第0話 プロローグ 焦げたパンケーキと平和な日常
アメリカ合衆国モンタナ州の朝は、常に一定の儀式とともに幕を開ける。
使い込まれたミルが立てる豆を挽く軽快な音と、鼻腔をくすぐる芳醇なコーヒーの香り。
そこに少しばかり焼きすぎて炭化したパンケーキの焦げ臭い匂いが混ざり合うのが、この家の日常だった。
窓の外に目を向ければ、視界の端から端までを塗り潰すような、どこまでも深いコバルトブルーの空が広がっている。
その下には、北米大陸の背骨とも称される雄大なロッキー山脈が、万年雪を冠した険しい稜線を連ねていた。
山脈の麓、人里離れた場所にひっそりと佇む小さな山小屋。
それこそが、マッド・ボーンズと彼の愛娘であるリリーにとって、何者にも侵されざる「城」であった。
「パパ、これじゃ食べ物じゃなくて炭だよ。食べたらお口の中が真っ黒になっちゃうもん」
リリーが、皿の上で無惨な姿を晒している真っ黒な物体をフォークの先でつついた。
困惑と不満が入り混じった表情で、彼女は大きな父親の顔を仰ぎ見る。
「いいかリリー、炭というのは体にいいんだ。腹の中の悪いものを全部吸い取って、外に出してくれる魔法の薬なんだぞ」
マッドは、丸太のように太く、無数の傷跡が刻まれた腕でフライパンを器用に振りながら、豪快に笑った。
彼が動くたび、鍛え上げられた体躯とその分厚い首に巻かれた重厚なゴールドチェーンが、ジャラリと鈍い金属音を立てて主張する。
清潔に整えられた口ひげとは違い、誰もを威圧するモヒカン頭。
ただ、娘に向ける視線は優しさであふれていた。
かつて「戦場の死神」という忌まわしき二つ名で恐れられ、世界の紛争地という名の地獄を幾度も渡り歩いてきた元特殊部隊員。
硝煙と血の臭いにまみれた過去を持つ男にとって、焦げたパンケーキを振る舞うことこそが、精一杯の「優しい父親」としての表現だった。
マッドは軍籍を抹消して以来、この静かな町でリリーと二人きり、世俗から離れて暮らしている。
悪夢に現れる血生臭い戦場の記憶を、愛娘の無垢な笑顔で塗り替えること。
それこそが、現在の彼に課せられた唯一にして絶対の任務であった。
「さあ、朝飯を済ませたら出発だ。今日はリリーの八歳の誕生日だからな。街へ繰り出して、世界で一番大きなケーキと、最高のプレゼントを買い込むぞ」
「本当!? パパ、アイスクリームも忘れないでね。チョコがたっぷりかかったやつ!」
「ああ、約束しよう。最高のアイスクリームを腹一杯食べさせてやる」
マッドはリリーを軽々と、まるでおもちゃのぬいぐるみでも扱うかのように抱え上げた。
そのまま外へと踏み出し、玄関先に鎮座する愛車へと向かう。
それは、1985年製のシボレー・C-10ピックアップトラック。
無骨なフォルムと、手入れの行き届いたエンジンを誇る、マッドの相棒とも呼べる名車だった。




