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源氏物語ってこんな話だったんだ  作者: 紫月ふゆひ
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源氏物語の世界①内裏と後宮

当時の読者には常識でも、現代人は知らない事ってありますよね。というか、冒頭からそのオンパレードです。よく分からなくても話の流れはつかめますが、ちょっと立ち止まって調べてみると、へえそうだったのか、ということも結構ありました。そういうことも時々挟んでいきたいと思います。


物語冒頭の舞台は後宮。

当時の読者には馴染みがあっても、現代人には分からないのが基本です。

どんな所だったんでしょう。ていうか、桐壺ってどこ?


まずは大枠から。

大内裏は平安京の北端にありました。一条大路と二条大路の間、西大宮大路と大宮大路の間です。と言っても分かりませんよね。

京都の町は今も昔も碁盤の目状なのに、通りの場所が変わってしまっています。

妙心寺の北側にある一条通をまっすぐ延ばすと一条大路になり、二条大路は二条城の真ん中を通っていました。

千本通りが大内裏のちょうど真ん中を南北に貫き、二条城の北西1/4が、大内裏の南東の角になる、と言うと京都在住の方には大体の位置が分かるのでしょうか。

広さは現在の皇居の1.5倍、京都御苑の1.8倍でした。その中に霞が関(官庁)永田町(国会)と首相官邸と皇居があるのだから、広大になるのは分かります。



大内裏の南面正門(朱雀門)を潜ってすぐの所に朝堂院があります。当初は政治の中心的な場として最も重要な所で、ここにある太極殿(だいごくでん)に天皇が座して政務や様々な儀式を行っていました。


その北東にあるのが、内裏(だいり)です。当初は天皇の私的な場でしたが、段々こちらに政務の場が移っていきました。

内裏の南側には天皇の政務の場や日常生活の場がありました。

南門を入ると、正面に見えるのが紫宸殿(ししんでん)(南殿)で、正面の(きざはし)の左右に、『右近の橘』『左近の桜』があります。紫宸殿の南側は、ちょっとした広場になっていました。

これは現在の京都御所にも見ることが出来ます。

紫宸殿では、天皇の元服や立太子礼などが行われていました。

紫宸殿の北側にある仁寿殿(じじゅうでん)は、初期には天皇の日常生活の場でしたが、やがて様々な儀式を行ったり、行事を観る場に変わります。

紫宸殿と仁寿殿の西側に清涼殿(せいりょうでん)があり、物語の時代にはここが天皇の日常生活の場になっています。とある更衣が追い出された後涼殿は、その西側部分です。


挿絵(By みてみん)


そして、内裏の北側が後宮になります。

後宮には七殿五舎がありました。

 弘徽殿(こきでん):清涼殿の北側にありました。最も格が高く、実際に多くの皇后が住まいとしました。本物の弘徽殿の女御も何人かいて、ちょっとドキドキしてしまいますが、多分物語の中のような性格ではないでしょう。

 承香殿(しょうきょうでん):仁寿殿のすぐ北側にあります。弘徽殿に次いで格が高いそうですが、なんと真中を馬道が通り、東西に二分されていたそうです。

 麗景殿(れいけいでん):弘徽殿と対になるように、後宮の東側に配置されています。こちらも弘徽殿の次に格が高いそうです。

 登華殿(とうかでん):弘徽殿のすぐ北側にあり、渡殿でつながっています。登華殿と弘徽殿の西側は細殿と言って、女房達の居住空間となっていました。

 常寧殿(じょうねいでん):後宮のど真ん中にあって、当初はここが皇后の為の建物でしたが、そのうち五節の舞という儀式関連にしか使われなくなったそうです。ここも真中を馬道が通っています。物語中で、「どうしても通らなければならない馬道」というのは、この辺りのことでしょうか。

 貞観殿(じょうがんでん):別名「御匣殿(みくしげどの)」。常寧殿の北側です。

 宣耀殿(せんようでん):登華殿と対になるように、貞観殿や常寧殿の東側に位置していました。

 飛香舎(ひぎょうしゃ):別名「藤壺」。元は七殿より格の劣る建物でしたが、後涼殿のすぐ北にあるので、平安中期以降は中宮や女御も住むようになりました。

 凝花舎(ぎょうかしゃ):別名「梅壺」。飛香舎のすぐ北です。ここは東宮御所になったり、摂政・関白の詰め所になることもあったそうです。

 襲芳舎(しゅうほうしゃ):別名「雷鳴壺」。凝花舎のすぐ北です。

 昭陽舎(しょうようしゃ):別名「梨壺」。麗景殿の東側にあります。御朱雀天皇(一条天皇の子)以降、東宮御所になったそうです。

 淑景舎(しげいしゃ):別名「桐壺」。宣耀殿の東で昭陽舎の北側です。実際には摂政の詰め所に利用されることが多かったのだそう。

 

天皇のいる清涼殿は、後宮から見れば南西に位置します。七殿五舎のうち、清涼殿と直結しているのは、飛香舎(藤壺)と弘徽殿、そしておそらく承香殿の西側。淑景舎(桐壺)は最も遠く、多くの殿舎を通らなければ行き来できないんです。そりゃあ、後宮中が一致団結して妨害しますよね。

なぜわざわざそんな所を与えたのでしょう。せめて雷鳴壺なら、狭くても梅壺と藤壺を通ればいいだけなのに。


ところで、こうして見てみると一つ疑問が出てきます。

物語冒頭で、「数多くの女御更衣がいる」とあったはずですが、七殿五舎で足りたのでしょうか。

まさかの相部屋?一つの殿舎を何人かで折半した?

謎です・・・



尚、創建当時の内裏は、紫式部が出仕する四十年以上前の村上天皇の時代に火事で消失してしまいました。再建はされたものの、その後度々火事にあいます。再建中は、退位後に過ごすための離宮(後院)や臣下の邸宅が里内裏となりました。

紫式部が出仕したのも里内裏で、実際の内裏は見ていない、という話もあります。

紫式部が一条天皇の中宮・彰子に仕えたのはたったの五年なんですよね。その母の源倫子にも仕えていたのでは、という噂もありますが、それならお伴で内裏を訪れた可能性はあります。

ちなみに、彰子は藤壺を住まいとしたそうです。



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