譜に目を通すと、毎日練習してきたために擦り切れたページ番号の部分に何やら小さな付箋が貼ってあることに気がついた。なんだこれ?なんか書いてある、僕の字じゃないし…。よく見ると小さい字で『頑張ろうね』って書いてある。そして右下を見てみると『金田』って書いてある。
これ金田からの応援だ。何で僕のところに貼ってあるんだろう?竹沢さんの譜面と間違えて貼ったんじゃないだろうか。
でも普通間違えるか?間違えてるなら間違えているとテレパシーしておくれ!そんな無線の技術について思いを巡らせている内に大沢さんがタクトを振り上げた。そして初っ端早々、僕は間違ってプリっていう音を出す。続けてプリプリプリリー♪緊張が解けすぎて、ミスってしまったのである。その瞬間、大沢がこちらを睨みつけた。大蛇の瞳のように僕を捕らえて離さない。そしてとうとうタクトを投げつけた。え、あれ、本番でしょ!?大沢はタクトを投げつけたまま、左手で指揮は継続している。しかし未だ視線で焼き尽くすように睨んだまま。そして竹沢さんの出番。ここでは金田のトランペットが副旋律を奏でている。木管の提くんは僕と同じシンコペーション。ここで大沢さんは視線をようやくズラし、タクト無しの手で竹沢さんのホルンに向かって魔法のかかった蝶を飛ばすようなイメージで語りかけ始めた。しかし微妙に金田の調子が悪い。チューニングが3Hz以上下がっている気がする。大沢さんはそのことに気がついているのだろうか?何かを目論んでいるかのような金田のズレたペットの音色は、混濁したフルーチェのような甘美さよりも、どっちかといえば排水溝の中の暗闇の様な滑りを僕の心に連想させた。つまりミスマッチを起した金田と竹沢のハーモニー。
あれだけ練習していたじゃないかと思いながら、僕は金色に曇ったホルンで裏打ちを続けて早25秒。提くんもきっと25秒。そして彼らのねっとりした季節は終わり、曲も中盤の木管セクションの盛り上がりに差し掛かり平松さんのソロに入っていった。
実は後で知ったのだが、金田と竹沢さんの恋あそびは既に破局していたのである。あの平松さんの時と同じく、砂の城がズブズブと崩れる前に爆発し炎上したらしい。
それでも平井エロスは最後までルンルン♪だったので思わず記憶に残るコンサートの余韻に苦笑いしてしまった。しかしその苦笑いの思い出は可愛いもので、コンサートの後は大沢先生に一発顎を殴られたことは一生忘れられない。5秒くらい無我の境地に彷徨った。隣でそれを見ていた後輩の女の子は見て見の振りをしながら、後で挨拶を交わした薄汚い楽屋で大丈夫でしたか〜?とフザけた笑顔で、廊下の埃で汚れた僕の顔をウェットティッシュで拭いていたことは忘れたい。
僕の後ろに居た吉本はずっと腹を抱えて笑っていた。その時大沢さんのように一発殴ってやろうかと拳を握り締めていたことは秘密である。大沢さんは僕の中に何かが足りないということに気付かせてくれた先生だったと、今では手を合わせて拝むほど感謝しているのである。大沢仏陀あーりがと。その何かにはまだまだ気付けそうに無いんだけどね。




