桐壺巻~光る君三歳、母との別れ~
『この皇子が三歳になった年、御袴着の儀式が行われた。一の宮(第一皇子)の時に劣らず、大層立派に行われる。
そのことに対しても世間の非難は多かったが、この皇子が成長するにつれて整っていくお顔立ちやご気性は、滅多になく素晴らしいもので、憎みきることは出来ない。
物事の道理を知る人は、このような人も世に生まれることがあるのだなあ、と驚いて目を見張るのである。』
着袴の儀は、数えで五歳(満四歳)になった時に、初めて袴を着ける儀式で、現在も行われているようです。物語では三歳(満二歳)ですけどね。袴は天皇から贈られるそうで、帝は張り切って、一の宮が着けた袴に負けず劣らず立派なものを用意したんですね。
袴を着けた後、碁盤に青い小石を置いて、その石を踏みつけてから碁盤の南側に「えいっ」と飛び降りるそうで。四歳児なら喜んでやりそうですが、ちょっと危ない気もします。
『その年の夏、御息所(桐壺更衣)はちょっとした病気になり宮中を退出しようとしたのだが、帝はお許しにならなかった。長年病気がちで見慣れていたのもあり、「もう少し様子を見よ。」とばかり仰せになっている。しかし日毎に病状が重くなり、五・六日でかなり弱ってしまったので、御息所の母君が涙ながらにお願いして退出することになった。
そのような時にも、なにか失態があってはならないと気を使い、皇子は宮中に留めたまま、人目につかないように退出したのである。
決まりがあるので、帝はそれ以上お止めすることが出来ず、お見送りさえ覚束ないことを、何とも言いようもなくお思いになる。
御息所はとても華やかで美しい人なのに、すっかり面やつれして、思うことを言葉にも出来ず、今にも消え入りそうな様子であるのをご覧になると、帝は何もお考えになれず、様々なことを泣く泣くお約束になるが、御息所は返事をすることも出来ない。
眼差しもとても怠そうで、いつもより弱々しく、危篤の様子で臥せているので、帝はどうしてよいかお分かりにならず戸惑っておられる。
輦車に乗ることをお許しになられたが、また部屋に入るなどして、退出を中々許そうとなさらなかった。
「死出の道にも、共に行こうと約束をしたではないか。いくらなんでも、置き去りにしていくことはないだろう。」
と仰るのを、女(桐壺更衣)もひどく辛いと思って、お顔を見上げる。
「限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり
(これが命の限りと、別れゆく道に立って悲しく思います。行きたいと思うのは、生きる方の道です。)
このような事になると知っていましたら・・・」
と息も絶え絶えに大層苦しそうにしているので、帝はこのまま最期まで見届けようと思われるのだが、
「しかるべき者達が、祈禱を申し付かっており、今夜から始めることになっております。」
と急かせるように言われ、たまらなくお思いになったが、御息所を退出させたのだった。』
当時の貴族の一般的な乗り物は牛車です。牛ではなく人が動かす車を、輦車と言います。車がついているので、輿ではありません。大内裏を移動するためのものでしたが、許可がなければ乗れません。親王、内親王、大臣、女御、大僧正といった貴人が乗るもので、更衣に許可が出たのは特別なことのようです。
ちなみに、更衣という言葉は生前一言も出てきません。桐壺の更衣を示す言葉は、御息所とか女とかでした。まあ、そういう扱いだから、当時の読者は、更衣あたりだろうなと思いながら読んでいたのでしょう。
『帝は胸が塞がれるようで、少しもまどろむことが出来ずに夜を明かされた。御使いが御息所の実家と宮中を行き来する間も、不安が収まらないとしきりに仰せであったが、「夜半過ぎにお亡くなりになりました。」と里の者達が泣き騒ぎ、御使いも大層がっかりして帰ってきた。
帝はそれをお聞きになると、呆然として引きこもってしまわれた。
皇子のことは、このまま側でご覧になりたいとお思いになられたが、(母が亡くなった)このような時に宮中にお仕えするのは前例のないことなので、退出なさることになる。何があったのかお分かりにならず、お仕えしている者達が泣き惑い、<上>も絶えず涙を流しておられるのを不思議そうに眺めていらっしゃる。ただでさえ母との別れは悲しいことなのに、一層不憫で何とも言いようがない。』
美人薄命ですね。
心労が重なって病弱になっていた桐壺の更衣は、ちょっとした病にも打ち勝つことは出来なかったようです。
ところで、文脈から分かることですが、ここで出てくる『上』は天皇のことです。
原文で、天皇を示す言葉が出てくるのはここが初めてなのですが、『主上』としているものもあります。写本の違いでしょうか。紫式部は何て書いたのでしょうね。
天皇を示す言葉は複数あります。
天皇という称号は天武天皇が使用し始めたとされていますが、一般的に使われるようになったのは最近です。亡くなれば諡号で呼ばれますが、存命中は称号すら名指しせず、ぼかした呼び方をしていました。大陸から入ってきた『主上』や『帝』、日本固有の『上』『御門』『内裏』『禁中』『御所』など。
諡号は諡とも言い、亡くなった天皇や上皇に贈る名前です。古代では、とても長い和風の諡のみでしたが、持統天皇の時代に、それまでの全ての天皇に漢風諡号がつけられました。ただ、平安時代から江戸時代まで、贈られたのは院号になっていたらしいですが(朱雀院とか冷泉院とか)、明治時代に天皇号へ改められました。