プロローグ
5月が好きだ。
顔に感じる心地よい風。目にまぶしい新緑。エントランスの入り口に咲くハナミズキの花。華麗に舞うモンシロチョウ。青々とした芝生。すべての生き物が生き生きと輝く季節。
すべてのモノにエネルギーを感じる。日々成長するポトス。鳴き方を覚えたウグイス。目の前を飛ぶミツバチにさえも。
こんな季節には、どこまでも歩いて行きたくなる。
長男の爽太郎が生まれたのも、5月だ。
爽やかな季節に生まれるからと、「爽」の一文字をつけた。
名付けたのは生まれる1か月前。
男の子とわかってはいたけれど、なかなか名前が決まらなかった。
夫の亮介と利根川の桜並木を歩いていた時、桜の花が散りかけていた傍らで、うすい緑色の若葉が目を出していた。
その若葉がとても美しかった。
「爽やかな季節に生まれてくるよな。この子には、爽の一文字を付けたいな」
亮介がそうつぶやいた。
「うん、いいね。じゃあ、私がそれに続く名前を考えるよ」
そうは言ったものの、字画などを調べるとなかなか決まらず、結局は音の響きを重視して爽太郎となった。
ちょっと名前が長かったが、呼ぶ時には、「そう」だから、問題は無い。
自己紹介の度に、「いっしきそうたろうです」と言うのは、少々長いかもしれないが。
朝8時半。
そろそろ、幼稚園の送迎バスが来る頃だ。
次男の蓮は、テレビの前で歌のお兄さんに合わせて手を叩いて踊っている。
「蓮、歯磨き終わったの?もうすぐバス来るよ。遅れて行って待たせたら、お友達に迷惑かかるから、急いで」
でも、テレビの前から動かない。舞子の声など聞こえていないようだ。
「ほらほら、急いで」
聞こえているのか、聞こえていないのか、どこ吹く風。
毎日、毎日、『いそいで』と言われ続け、慣れてしまったようだ。
やはり、動かない。
そして、とどめの一言。
「急いでって言ってるでしょう。何度言ったらわかるの」
やっと、のろのろと思い腰をあげ、歯磨きを始めた。
いろいろな子育ての本に、『いそいで、と言うのをやめましょう。子供が出来るまで待ってあげましょう』と書いてある。
もちろん、多少時間がある時には待ってあげられる。
でも、子供が2人いると、1人の時とは違って、時間と言う制約がついて回る。
病院の時間に遅れる。学校に遅れる。バスに遅れる。スイミングの時間に遅れる。
1人目が生まれた時には、2人目を産んで、兄弟仲良く遊ぶ光景を想像していたのに、2人目が生まれると、そんなのは妄想だと知った。
『忙しさ』だけが倍増した。
兄弟仲良くどころか、ケンカばかり。用事も2倍。
病院へ行くにも2人を連れて行く。2人でぐずる。
こんな時、実家が近くにある人は、『お願いね』と言って、1人を放り込めるからうらやましい。
舞子の実家は福岡。夫の亮介の実家は広島。
そして、ここは群馬。物理的に考えて無理だ。
「お母さーん。歯磨き終わったよー」
おっと、もうすぐバスが来る。
毎朝8時45分に、マンション前に幼稚園バスが来る。
今日も、酒井先生が運転してくるだろう。幼稚園に男の先生はめずらしく、雑用係もさせられているようだ。
幼稚園の先生は薄給だと聞くので、バスの運転をすることで、何かしらの手当てが加算されるのかもしれない。
でなければ、結婚して家族ができても養っていけない。
酒井先生が結婚?
ちょっとだけ胸がうずく。別に好きなわけじゃない。
でも、毎日会えるのがうれしい。何をして欲しいわけじゃないけど、目が合って会話を交わすとドキドキする。
恋・・?
いやいや、夫以外で年ごろの異性と話す機会もあまりないから、錯覚しているだけだ。
どう見てもイケメンではない。しかも、10歳以上年下のはず。
家にいて、子供とだけ過ごしていると、見ている世界が狭すぎてイヤになる。
『私って、こんなつまらない人間だったっけ?』
8時46分。
マンション前に1分遅れてバスが到着した。
ワンボックス車にキリンやゾウの絵が描かれていて、見るからに園児が好きそうだ。
いつも通り酒井先生の運転。付き添いの先生は中条先生だ。
この先生は、子供にとても人気がある。蓮も中条先生が大好きだ。
いつも長い髪を横に1つ結びして、大きなリボンをつけている。
幼稚園の先生には、長い髪の人が多い。子供は長い髪が好きだからだろう。
髪が長ければ、女らしい印象を与え、子供に安心感を与える事ができるのだろうか。
いや、違う。
そもそも、子供に媚びる先生なんているはずがない。媚びるとするならば、男にだ。
幼稚園には、若い男が2人いる。園長の息子の事務長と運転している酒井先生。それに対して独身の女の先生は11人。
中条先生も、どちらかを狙っているのだろう。
「おはようございます。蓮くん、おはよう」
最初に舞子に向かってあいさつをし、続いて蓮にあいさつをする。いつも通り、さわやかだ。
「おはようございます」
舞子も微笑みながら丁寧にお辞儀した。酒井先生に、やさしいお母さんを印象つけるための演技だ。
「なかじょうせんせい、おはようございます」
蓮が頭を下げた瞬間、ゴムをかけ忘れた帽子がぽとりと落ちた。
「あらあら、お帽子、落ちちゃったわね」
舞子が拾うより先に、中条先生がさっと拾いあげた。
「あごにゴム、かけておきましょうねー」と、蓮に向かって言ったが、『ママ、ゴムくらいきちんとかけて下さいよ』と、舞子に無言の圧力をかけているように思える。
「どうもすみません」
「いえいえ、大丈夫ですよー」
幼稚園の先生の笑顔はとも怖い。
顔で笑って、心で起こっているように思える。手のかかる、うるさい子供たちの相手に始終ニコニコと笑えるものだろうか。
舞子には無理だ。
だから、幼稚園の先生という職業に就く人が信じられない。子供が好きというだけで勤まるものだろうか。
そう考えてしまうのは、自分が子育てで、いっぱい、いっぱいだからなのかもしれない。
園バスが角を曲がるまで見送って部屋へ戻ろうとすると、目の前に引っ越し業者のトラックが止まった。
誰か、引っ越してくるのだろうか。
舞子の部屋の真下の部屋が空いているから、そこに入居するのかもしれない。
この後は、爽太郎の通う小学校で保護者会議だ。
面倒だが、仕方ない。PTA本部役員の仕事なのだから。
部屋へ戻って、食器を片付け、脱ぎ散らかされた衣服を片付けた。
準備のために9時半までに小学校へ行かなければならない。時間とにらめっこしながら、掃除機をかけていたが、あっという間に9時20分を回っていた。
『遅刻するわけにはいかない』
まだ、掃除機かけの途中だったが、エプロンを椅子に引っかけ慌てて家を出た。




