始まる青
夫は、やさしいひとだ。夫が大学生の時、私は妊娠した。責任感の強い夫は私と結婚してくれた。そんな夫の浮気を見つけたの秋も深まるころで、時々顔をほころばせながら携帯を見ていた夫を不審に思い、いけないと思いながら夫の社員番号下四ケタをロック画面で入力した。すんなりと私を迎えるように、ロックは外れた。
私には子供がいる、今年で五歳だ。夫とは大学卒業時から結婚したから、もう三年になる。夫はそれなりに大きい会社に勤めている、私の知らないことをたくさん知っている、何かを聞いたらいつも詳しく教えてくれる。私の知らないことを、たくさん知っている。私は妊娠して専門を中退した身だ。「大学は卒業したいから、すまない。」と言ってくれた夫。私と一緒に暮らすために近くの企業に就職してくれた夫。いつも、白い歯をのぞかせながら、優しく笑かけてくれた夫。
私には何もない、資格も専門的な知識も、賢い頭も。夫が20の時、子供が出来た。迷った末に私は夫に電話した。夫はすぐ駆けつけてくれた。二時間もかかるのに、優しい人だと改めて思った。私の優しい夫。
「相手は十九歳の大学生です。現在住んでいるところは、四時間ほど車で走ったところにあります。どうしますか」
依頼した探偵会社の担当が、私に優しい笑みで問いかける。
「どうすればいいのでしょう、私は、子供は。私には収入がありません。」
優しい口調で担当は言う。
「なにもしないという方も多いですよ」
「なにもしない・・・」
くりかえすように私は言った。
夫はいつも深夜に帰ってくる、仕事が忙しいみたいだ。でも、私は夫の帰りをずっと、待っている。
「ただいま、今日のご飯は何かな。」
ネクタイを外しながら、やつれた顔で私に聞く。
「今日は、あなたの好きなものなの。そのまえにお風呂に入ってきたら?」
「ああ、そうだな、ありがとう」
夫が風呂場のドアを閉めた後、夫の携帯電話が鳴った、きっとあの女の子からだろう。
どうして、若さも、将来もあるのに私から夫を奪おうとしているのか、私はずっとわからないままだろう。
こどもはすやすやと寝ている。かわいい、夫に似た息子。息子の顔をみたら、そっと憎悪が湧いてきた。
若い女に騙されている夫に。私から夫を奪った女に。なにももっていない私に。
探偵からの紹介で初めて弁護士に会った。
「では、ご確認お願いいたします。共有財産の七割、月四万円の養育費の請求でいいですね?」
書類を一通り確認した後、顔を弁護士のほうに向けた。
「私のしていることは正しいのでしょうか。」
弁護士が私の顔を見据えて、言った。
「正しさなど私もにわかりません。私の仕事は依頼人の正義に忠実に添うことです。貴方が正しいと思ったものを、私たちは全力で守る。それが、仕事です。」
涙が出てきた。これからすることが、私の正義だと、自分自身に言い聞かせる。
旦那と話し合うのは一週間後の夜になった。旦那が帰宅してくる時間帯に、書類を机に広げて夫を待つ。これからのために、試験の勉強を始めた。息子と一緒に二人でやっていけるように。
食後のコーヒーを飲みながら、旦那の浮気相手の今後を考えた。浮気相手には慰謝料の請求はしないことにした。年が若いのもあるが、なにより、可哀そうだと思ったからだ。十九歳で、年上の男と不倫する浮気相手が。
息子の寝息と、激しい雨の音が、私に何かを訴える。でも、何を。頭が悪い私には、わからない。でも、私のやっていることは間違いではないと、それだけはわかった。