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大沢哲学

十一月十日、土曜日。今日は文化祭準備の日。僕の所属している神戸大学交響楽団は、今日のためにオリジナルの曲を練習してきた。このオリジナルの曲ってのがバリやばい。何でもこの部の先導者、つまり部長の彼女である平井さんが作ったというから大変である。今日は白い細身のジーンズに黒のブーツ、ベージュのモワモワしたコートを羽織る平井さんの脇に近づいて、僕は斜め向いに座ってみた。

 リハーサル兼本番のこの会場には前方には弦楽器、中間には木管・金管楽器、最後方には打楽器群が並んでいる。

「おぉやぁ平井さん、ほんとそのメロディはエロいですよね。ビオラのソロかっこ良すぎます。僕はホルンですけど、なんでホルンにはいつも旋律を奏でさせないのですか?平井さん。ビオラにさせてはダメですよほんと。ホルンにお願いしますよ。ほんと平井さんったらアレなんだから」

とか小さい声で平井さんの脇でいやらしいことを呟く。平井さん自身パワハラキャラなのでかまわないと思っている。というわけでどんな感じでエロいのかというと、平井節の利いた曲線美を歌うメロディ。間違ってもあのヒライケンではない。もちろんあのケンちゃんでもない。つまりそのメロディってのはどういうのかというと、フルーチェとこんにゃくの間くらいの固さの直径60センチ、長さ2メートルくらいの円柱をパステルピンクの空気の中でプルンプルンさせて、表面をガラス玉や石鹸でスベスベとさせてみるようなまるでそんな曲線美。それなのにとってもルンルン♪していて、途中から形のあるヴァイオリン達が折り重なるようにして協奏しあい、ティンパニとクラッシュシンバルの偉大な抱擁の中で形付け終わる。

 やっぱりこんなメロディラインを思いつくのはあの部長と付き合ってるからだろうな、と遠くから僕は心配になり頭をかいてみる。その部長ってのは平井ではなく平松というのだけど、この平松っていうのがまたキモい。いっつもフンガーフンガー言ってるから、牛みたいに鼻輪を付けて引っ張ってやろうかと顔を見るたびに考えている。でも流石に先輩だからそれはできないので、みんなに見えない鼻輪を付けて引っ張ってもらっている。そういうところには干し草1トン分くらい感謝してることは嘘じゃない。

 今、この会場には総勢50名程の部員が集まっている。指揮台の脇には大きな白い蘭の花が飾られ、手前の観客席には部長と平井さん、音響設備担当のADさんが何かを相談しているようである。これから例の平井オリジナル曲のリハーサルが始まるのだ。 明日の本番に備えて、こういったリハーサル練習をしておくということは気持ちを整えておくためにも大切であり、自分の心の居場所というものをしっかりとステージの上に見つけておくということがポイントになってくるのだ。

 ところで指揮者は今日明日と藝大からゲストを迎えて行うらしい。普段は学生指揮が取り持っているこの部活なのだが、そういう大きなイベントの時だけは大抵、藝大の人間にそれを頼んでいて毎年その依頼金の用意には困っていなかったのだが、今年度は大学学生課の教育委員会の方から補助金が下りず、そのお布施の調達に上層部の部員が四苦八苦した。まぁ、日本の指揮者といえば小澤征爾が今世界で最も熱いが、本日ここへ来られる指揮者は未来の小澤征爾になることは無いだろう。まさかそんな人間が神戸大学のこんな部活に来るわけがない。と、おもったらびっくり!小澤さんみたいな顔した大沢さんが来て下さったのである。グレーのラフなジャケットに茶色の編みこみのきついマフラー、黒い皮手袋、細身の茶色いブーツ、ベージュのハンカチを胸元に添えている。本当に小澤さんが来たのかとリハーサル会場は一瞬静まり返ったのであった。

「あれあれっ、小澤さんじゃない?」

「ほんとだ〜、って違うよ!」

小澤さんが藝大のハズが無いだろううんこちゃん!その後、今日の主役である大沢さんは開口一番こう言った。

「よぉおまえら、いつも勉強ばっかりして演奏ヘタクソなんだろう。僕なんか呼ぶんじゃねぇよ馬鹿野郎」

 会場は一気に静まり返り、みんな目が点になってしまっている。うわー、実にエグい。こんな感じだから、リハーサルは沈痛なムードで始まると同時に部員達はその大沢さんの本性を身をもって体験することになった。つまり極めて悪魔的な完壁主義。だから部員達は何度も彼の指揮が止まる度にタクトで殴られ、タクトは何度も折れ曲がり、叱咤激励される。女性陣はあまりの厳しさに鼻水まみれに泣き始め、男性陣は半ギレ模様で彼の情熱を受け止めていた。僕はあまりにもその光景が現実離れしててレアだったので、ニタつきながらあの平井さんが作った曲で何でこんなに叱咤されなきゃならないんだと一人で噴出し、ホルンの唾抜きをする。多分本当は笑うところではないが。しかし譜面台に隠れ僕はずっと笑っていた。彼のタクトが折れ曲がりポッキリしてしまう前に、やっぱりフンガーフンガーの平松部長が大沢さんに絡めよと遠くからエールの視線を送っていると僕の夢は直ぐに実現したので思わず目を見開いた。

「大沢さん、それはないでしょう」

 思った通りキレ気味のフンガーが大沢に食ってかかる。そういえばフンガーと大沢さんは第一印象は似ているなぁ。あの口元と眉間にしわを寄せた感じはまさに瓜二つ。喋るときに口角に泡をため、自分の想いを目の前のじゃがいも達にぶつけるのである。

「おまえは音楽というものを知っているのか?」

大沢さんがフンガー平松に自分の哲学を投げかけ、フンガー平松は大沢さんから目を逸らす。さてどうする平松。

「・・・わかりません」

おい平松、平井さんが見ているじゃないか。それでいいのか平井、いや平松。と思っていると間を開けながらも平松さんはこう言った。

「大沢先生にとって音楽とは何なのですか?」

キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!! 良くぞ言った、大沢さんの哲学がこれで聞けるじゃないか。僕はそれが聞きたくて、この対決を応援していたのだ。

本当はからかいたいわけではない。大沢さんの本音を聞きたいのである。そしてあのSEIJIOSAWAが険しい表情に変わる。

「僕にとっての音楽とは無そのものだ」

キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!! ますます意味わかんない。大沢哲学最高。その後妙に大人しくなった大沢さんと、妙に暗いムードになったフンガー平松を横目にしながら非常に気まずい限界の空気の中リハを終えた。大体この部活の女性陣には元々、ワイワイガヤガヤあるいはガミガミするような緒方のようなタイプは居ないので、一度空気が変えられると元の明るい空気にしようという試みはされないのである。僕はいつもそういうところは非常に残念に思ったりする。

 ところで、大沢さんが控え室に居るというので、大沢哲学の続きが聞きたくお茶を差し入れに部屋を訪れた。

「失礼します」

鉄製のモスグリーンをしたドアノブをゆっくりと握り締め開けてみる。この西宮市芸術文化会館の控え室のドアはとても立派なのである。

「先ほどはお疲れ様でした。お茶を差し入れに参りました」

先生にやんわりと挨拶。先生は頷く。

「お茶かよ、もっとマシなものくれよ」

「では何を紅茶でもお持ちしましょうか?」

「うるせぇよ、日本茶でいいよ」

やっぱ本当にエグい。

「あぁハイ」

変な空気になるがお互いに気にしていない。

「おまえは何だ、音楽は好きか?」

とりあえずここでどう答えておけばいいのか、常識的な思考回路でシミュレーションしてみる。(1番。ハーイぼく音楽大好き! 2番。えぇすきですよ 3番。先生と同じくらい大好きです 4番。好きです)頭の中で1番が最初に思い浮かんだのけれども、ちょっと年齢的にどうかと思うし、4番じゃなんか先生に愛の告白をしているみたいだし、3番じゃケンちゃんと同じになりそうだから、無難に2番にしてみようかなと思って口にだしたのは、

「・・・わかりません」

おい、平松さんと同じじゃないかよと自分に突っ込んで微笑んだ19:24の大沢控え室。

「何でテメー笑いながら音楽が好きか分からないって言うんコラ?僕と音楽は一つなんだぞ。テメーは僕を否定したのと同じなんだぞ」

おっと、これはマズい展開?何を言ってもダメだと内心思いながら、本当に大沢征爾は藝大の人間なのかという根本的疑問が頭を過る。実は中指とか薬指とか第一関節辺りから無いんじゃないかと不安になる。それでもすかさず目の前の怪しい指揮者にタクトを突きつけられる前に質問。

「ということは、先生は無なのですか?」

すると大沢征爾はこの質問に対して大人しくなってしまった。(マズッたか?これはマズッたか?怖いな怖いな〜、どうしよう、どうしよう。殺されるのかな・・・)そして次の瞬間、目の前の糞ガキのために大沢哲学の続きをブツブツと語って下さったのである。

「僕はな、確かに無だ。でもな、最初から僕も無だったわけじゃないんだよ。それに無というより僕は無限だ。無と無限は似ているようだけど全く違う。無を目指し僕は旅をしてきたんだ」

…Mr。OSAWA?ダイジョブ?ダイジョブ?

「あぁ無限ですか」

無限かよ。無限ってあの∞でしょ?って絶望して、絡まる心がループした。

「そうだ無限だ。僕の父親は初めから居なかった。小学校2年生の秋に僕と母親を置いて家出したまま帰ってこなくなったんだ。母親は毎日昼間は煙草、夜は酒に溺れて飯は作りたくないだの、風呂を沸かせだの、金を作れとうるせーうるせー」

「えぇ」

「だから僕は無き父親を求め続けてきてある日気がついてしまったんだ。僕自身がどんどん無に近づいていることをな。僕自身の形がどんどん消えてゆくってことだよ。この世界に存在感を与えてくれるはずの母親もおかしくなっちまって無そのものだから、僕はこんな有様さ。でもな、気がついたんだよ。僕は母親の無とは違うって。僕は無を限りなく求め続けてきた無限なんだって。排水溝みたいに真っ黒く淀んだ母親の瞳の奥は確かに覗けば覗いてみる程無なんだけれども、僕はその濁った深海のような恐ろしい瞳の奥を見つめることが出来るようにようやくなれた。だから母親の魂が沈む深海の底に潜って、無に沈んでしまいそうな女や子供たちをきっと救い出すことが出来るんだって」

「そうでしたか」

そうでしたかとしか言い様がない。

「おまえは音楽が好きか?」

先生が僕に涙を流しながら尋ねている。どーしよどーしよ、フンガーさん!マジで笑えない状況。正直戸惑う。

「えっ音楽?ですか」

「そうだよ、何回も言わせんじゃねぇよ馬鹿野郎」

素直に答えるしかないと、のだめみたいに思う。

「音楽は大好きです」

「そうか、クラッシックが好きなのか?」

「えぇクラッシックも好きですけど、ロックとかの方が好きですね」

するとさっきまでギトギトに泣いていた目の前の先生が、今度は怒りの形相で僕の肩に手を掛け、テーブルの上に押し倒してきた。テーブルにおいてあった湯呑みのお茶が勢いよくこぼれて、先生のスラックスにザバッとかかりそうになる。

「てめぇロックなんかやってんじゃねぇよ、そんなんじゃ誰も救えねぇよ」

先生の自論、本当に意味が分からない。それに僕ロックやってないし聞いているだけ。ついでにロックでもきっと多くの人を救えると思うし。あぁ、この先生危ないと真剣に身震いしてしまう。

「先生、先生、落ち着いてください。僕は何もしていません!」

先生は少し落ち着いて、戸惑い怖がる僕から手をゆっくりと引いた。そこまで先生を駆り立てる想いはなんなのかということが気になりつつ、いい加減この部屋から出ようかと体は拒否反応を示していた。体は嫌がってるのに心は嫌がっていないときもあるし、心は嫌がっているのに体は嫌がっていないということもあるらしいことに初めて気が付く。

「いいか、よく聞け。音楽ってのはな、この世界に生きる全ての人間と対話できる唯一の道具なんだよ。言葉を越えた言葉なわけ。人間はな、肉体と精神からなっている生命なんだ。だから音楽ってのはな、人間の精神との対話をするための道具なわけであって、特にクラッシックってのは失意のどん底にまで悲しみに打ち拉がれそれに気付けなくなるくらい精神的に死んでいるような、誰をも信じられなくなった人間でさえも闇の底から救いだすことができるが出来る唯一の愛情なんだよ。音楽をする人間ならよく憶えとけ。この糞ガキが!」

僕は正直この怖い先生に圧倒されて5秒後くらいに泣いてしまった。言葉を理解する前に泣いてしまった。大学の売店前でいつもけだるそうに配られているポケットティッシュが、今着ているジャケットの左ポケットに入っていたことを思い出したが、そんなもの取り出して勝手に流れ落ちるこの涙を拭うことは無理な空気。最後の糞ガキって言葉を他人から言われたくはなかったけれども、とにかく目の前の先生、いやこの男は一体どんな想いで無を求め続けたのだろうかと頭が真っ白になる。

「なぁおまえは今、何を学校で学んでいるんだ?人文科学か社会科学、それか自然科学をやってるんだろう?」

「えぇ、自然科学の数学を専攻しております」

「数学か。中々いいものを勉強しておるな。数学はこの世界の最も優れた記述法であり、言語だからな。世界を客観的に知るってことはきっといい音楽に携われると信じているぞ」

「あ、ありがとうございます」

「いいか、でもな数学を学ぶことは非常に大切なことだが、おまえは学んでいるだけではもうダメだ。人から与えられた学問を嫌々学び続けてももうどうにもならん。現代の人間はそれに気がつきながら自分を騙し、自分に言い訳をしている者も増えてきておる。まして数学を学ぶ段階まで来ていているのだから今すぐにでも人の精神を愛する仕事に貢献しなさい。数学を学ぶということは男を学ぶことでもあるが一旦それはもう終わりにしなさい」

「えぇ、先生。でもそれは言わないで下さいよ」

「馬鹿野郎、死ね。いいか数学を学ぶことはこの世界で男がする目的じゃないんだよ、遊びなわけ。おまえは仕事をして人を感動させ、愛さなければならないの。しかもおまえ嫌々勉強しているんだろう?」

先生の独自の哲学は相変わらず熱くてエグいが、僕の現状に関する指摘は鋭く当たっていた。最近、大学にもまともに行っていないから。

「はい、かなり嫌々やってます。というよりやってません」

「だからな、おまえは数学を学ぶ段階に無いわけ。遊ぶだけなの。おまえがやらなくてはならないことはいまこの現実世界で人を感動させなきゃならないの」

「えっ、じゃぁどうすればいいのでしょうか?」

思わず口が動く。

「知らねーよ、自分のことだろ?いいか僕に言えるのはおまえの心が一番熱くなることをやれ、そして時々また数学の世界に戻ってくればいい。おまえがおまえであれる家はここだってことだ」

「あぁ、そうですか。わかりました。心に留めておきます」

 正直、数学とかよく分からないけどギリギリできているから何とかなっている。化学とか生物とか憶えること一杯で全く面白くないし、道筋立てて考えるだけじゃないから凄く面倒。鉛筆と紙さえあれば何とかなる数学が一番シンプルでまだ分かりやすい。まぁでもとにかく先生は数学が好きだということだけは分かったのでホッとした。いや〜本気で殺されるかと思ったよ。鼻毛が全部真っ白になるかと思ったよ、平井さん。ねー、平井さん。今日は平井さんの新曲がこの目の前の男に汚された記念すべき日。平井さん、僕何かわかっちゃった気がする。きっとこういうことだったんだって。涙がこぼれちゃうもん☆

 平井さん、昔小さい頃よく泣きましたよね。泣かない子になるぞって決めてからは泣けない子になってしまいましたが、ほんとに小さい頃は泣きましたよね?悲しいことがあれば泣いてきましたよね?きっとそういうことって大事なんだと今ふっと思ったんですよ。平井さんのエロスが無ければ、僕はきっと今日まで泣けなかったんだと思うの。きっと今の僕みたいな人間はこの世界の中に沢山居て、心が熱くなる方向へ進むことを許せない自分を縛り付けるくだらないプライドで雁字搦めなってるんだと思ったの。愛し愛されることに臆病な自分を捨てることの出来ないくだらない、本当にくだらないプライドだったんだと思ったの。ええ、フンガーにはやっぱり干し草1トン分くらいしか感謝できませんが、平井さん、あなたになら今なら何でもしてあげらますよ。明日の本番、みんなで顔晴りましょう。

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