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源氏物語ってこんな話だったんだ  作者: 紫月ふゆひ
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源氏物語の世界②后妃の位


物語冒頭に、『女御』『更衣』という言葉が出てきます。

当時の読者には常識なので、一々解説はありません。

帝のおきさきであろうことは分かります。それ以上のことは、興味を持って調べないと分かりません。

なので、まとめておこうと思います。


物語の時代、后妃の位はこうなっていました。


 皇后 = 中宮(ちゅうぐう) > 女御(にょうご) > 更衣(こうい)


『后』と呼べるのは、皇后(中宮)、皇太后、太皇太后の三人だけで、他の人たちは后ではありません。

女御は、大臣家の娘がなるもので、将来的に中宮になることもできました。

更衣は、納言家以下の娘がなるもので、位階は四位か五位。桐壺更衣は大納言の娘なので、ここです。


そして、正式に入内をせず、女官の身分で帝の寵愛を受ける場合もありました。『尚侍(ないしのかみ)』や『御匣殿(みくしげどの)』は、女官の役名ですが、物語の時代には、帝の妻と認識される立場でした。朧月夜の君がそうです。


『御息所(みやすどころ)』という言葉も出てきますが、身分問わず帝の寵愛を受けた女性を指す言葉で、桐壺の更衣に対しても使われています。東宮の配偶者を示す場合もありました。六条御息所は後者ですね。


物語に必要なのはこの位ですが、興味の赴くままに、もう少し掘り下げてみます。





古代においては、大王(おおきみ)の妻はオオキサキ(正妻)とそれ以外のキサキというざっくりしたものでした。身分の低い采女(うねめ)(宮女)は妻扱いでもありません。


飛鳥時代に大宝律令が作られた時に、后妃についても決まりが出来ました。

 皇后

 妃(ひ)   二名まで。四品以上の内親王。

 夫人(ふじん/ぶにん) 三名まで。三位以上で有力貴族の娘。 

 嬪(ひん)   四名まで。四位と五位。一般貴族や豪族の娘。


名称は大陸から導入してますね。

明文化されたのはこの時のはずですが、それ以前の天皇にも夫人や嬪がいたりするので、律令が出来てから後付けされたのか、その前に既に序列が出来ていたのかよく分かりません。

律令の決まりごとは、早々に崩れていきます。全員揃った例はありません。


皇后は当初、内親王がなるものという暗黙の了解があったはずです。規定にはないけれど、妃より上ですから。

しかし、律令が作られて最初に皇后になったのは、藤原安宿(あすかべ)媛(ひめ)・光明皇后です。最初は夫人でした。藤原氏の力を高めるため、皇后に押し上げられたのですね。

その後、女性天皇の時代があったこともあるけれど、皇后は常にいたわけじゃありません。正妻がいなくて側室ばかりでも、困らなかったんですね、きっと。


さて、三后(太皇太后、皇太后、皇后)をお世話する役所として、中宮職というものがありました。しかし初期の頃は、三人揃うことなんてありません。

中宮職は、お世話する人がいなかったり、皇太夫人のお世話をしたりしてました(夫人だった人が天皇の母になると皇太夫人と呼ばれました)。時々皇后が立てられた時は、皇后宮職が作られたそうです。

醍醐天皇が皇后を立てた時、初めて中宮職が皇后のお世話をすることになりました。やがて、お世話される皇后のことを中宮と呼ぶようになったのです。だから、しばらくは皇后と中宮は同じ意味でした。


紫式部の時代に、事情が変わります。

藤原道隆は、一条天皇の女御として娘の定子を入内させます。父から摂政を継いだ道隆は、権力基盤を早く築きたいと思ったらしく、定子を『后』にしたいと考えます。しかしこの時、三后のポストは全て埋まっていました。皇后(中宮)のポストにいたのは父帝の皇后です。本来なら、定子はポストが空くのを待たなければなりません。道隆は強引に、皇后と中宮を分け、定子を中宮にしてしまいました。

『四后並立』状態です。

元々権力を手中にするために強引なことを続けてきた摂関家でしたが、世間は反発を覚えたようです。

やがて、道隆が亡くなり、弟の道長が権力を握ると、同じ手が使われました。皇太后のポストが空いたので、皇后を皇太后へ、中宮であった定子を皇后へ押し上げ、道長の娘の彰子が中宮になります。

『一帝二后』といいます。

行事の際の序列は皇后の方が中宮より上でしたが、実家が力を失った定子は、心細い日々を送ったようです。

以後、皇后と中宮が並立する事態が度々起きます。

そして南北朝時代以降、明治時代まで、皇后が立てられることはなくなり、中宮も一部の例外を除いて姿を消しました。


妃は、内親王なので、異母妹だったり叔母だったりしました。平安時代に入って五十年ほどはいましたが、その後しばらく皇后も妃も持たない天皇が続きます。醍醐天皇は久々に妃を持ちましたが、以降はほぼ絶えました。


夫人は平安時代の嵯峨天皇、嬪は奈良時代の文武天皇を最後にいなくなったようです。

大宝律令って、文武天皇の時代ですよ?早くない?

代わりに登場したのが、女御や更衣です。


女御は、平安遷都をした桓武天皇の代から現れます。当初は嬪と同等でしたが次第に格が上がり、夫人と同等になっていきました。定員はなく、清和天皇には十四人の女御がいました。まあ、当時は若くして亡くなる人もいたので、同時に十四人いたのかは分かりません。

江戸時代には、女御を正妻とすることも多かったようです。


更衣は、元々天皇の着替えに従事する女官でした。次第に后妃化して、嵯峨天皇の時代に天皇の妻として明記されるようになります。定員は十名とも十二名とも。

尚、村上天皇を最後に一旦途絶えます。あ、二代後の円融天皇の時もいました。でも、女御二人に更衣二人。数多くいるとは言えません。

おや、時代設定が絞られましたね。

当時の読者は、冒頭で嵯峨帝から村上帝のどこかの時代と分かったのです。この後、宇多帝(うだのみかど)という言葉が出てくるので、醍醐帝・朱雀帝・村上帝のいずれかの時代ということになります。


后妃の位というタイトルですが、后でも妃でもない妻達は何と呼ばれていたんでしょう?原文では、『御方々』ですが。


   ________________________

   |          |           |

 51平城天皇      52嵯峨天皇      53淳和天皇

              |

            54仁明天皇

        ______________

        |            |

     55文徳天皇         58光孝天皇

        |            |

     56清和天皇         59宇多天皇

        |            |

     57陽成天皇         60醍醐天皇

                     |

                ___________

                |          |

             61朱雀天皇       62村上天皇

                     ____________

                     |          |

                   63冷泉天皇      64円融天皇

                  ________      |

                  |      |      |

                65花山天皇  67三条天皇  66一条天皇

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