第9話 夜縁
家に帰った俺は薄暗い廊下を音を立てずに歩く。
いつの間にか身に付いた無意識の歩き方。
それでも軋む床の音に、キッチンのテーブルに座る母が顔もむけずに声を掛けてくる。
「啓介、随分早かったね」
「あ……うん。母さん、今日パートじゃなかったんだ」
……俺は日南に首筋を齧られた後、そのまま学校を早退していた。
とにかく休みたかったのだ。
母は暗がりの中で顔を上げる。
ためらうようなゆっくりとした口調で話し出す。
「雁ヶ音さんのお宅から連絡があったの。あんたが帰ったらすぐ寄越しなさいって」
……久しぶりの呼び出しだ。
前回はいつだったっけ。
「……あんた。日南のお嬢さんと何かあったんじゃないだろうね」
母の目に浮かぶのは恐怖と困惑―――そして落胆だ。
「あんた最近、日南のお嬢さんとうまくいってるの?」
「問題ないよ。ちゃんと言う通りにしてるから」
「頼むよ、あんただけが頼りなのに。父さんは全然頼りにならないし―――」
母がこの話を始めると、延々と愚痴のループに入る。
無視をすれば機嫌を損ねるし、区切りのいいところまで聞いてやるのが日課となっている。
「なにかあって父さんが馘にでもなったら―――」
「―――なにもないって!」
……今日の俺は堪え性がない。
落ち着こうとゆっくり深呼吸をする。
「いつも通り、電球の交換でもさせられるのかな。あそこ男手がいないから」
そんな詰まらない用事でも、わざわざ呼びつけるのが雁ヶ音流だ。
帰り際に渡される数枚の千円札はむしろ俺を惨めにさせる。
「啓介、ちょっと待ちなさい」
母が部屋に向かおうとする俺を呼び止める。
視線が首のガーゼに向いているのが分かる。俺は思わず手で隠す。
「……啓介、その首どうしたの」
「なんでもない」
「本当にお嬢さんと何も―――」
「なんにもないって!」
言い捨てると階段を駆け上がる。
部屋に戻った俺はパソコンを立ち上げた。
Yu-noはRe-lianceにログインをしていない。
布団に包まり寝息を立てるYu-noの姿を想像しながら、俺は制服のネクタイを緩める。
首の噛み傷が痛む。
俺は血の付いたガーゼをゴミ箱に入れると、新しく張り替える。
あんなことがあった直後に、雁ヶ音の家に呼ばれている。ゾッとしないとはこのことだ。
「クソッ」
……どいつもこいつも。
死ねばいいのに。
―――
――――――
日南の家があるのは、うちから歩いて30分ばかりの高台だ。
大して離れている訳ではないが、後半15分の上り坂は中々に足にくる。
当然、このエリアに路線バスなど走ってはいない。
バスに乗ったり、ましてや自分の足で坂を登るなど、この区画の住民には有り得ない話だ。
どの家にも広い庭があるはずだが、高い塀が囲っていて様子は分からない。
この町に来ると、いつも夢の世界に紛れ込んだような気分になる。
人影が全く無いにも関わらず、監視するような視線を常に背中に感じるのだ。
間もなく、見慣れた白い屋敷に着いた。御多分に漏れず、視界を塞ぐ高い塀。
俺は半ば自動的にインターホンのボタンを押す。
「―――はい」
インターホンから聞こえてくる静かな声は、少し前から居る通いの家政婦だ。
名前は―――なんていったかな。
「南原です。呼ばれて伺いました」
ややあって、ガチャリと鍵の開く音がする。
俺は通用口から中に入る。
「失礼します。あの、今日はどういった御用で―――」
「伺っています。どうぞ、おあがりください」
玄関で迎えた家政婦は、質問には答えず応接室まで俺を案内する。
「ここでしばらくお待ちください」
俺はソファの隅に座ると、落ち着かなく周りを見回す。
……相変わらず静かな家だ。
日南の両親はこの家にはあまり帰ってこない。
……いや。日南の父親に関しては一体この家に何度立ち寄ったのだろう。
俺よりも少ないのは確実だ。
母親もいつもどこで夜を過ごしているのか。週に一、二度戻って来る程度と聞く。
最初は固く感じたソファが、段々と身体になじんでくる。
疲れた身体を預けてウトウトしていると、遠くから低い機械音が聞こえてくる。
……エレベーターの音だ。
日南はまだ学校で、両親もいないとなれば自明の理だ。
使用人の他にこの家にいるのはただ一人。
カラカラと乾いた音が近付いてくる。
俺は応接室の大きな扉を開ける。
それを待っていたかのように、不愛想な家政婦が車椅子を押して部屋に入ってくる。
車椅子には白い肌の少女。
少女が儚げな笑みを浮かべて首を傾げると、黒い前髪がサラサラと額を流れる。
俺は思わず息を呑む。
「……夜縁ちゃん」
夜縁は日南によく似た目元を緩めると、俺に向かってほほ笑んだ。
「久しぶり―――啓介お兄ちゃん、元気してた?」
夜縁は俺の近くまで車椅子の車輪を漕いでくる。
―――雁ヶ音夜縁
日南の4歳離れた妹。
今年中学校に上がったばかりだ。
家政婦と二人で彼女をソファに下ろす。
「光枝さん、お茶をお願い」
無言で出て行く家政婦を見送ると、夜縁にひざ掛けをかけてやる。
「ありがとう。いつもお兄ちゃんは優しいね」
「どうかな……。そんなこと言ってくれるのは夜縁ちゃんくらいだよ」
離れようとする俺の手を、素早く握ってくる夜縁。
「随分久しぶりだよね―――8年ぶり、かな?」
前髪の間から俺を真っすぐ見つめる瞳。
俺は思わず目を逸らす。
「……3か月ぶりかな。お盆の頃、両親とあいさつに来たから」
俺の反応に満足したのか。夜縁は俺の手を離す。
「そうだった。ごめんね、8年前は―――」
夜縁の口元に、姉とよく似た笑みが浮かぶ。
「―――事故の日だったね」




