第27話 夜の縁
二日目の捜索でも日南の消息はつかめなかった。
デパートにも立ち寄った形跡はなく、近隣のホテルにも姿を見せていない。
日付の変わる直前。
疲れた身体を引きずり玄関を開けた俺に、母が心配そうな表情で近付いてくる。
「啓介、日南のお嬢さんは―――」
「大丈夫。今晩また、あっちの家に日南から電話があったんだ。一人になりたいからそっとしておいてって」
それだけ言い残すと母に構わず階段を上る。
母は意外にも日南を心配しているらしい。
さすがにこんな状況だと、過去のわだかまりとかを抜きにして心配するのが人というものなのか。
日南の唯一の手掛かりと言えるのは、夕方の二本目の電話だ。
光枝さんに朝と同じような言葉を告げると、そのまま通話を切ったらしい。
とにかく日南はまだ無事だ。
俺はグルグル回る頭の中を整理しながら、椅子に疲れた身体を下ろす。
……そもそも俺は大事なことを見落としていたのだ。
―――雁ヶ音日南が茅ヶ崎ミサ。
グループLINEに送られたメッセによれば、Yu-noはこのことを知っていた。
しかし―――
このことはYu-noに伝えていない。
日南の一家が逃げるように秋野市に来て以来、このことは絶対の秘密にしていた。
転居から4年経ち、ようやく新しい生活が軌道に乗ってきた矢先の出来事。
どうやってYu-noはこのことを知ったのか……
そしてもう一つ。
Yu-noがクラスのLINEグループに潜り込んだ方法もおおよそ分かった。
約一月前。クラスのグループに一人の生徒が招待されたのを覚えている。
森下茜。
学校にはほとんど来ていないが、クラス名簿には載っている。
彼女を薬師がグループに招待している。
その時には誰も気には留めなかったが、その彼女のアカウント名が、いつの間にかYu-noに変わっていたのだ。
おそらくは薬師の手引きで、学校に来ていない森下の名前を騙ってグループに潜り込んだのだ。
いや、もしくは薬師も本物の森下だと思ってやり取りをしていたのかもしれない―――
俺はマウスを手にすると、目当てのソフトのダウンロードを始める。
減っていく残り時間を見ながら、頭の中でこれまでの情報を一つずつ積み上げていく。
……気付けば簡単な話だ。
ボイスチェンジャーを挟んだYu-noの声。
俺はそこから何かを読みとろうとし過ぎていた。
重要なのは、そもそも何故声を変えるのか、だ。
素性を隠すためというのはその通り。
しかし俺はYu-noの正体を知らない。
声を聴いたところで、何が分かるわけでもない。
日本のどこに居るのか分からない誰かが、俺に声を隠す必要があるとしたら。
一つは、年齢や性別を偽る場合。
もう一つは―――声を聞いたら正体が分かってしまう場合だ。
俺は横目でダウンロードの進行を見ながら、ブラウザのリンクをクリックする。
YouTubeのレビュー動画。
ボイスチェンジャーのソフトで、色々な有名人や人気キャラクターの声に挑戦している女性YouTuberの動画だ。
ボイスチェンジャーを使って世界的人気動物になりきってみる……という企画で、中堅どころのYouTuberとのことだが、再生数は6桁を超えている。
動画の中で、YouTuberは設定を解説しながら、自分の声を有名なキャラクターの声に近付けていく。
黒いネズミに用は無い。後半の“世界で2番目に有名なアヒル”の声の作り方まで動画を飛ばす。
分かりやすい解説と共に、若い女性の声が子供の頃に聞いたアヒル声に変わっていく。
確かに見事な腕前だ。
彼女に影響を受けて、同じ設定でネズミやアヒルに声を変える動画を上げている人もいる。
二番煎じと切り捨てられる内容だが、今の俺には何より欲しい情報だ。
これで分かるのは“似たようなアヒル声でも、聞き比べると全然違う”ということだ。
Yu-noのアヒル声も、聞き比べれば他の誰とも異なっている。
無論、Yu-noが同じソフトを使って、この通りに声を加工したとは限らない。
ただ、Yu-noは音響のプロではないはずだ。
彼女がアヒル声を作ったのだとしたら、ネット上で手に入る情報を利用したに違いない。
パソコンの画面の端、ダウンロード完了の通知が出る。
チャットやYouTube界隈で一番使われているボイスチェンジャーのソフトだ。
俺はインストールを開始した。
――――――
―――
うっすらと窓の外が白み始めた。
俺は椅子の背もたれに体重を預けながら、大きく伸びをする。
……手元の音声データをボイスチェンジャーで加工し、録音したYu-noの声と照らし合わせる。
素人の見様見真似ながら、数十回目の組み合わせで、ようやく正解の近似値にたどり着いた。
最後の隙間、残る僅かな揺らぎを埋めるのは―――
……音も無く、画面の端にウィンドウが上がってくる。
何の変哲もない、メモ帳のアプリだ。
無論、自分では何も操作はしていない。
見守る俺の前、サラサラと文章が吐き出されていく。
……最後の隙間が埋まるこの瞬間。
正解にたどり着いたことの証拠だ。
―――おはよう
―――それとも お休みなさい かな?
小まめに区切るこの書き方。
この2年ずっと見て来て、そして俺もまた見られていた。
俺は想いを乗せてキーボードに指を走らせる。
『ずっと見てたの?』
―――おはようから おやすみ まで
―――私はずっと 見守って いたよ
『だね。君はずっと俺を見守ってくれてたね』
―――だよ
―――でも 今回は私が つかまっちゃった かな?
『ちょっと骨が折れたけどね。ようやく君を捕まえた』
―――徹夜は 身体に 悪いし
―――ちゃんと 寝ないと 駄目だよ?
―――いつも寝ぐせが チャーミング なのに
『君のことを考えてたら朝になっただけだよ』
―――嬉しい
―――私もいつも 啓介のこと 考えてるよ?
『俺もだよ。だから』
俺は大きく息を吸いながら、最後の一文を打ち込んだ。
『今から会いに行くよ。Yu-no』
――――――
―――
――
この街は朝だというのに相変わらず人の気配が感じられない。
冷たく澄んだ空気は、秋の深まりを感じさせる。
もうすぐ冬が訪れる。
風に巻かれた赤い木の葉が、足元を撫でるように通り過ぎていく。
高い塀に囲まれた家々の間を歩いているとスマホが震え出した。
画面に出た名前を確認すると、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
一瞬の間。
そして聞こえてきたのは少し拗ねたような、聞き慣れた声。
『……Yu-noが嫌い。大嫌い』
スマホの向こう側。
夜縁の声。
「嫌い? どうして」
『ずっとお兄ちゃんと一緒にいて、一番の友達で』
「……だから嫌いなの?」
『だって。お兄ちゃんに隠しごとばかりして。お兄ちゃんの嫌がることばかりしてるのに、それでもお兄ちゃんに必要とされて、大事にしてもらえて』
面白がるように尋ねた俺に、スマホの向こう側で彼女が口を尖らせているのが見えるようだ。
『夜縁なんて、お兄ちゃんに会えるのが年に片手で数えられるくらいなのに』
「ごめんね夜縁ちゃん」
あの事故の日以来。
夜縁とどうやって接していいか、どう向き合って行けばいいか分からなかった。
彼女のすがるような瞳の意味に、俺は子供ながら気付いていた。
にも関わらず、夜縁に必要以上に近付けさせまいとする日南の言うがままになっていた。
「俺は逃げていたんだと思う。君からも日南からも」
逃げていたのは自らの罪悪感。
「君にずっと辛い思いをさせていた」
そして目を逸らしていた。
夜縁の苦しみや孤独から。
「夜縁ちゃんとも、日南とも、Yu-noとも―――ちゃんと向き合うよ」
『……うん。待ってるね』
流石に俺の居場所を知っていたわけではあるまいが。
通話を終えた頃、ちょうど俺は見慣れた白い家の前に立っていた。
「南原さん、おはようございます」
昨晩もここに泊ったのだろうか。
朝早くにも関わらず、光枝さんはいつも通りに俺を迎え入れる。
挨拶もそこそこに階段を上ろうとする俺を、光枝さんは困惑しながら止めようとする。
「応接室でお待ちください。お嬢様をすぐに―――」
困惑する光枝さんを振り切り、二階に上がる。
エレベーターの前を通り過ぎ、大きな引き戸の前で立ち止まる。
……ついにここまで来た。
取っ手に手を伸ばした途端、再び電話が鳴り始める。
画面に表示された名前は―――Yu-no。
俺は扉に伸ばした手を戻す。
「もしもし……Yu-noかい?」
聞こえてくるのは微かな息遣い。
耳を澄ます俺に向かって、囁くようなYu-noの―――肉声。
『……私、夜縁が嫌い。大嫌い』
「Yu-noも……相手のことが嫌いなの?」
『そうよ。あの子は自分が不幸だからって。それを盾にして。罪悪感で君を縛って支配しようとしているの』
「夜縁ちゃんはそんなことしないよ。俺がここにいるのも自分の意思だ」
『君にそうさせるところも嫌い。弱さを武器にするところが嫌い。見えないところで必死にあがいているくせに、弱さを表に出して、周りに大事にしてもらおうとするのも嫌い』
「だとしたら……それはそんなに悪いことなの?」
夜縁は決して理不尽を望んでいる訳ではない。
家族と一緒に居たい。
大事な人に側にいて欲しい。
無力な子供が願うには、ごくささやかで―――切実な願い。
『だって、そうしないと生きてけないなんて……寂しすぎるじゃない。見てられないの』
Yu-noの声は今にも泣き出しそうで、消え失せそうなほどおぼろげだ。
『……啓介に会いたい』
「ああ、分かった」
俺は扉に手を伸ばす。
「すぐ行くよ」
――――――
―――
「いらっしゃい、お兄ちゃん」
広い机の前。車椅子に座る夜縁はゆっくりと俺に身体を向ける。
慌てたように駆け寄ろうとする光枝さんを、夜縁は小さな手で制する。
「いいの、光枝さん。構わないから下でお茶の準備をお願い。呼ぶまで二階には来ないで」
「しかしお嬢様……」
戸惑う光枝さんに夜縁は優しく微笑んで見せる。
「お願い。察して」
光枝さんは俺達の顔を何度も見比べてから、頭を下げて部屋から出ていく。
ようやく二人の時間だ。
俺は足を踏み出す。
夜縁の部屋は広く、俺の家のリビングほどもある。
窓から吹き込む風がカーテンを大きく膨らませる。
ピンク色を基調とした広い室内に、天蓋付きのベッドや猫足のソファが並んでいる。
その中で、机周りだけが異彩を放っている。
車椅子に合わせて誂えた大きな木製の机には、3台のディスプレイが並んでいる。
そのうちの一つは―――間違えようもない、Re-lianceのプレイ画面だ。
「夜縁ちゃん。君がYu-noだったんだね」
「そうだよ。夜縁がYu-noだよ」
夜縁はほっとしたように表情をやわらげる。
「……やっと言えた」
夜縁は、はにかむような上目遣いで俺を見る。
「いつから気付かれてたのかな」
「そんなに前からじゃない。昨日、夜縁ちゃんと話をしていて違和感を覚えて」
「……違和感?」
―――違和感。
俺はYu-noと一緒に日南を陥れた。
その告白に対して、あまりに冷めた夜縁の反応。
最初は夜縁がYu-noに騙されて巻き込まれているのかとも思った。
しかし昨日の夜縁には揺るぎない意志が感じられた。
他人に踊らされているのではなく、この状況全てを受け入れている人の瞳をしていた。
「口で説明は難しいな。とにかくYu-noの手掛かりは声だけだったからね。一か八かで上手く行ったよ」
「一か八かだったんだ」
夜縁は両手の指の先を合わせて、楽しそうにクスクス笑う。
「お兄ちゃん、おかしいよね」
「おかしい?」
「Yu-noの正体なんかより、お姉ちゃんを探しに行くのが先じゃないのかな?」
言って、小さな首を傾げる夜縁。
試すような夜縁の言葉に俺はゆっくりと首を振る。
「今回起こっていることは、俺達3人の問題だ。避けては通れない」
「……3人の?」
そのオウム返しは俺への問いかけなのか。
俺が黙っていると、夜縁は機嫌が良さそうにディスプレイに向き直る。
「とにかく来てくれて嬉しいな。ちょっと待ってね。授業の出席確認だけしちゃうから」
「凄いね。3つもモニターを使ってるの?」
「真ん中のモニターは通信の授業用だよ。右のは株やニュース、学校の授業以外のお勉強。そしてこっちが―――Re-liance用」
画面を覗き込むと、広場でたたずむキャラクターは聖騎士の装備に身を包んでいる。
……そこにいるのは『Yu-no』ではなく、始めて見る名前だ。
「ずっとこれで、お兄ちゃんと遊んでたんだよ?」
「このプレイヤー名って」
「複アカだよ。効率を考えて色々と使い分けてるの」
夜縁の左手が流れるようにキーボードを叩く。
ログアウトをすると、メールのチェックをしながら別ウィンドウで何かの折れ線グラフのようなものにざっと目を通す。
「……夜縁には時間が無いの」
夜縁はため息混じりに、授業の始まった画面に目をやった。
「授業動画を見ながら問題集やって英単語覚えて、合間に他の勉強をしたり。一度に一つしかしちゃいけないなんて決まってないから」
今日は授業はサボると決めたらしい。中央のディスプレイの電源を落とす。
「最近は授業受けながら『Re-liance』やってるの。お兄ちゃんのせいで悪い遊び、覚えちゃった」
「そんなに急いでいるのは……海外で暮らすから?」
「うん。海外では一人だから、とにかく何でも勉強しないと。他人に任せっきりじゃ、怖くて夜も眠れないよ」
夜縁が英語のホームページを画面に出す。
トップページでは色々な肌の若者が、車椅子に乗った白人の女性を笑顔で囲んでいる。
「いま調べてる学校の特別寮は、日本だとグループホームの仕組みに近いかな。バリアフリーの集合住宅に24時間待期のコンシェルジュやヘルパーがいるの。ワークスタディの学生もサポートしてくれるから、どうにかなるとは思うけど」
自分に言い聞かせるように呟くと、夜縁は神経質に指の先で机を叩く。
「英語だってもう、独り暮らし出来るくらいは話せるよ。アメリカの社会制度や保険、利用できるサービスとか。お金で解決できることとできないこと。なんでも知らないと」
……夜縁は周りに相談できる大人はいるのだろうか。
これだけ具体的な話が出ているのなら、留学コーディネーターと繋ぎは出来ているのだろう。
ただ、家族の精神的な支えも無しに、身体の不自由な中学生が、慣れない海外生活を始めるのがどれだけ不安かは想像に難くない。
「留学までまだ3年もあるんだよね。英語ができるのなら、そこまで急がなくてもいいんじゃないかな。今は学校の勉強さえちゃんとしていれば」
「中学校の範囲はとっくに終わってるよ。今は留学先の教科書取り寄せて勉強してる。寝る暇なんてない」
言い聞かせるような口調から伝わる不安と焦り。
俺が何か言おうと口を開くと、それに被せるように夜縁がぽつりと呟く。
「5000時間」
「……え?」
唐突な言葉に、俺は思わず間抜けな声を出す。
「司法試験に受かるための最低勉強時間なんだって。一日15時間なら約一年。時間はそれほどの価値があるんだよ」
「そうなんだ。……えっと」
「追いつかれるの。毎日毎日、時間が夜縁を追いかけて来るの」
話の流れがつかめずに言葉を探していると、夜縁は掌で顔を覆って俯いた。
「みんな時間をドブに捨ててるんだよ。時間がどんどん追いかけて来るのに、みんな全然気付いてない。どんどんどんどん頭の中に詰め込んでいかないと、何で生きてるのか分かんなくなっちゃうの」
……夜縁は少し考え過ぎだ。
言おうとした俺は、その言葉の空虚さに口を閉じる。
夜縁が絞り出した言葉はそんなに軽いものでは無い。
「友達もいなくて誰もいなくて。この先の人生ずっと同情だけで生きていくなんて、死んでるのと変わらないでしょ? 夜縁には勉強しかないの。何でもかんでも頭に入れて、手に入れ続けないと死んじゃうんだもん」
俯いた夜縁の背中が震え出す。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。このまま二十歳になって、その先も生き続けたら三十になって四十になって。お兄ちゃんもいつかはいなくなるんだ。いつか時間に追いつかれて夜縁は可哀想な女の子ですらなくなって周りに誰もいなくなって」
夜縁の小さな背中。
こんなに華奢な身体で、一体どれだけの悲しみを受け止めてきたのだろう。
俺は夜縁の背中に手を添える。
「夜縁ちゃん。俺はどこにもいかないよ」
「……嘘だ」
顔を上げた夜縁の瞳。
まつ毛に涙が玉のように溜まっている。
「周りの女の子はこんな身体じゃなくて。夜縁みたいに性格が悪くなくて明るくて面倒くさくないんだもん。お兄ちゃんは簡単にそっちに行くんだ。夜縁は一人ぼっちになるんだ」
再び震え出す夜縁の手を握る。
「夜縁ちゃん落ち着いて。落ち着いて俺の目を見て」
俺は真っすぐ夜縁の瞳を覗き込む。
夜縁がYu-no。
Yu-noが夜縁。
まだ全部受け止め切れてはいない。
それでも俺は彼女に直接伝えたい言葉がある。
「Yu-noと……君とRe-lianceで出会った頃。俺は生きてるのか死んでるのか分からないような日々を送っていた」
その頃。日南との関係は完全に破綻していた。
俺の尊厳を奪うかのような日南の言動で、学校での俺の立場は酷いものだった。
「最初は現実逃避の為に始めたゲームだけど、いつしか君に会うためにRe-lianceの世界にログインしていた」
広場で突然話しかけてきた白魔導士Yu-no。
ランキングを駆け登り始めた注目株の女性プレイヤーが選んだパートナー。
それが俺だった。
その日から俺の世界は変わった。
「君との何気ない冒険や会話だけを楽しみに生きていたんだ」
Yu-noの紹介で有名パーティーに加入して、盾役としてどうにか居場所を見つけた。
レアアイテムの分け前を欲しがらなかったのも、他のメンバーには都合が良かったのだろう。
自分を受け入れてくれる仲間、居場所。
その時、俺が欲しかった全てがそこにあった。
でも今の俺は―――
俺は片膝をつき、夜縁と同じ視線になる。
「Yu-no。君が夜縁だと分かった上でもう一度言う。君のいない世界なんて信じられない。ゲームの世界だけじゃない。俺と一緒にいて欲しい」
真剣な俺の告白に夜縁はボンヤリと目をしばたかせる。
「……本当に? 本当に夜縁でいいの? Yu-noは夜縁だよ? ずっと夜縁のそばにいてくれるの?」
「もちろんだ。夜縁、俺の側にいてくれ」
夜縁の瞳に浮かんだ涙が次々と零れ落ちる。
「うん……うん……もちろんだよ……夜縁はずっとお兄ちゃんと……一緒だよ……」
夜縁は掌で目元を押さえる
俺はその隙間から伝う涙を拭うと、夜縁の小さな身体を抱きしめる。
腕の中。身体の暖かみが伝わってくる。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
俺は夜縁の背中を軽く叩くと、抱きしめた身体を離す。
「夜縁は家にいて。俺は日南を探しに行かないと」
夜縁のすすり泣きが止まる。
目元を手の平で隠したまま、擦れた声で呟く。
「……やっぱりお姉ちゃんがいいの?」
夜縁がゆっくりと顔を上げる。
静かな口調とそれ以上に冷静な視線が、涙に濡れた睫毛の間から俺を刺す。
「夜縁、そういう話じゃない」
「今まであんなことされてたのに? それでもお姉ちゃんなの?」
「違うよ。聞いてくれ」
夜縁は俺の腕を掴む。
「だって……お姉ちゃんを追い詰めて、どん底まで落として制裁するって……お兄ちゃんが望んだんだよ? そうするってお兄ちゃんが決めたんだよ?」
夜縁は期待を込めた瞳を俺に向けて来る。
これは……なんの感情だ?
視線に混じる甘えるような色に、ようやく気付いた。
―――夜縁は褒めて欲しがっている。
「……夜縁、上手にできたでしょ?」
今まで起こった全て。
俺と日南の周りで起こった全てがYu-no―――夜縁のしたことだ。
「じゃあ、うちのクラスの三井や薬師……あの二人がしたことも、やっぱり夜縁が裏にいたのか……?」
「だって。私はこの家から出られないから。離れたところの手足が必要だもん」
答える夜縁はむしろ得意気で。
俺は早まる心臓の鼓動に思わず胸を押さえる。
「……あんなことはもう止めよう」
「あんなこと?」
夜縁は悪びれるでもなく、不思議そうな顔で俺を見返す。
「人を傷つけるようなことはしないでくれ。しなくても俺は君の側にいる。あの二人がしたことは……二人にさせたことは、人一人の人生すら壊すんだ」
「でも―――」
「お願いだ。あんなことはもうしないと約束してくれ」
夜縁は表情も変えずに黙り続ける。
「……ごめんね、そうだよね。あんなこと良くないよね」
しおらしく答えた夜縁の姿に、一瞬肩の力が抜ける。
分かってくれればそれでいい。
もう、あんなことは必要ない。
俺がいれば夜縁は人を傷つけるようなことは―――
「あの二人、お兄ちゃんのお友達やお姉ちゃんに酷いことしたんだもん。懲らしめなきゃいけないよね?」
無邪気に微笑む夜縁の姿に、思わず胸が詰まる。
……何を間違ったのか。
俺は夜縁に、なにか間違ったメッセージを伝えたのか?
「ごめんね、ちゃんと夜縁が済ませておくから。お兄ちゃんは気に病むことは無いんだよ」
「違う! もういいから! あの二人のことは放っておいてくれ!」
「……お兄ちゃんがそう言うなら」
思わず声を荒げた俺に、夜縁は不満気に答える。
……夜縁が納得したようには思えない。
が、これ以上の深追いは無用だ。
「日南を連れ戻したら、ちゃんと俺と夜縁のことを伝えよう。同じクラスだから顔を合わせないのは難しいけど―――」
「でもお姉ちゃんはきっと見つからないよ。どこで何をしているのかだって」
「昨日の晩も日南から電話があった。きっとどこかに泊っていて、誰かが迎えに来るのを待って―――」
ふと胸をよぎる不安。
不安の種は……夜縁の澄ました表情だ。
「……夜縁。電話のこと、何か知ってるのか?」
俺の言葉に夜縁が口元だけで笑って見せる。
「電話なんて無いよ」
無いって……どういう意味だ?
疲れに曇る俺の頭に、最悪の予想が浮かぶ。
「あの電話……ひょっとして夜縁ちゃんが日南のフリを……?」
「うん。声を変えたら、光枝さん疑いもしないんだから」
得意気な夜縁の笑顔に、身体の力が抜ける。
「なんで!? なんでそんなこと―――」
「だって、ただの家出ってことにしておかないと警察が探すでしょ? そしたらお姉ちゃん見付かっちゃうかも」
「じゃあ……日南は二日前の昼から音信不通ってことだぞ? 財布もカードも持たないで―――」
……これ以上議論している時間は無い。
夜縁は日南が見つからないことを望んでいる。
日南がどうなるかとか、心配だとかそんなことは別の話で、ただ夜縁は目的を達するための行動をしているだけだ。
「待って! 行かないで!」
立ち上がろうとする俺に、夜縁が車椅子の上から身を乗り出してしがみついてくる。
「お願いだ。日南を探しに行かせてくれ」
「なんで!? お兄ちゃんも夜縁のこと、いらなくなっちゃうの!?」
「違うよ。日南を見つけたらちゃんと戻ってくるから」
「嘘だ! 夜縁がこんな身体だからだ! やっぱりお姉ちゃんのほうがいいんだ!」
「違う! 夜縁、俺を信じてくれ!」
気が遠くなるような時間が過ぎる。
夜縁は俺に回した腕を緩めると、机のディスプレイに目をやった。
「……お兄ちゃんに見て欲しいものがあるの。これだけは見て行って」
「分かった。見るから落ち着いて」
夜縁は机に戻ると、キーボードを叩く。
そこに出てきた画面はネットバンキングの取引明細だ。
言われるままに見た、その残額に俺は息を飲む。
少なくとも中学生が持つ金額ではない。
「夜縁ちゃん、このお金は……?」
「ね? この一年でこれだけ貯めたんだよ」
「貯めたって……?」
一体どうやって。
恐らくは、一般的なサラリーマンが一年間飲まず食わずでも難しい金額だ。
ふと、アカウント停止された元フレンドの名前が脳裏に浮かぶ。
そして偽Yu-noの達観した瞳が―――
「これ、全部お兄ちゃんのだから。全部全部お兄ちゃんにあげるから」
「待って、こんな大金」
「夜縁、これからなんでもできるようになるよ? お兄ちゃんの欲しい物、全部あげられる。夜縁ならお兄ちゃんに何でもしてあげられるんだよ?」
笑顔で振り向いた夜縁は、俺の反応を見た途端に表情を凍り付かせる。
「……これでも足りない?」
「そうじゃない―――」
「株を売れば、もっと用意できるよ! パパに教えてもらって始めたんだけど、この一年くらい、凄く成果が出てて―――」
夜縁の肩を掴み、強引に俺の方を向かせる。
「待って、夜縁ちゃん! お金なんていらないから! 何もいらない。俺はお金が欲しくて君の側にいるんじゃないよ」
「でも……夜縁ね、こんな身体だからお金くらいしか無くて、お兄ちゃんの赤ちゃんも産んであげられないから……」
夜縁の声が段々小さくなり、ついには無言で黙り込む。
「どうした、夜縁?」
「……赤ちゃんだ」
夜縁は名案を思い付いたとばかりに顔を輝かせる。
「そうだよ! 夜縁とお兄ちゃんの子供、お姉ちゃんに産んでもらえばいいんだ!」
「……夜縁、ちょっと待って。なに言ってるのか分からない」
「お医者さんが、夜縁に子供は産めるかどうか分からないって言うんだけどね。お姉ちゃんの子供なら、夜縁とお兄ちゃんの子供と変わんないでしょ。代わりに産んでもらえばいいんだよ」
Yu-no―――そして夜縁。
前々から分かっていたことだが、彼女は目的のためなら手段を選ばない。
……だけど今回は極めつけだ。
目的のためなら、目的そのものすら犠牲にするかのような、倒錯した論理がそこにある。
「待って、落ち着こう。代わりとかそういうことじゃない」
「いい考えでしょ? それなら3人ずっと一緒にいられるよ?」
夜縁は興奮気味にまくし立てると、今まで見たことのないような笑顔で何度も繰り返し呟く。
「いていいんだ。お姉ちゃん、いてもいいんだ……」
……いや、これでいいのか?
これで夜縁が日南の帰還を受け入れるというのなら、今は彼女の言うことに意義を挟まずにいれば―――
……自嘲気味な冷笑が唇に浮かぶ。
馬鹿な話だ。
夜縁だけじゃない。俺の倫理観も理外の理に踏み込んでいるのか―――
俺の心の揺らぎを見抜くかのように、夜縁の澄んだ瞳が俺を見つめる。
「迎えに行ってあげて」
「……夜縁は日南がどこにいるか分かるのか?」
「お姉ちゃんだよ? 今まで一緒にいて、なんで分かってあげられないの」
夜縁は呆れたように首を振る。
「お兄ちゃんに迎えに来て欲しがってるんだもん。見つけられない場所なんかに行くわけ無いよ」
「心当たりのある場所は一通り当たったんだ。他に何かあるのなら―――」
「だから普段使いしてる場所じゃなくて、思い出の場所とか昔行ったことのある場所とかに決まってるじゃない。秋野市にそんなとこいくつもないよ。絞れるからお兄ちゃんに教えてあげる」
―――居場所が絞れる。
日南がいなくなってからの二日間。夜縁はそれを誰にも言わずにいたのだ。
……夜縁は本気だ。
本気で日南を排除しようとした。
それと同じように、今度は日南を見つけることに本気になっている。
「お兄ちゃんだから教えてあげるんだよ?」
「ありがとう夜縁。それじゃ行ってくる」
夜縁から届いたメールを確認すると、俺は踵を返す。
日南の失踪から三日目。事態は一刻を争う―――
「……ねえお兄ちゃん」
部屋の扉に手をかけた俺の背中に、か細い夜縁の声が掛けられる。
振り向くと、さっきまでの強気な彼女がどこに行ったのか。
寂しげで不安そうな瞳が俺を見守る。
「……夜縁の所に戻ってきてくれるよね?」
俺は笑顔でうなずいた。
「安心して。必ず日南を連れて戻ってくる」




