紅葉賀巻~若紫の成長~
『ぼんやりと横になっていても気持ちは紛れないので、いつものように、気晴らしに西の対に行かれる。
鬢の毛がほつれたまま、くつろいだ袿姿で、笛を気ままに吹きつつ行かれると、女君は、さきほどの花(撫子)が露に濡れたような風情で、物に寄りかかって横になっていらっしゃる。その様子は可憐で可愛らしい。邸においでなのに早く西の対にいらっしゃらないことが少々恨めしかったので、いつもと違って背を向けているらしい。
光る君が呼びかけても、女君はそしらぬ顔で、
「入りぬる磯の」
と口ずさんで、口を覆われるさまが、たいそう可愛らしい。
「おや、憎いこと。そのようなことも言うようになられたのだな。飽きるほど見るのも、よくないことだよ。」
と言って、琴をお取り寄せになる。
琴の調子を整えて、姫君のほうに押しやると、姫君はすねるのをお止めになって琴をお弾きになる。
小さなお身体で、手を伸ばし、弦を押さえて揺らし響かせるお手つきは、たいそう可愛らしくて、笛を吹き鳴らしつつお教えになる。とても賢くて、難しいさまざまな調子を、ただ一度だけで習得してしまわれる。
大方のことに才長けてすぐれているご気質を、願い通りだと思われる。』
潮満てば 入りぬる磯の 草なれや 見らく少なく 恋ふらくの多き(万葉)
(潮が満ちると水の下に沈む磯の草のようだ。少ししか逢えなくて、恋することばかり多い)
→ 若紫;「なかなかお会いできませんね。ぷん。」
伊勢の海人の 朝な夕なに かづくてふ みるめに人を 飽くよしもがな
(古今)
(伊勢の海人が朝夕頭にかぶるという海松。そのように、あなたを飽きるほど見る方法があればいいのに)
→ 光る君;「飽きるほど見るのも良くないよ。たまにだから良いのだ。」
と、こんなやり取りをしていたらしいです。
若紫ちゃん、手習いも始めたばかりと言っていたころから一年程度で、ずいぶん成長しました。
この頃の教養ある貴族は、万葉集も古今和歌集もその他の歌集も、さらには漢詩まで、色々覚えていました。それが普段の会話にも、詠み交わす歌にもたびたび出てくるのです。
こういうのを見ると、平安時代の話を書くのは難しいと感じます。そんな教養、現代の一般的な日本人にはありませんから。
おまけに、彼ら、すぐ歌を詠みます。普通に言えばいいのに、というところでも歌を詠みます。平安風ファンタジーならともかく、歴史小説書こうとしたら、徹底的に研究するか、徹底的に避けてごまかすか、ですね。
『大殿油をつけさせて、絵などを御覧になっていたが、今夜は外出する予定だったので、供の人々が咳払いなどで合図をする。
姫君は、いつものように心細くなってふさぎこんでしまい、絵を見ることもやめて、伏せてしまわれる。それがたいそう可愛らしくて、髪が美しくこぼれかかるのをかき撫でて、
「他所にいる時は恋しいかい?」
とおっしゃると、姫君は頷かれる。
「私も、一日でも会わないのはとても辛いのだけれど、貴女が幼い間はまだ安心なので、まずは、ひねくれて怨むような人の心を損ねまいと、時々こうやって出歩くのだ。貴女が大人になったなら、決して他所へ行きはしない。人の怨みを負うまいと思うのも、長生きして一緒にいたいと思うからなのだ。」
などとお話しなさるが、姫君は恥じらって、何ともお答えにならない。そのまま御膝によりかかって、寝入ってしまわれるのが、ひどくいじらしく思われて、「今夜の外出はやめた」とおっしゃる。
姫君を起こして、そう申し上げると、姫君はご機嫌を直して、一緒にお食事などなさる。ほんの少しだけ箸をおつけになって、不安そうにしているので、このような人を見捨てては、死出の旅路にさえ、赴きがたいと思われる。
このように引き止められることも多いのを、自然と漏れ聞く人が出て、左大臣家に申し上げたので、
「誰なのでしょう。目に余りますね。」
「今まで誰とも知られず、そのようにお側から離れず、戯れたりするのは、上品で奥ゆかしい女ではないでしょう。」
「宮中あたりでちょっと見初めた女を、人が非難するのではないかとお隠しになっているのでしょう。分別が浅く、幼げな人と聞きますから。」
など、女房たちも言い合っている。
内裏(帝)も、そういう人がいる、とお耳にされて、
「気の毒に、左大臣が嘆くのも、もっともなことだ。まだ幼げであった頃から、心を込めて世話をした気持ちがどれほどのものか、分からない年ではあるまいに。」
と仰せになるが、源氏の君は恐れ入っている様子で、お答えできない。帝は、あの左大臣家の姫が気に入らないのだなと、気の毒に思われる。
「そうはいっても、乱れたふるまいをすることもなく、宮中にも外の女たちにも、特別な者もないようだが、人目につかないところで、どのようにしてこれほど人から恨まれるのだろう。」
と仰せになる。』
帝、息子さん、色々やらかしてますよ。
むしろ、どうして今まで何も耳に入らなかったのかが不思議です。




