第19話 ひと切れの肉
今日は朝から強い雨が降っている。
俺は濡れた制服の裾を気にしながら、玄関のポーチで傘の雫を払う。
……このところの学校生活は順調だ。
要はMMOのルーチンワーク同様、意識的に行動をすれば良い。
教室に入ってから席に向かうまでの経路に気を使い、挨拶をしながら人の集まりを確認。
場合によってはこちらから近付いて会話に加わる。
連中の好きな話題、メンツの組み合わせによって変わる話の内容、喋り方―――その一つ一つがモニター越しにやってきたことと変わりない。
一緒にゲームをしてきた相手が生身の人間だということを、改めて思い知る。
玄関の扉を開くと、薄暗い廊下にたたずむ影に気付く。
「……母さん、そんなところでどうしたの?」
その影の正体は母親だ。
俺は制服のネクタイを緩めながら、怪訝にその姿を見つめる。
「啓介……母さん、買い物行ってくるね。しばらくかかると思うから」
「こんな時間に? 俺、行ってこようか」
母親は無言で首を振り、逃げるように玄関を出ていく。
戸惑いながら靴を脱ごうとした俺は、足元の黒く光る女物の革靴に気付く。
……日南の奴が来ているらしい。
母は日南に気を使ったのか。それとも―――
俺を差し出した……という方が近いのか。
重みの増した身体を引きずるように部屋に向かう。
軋む階段の音を聞きながら、先日のことを思い返す。
―――検出されたスパイウェア。
駆除できなかった脅威も、カメラの盗み見を行う有名処のウイルス対処法を真似て、怪しいファイルを削除した。
スキャンで検出されなくなったのを確認した上に、ついでにカメラを無効にした。
そこまでしといて、カメラを外さなかったのは自分でも理由が分からない。
……いや、違う。理由は分かっている。
もしYu-noがカメラを盗み見していたのなら―――外したら嫌われる。
自分でも理屈の通らない、そんな考えが浮かんだのだ。
―――部屋の前、ドアノブに手をかけた俺は大きく息を吸うと、無表情を装い扉を開ける。
「日南、来てたんだね」
ベッドに腰掛けた日南は、初めて俺に気付いた様に顔を上げる。
英単語帳を閉じるパタンという音が部屋に響いた。
「遅かったわね。待ちくたびれたわ」
俺はカバンを降ろしつつ、パソコンに目をやる。
今日は触った様子はない。
起動パスワードを設定しているとはいえ不安は残る。
「今日はどうしたの。数学の宿題は出てないよ」
「情報処理の宿題、あんた続きをやっといてよ」
日南の視線の先、デスクに黒いUSBメモリが置いてある。
情報処理の授業で、全員に一個ずつ支給された奴だ。
「構わないけど。最近は自分でやってなかった? 特に今回、難しくは無いと思ったけど」
「仕方ないじゃない。夜縁が途中までしか分からないっていうから」
「夜縁ちゃんが?」
突然出てきた夜縁の名前に、思わず聞き返す。
「日南、あんまり感心しないな。妹にそんなことさせるとか」
「人聞きが悪いわね。いつもあの子の代わりに買い物とか行ってるの。お返しをしたいって言うからさせてるだけよ」
日南は不機嫌そうに足を組み、ペットボトルの炭酸水を一口含む。
「あんたと違って買い物一つ、宅配便の受け取り一つ、誰かに見られるんだから。せめて姉の私が手伝ってあげてるの」
「……仲いいんだね」
「こう見えても私はあの子の姉よ」
日南はペットボトルをベッドに放ると、次いで自分の身体をその横に投げ出した。
安物のシングルベッドが大きく軋む。
……正直、意外な気がする。
傍目から見て距離を感じていた日南と夜縁だが、家族として助け合う関係でもあるのだ。
俺はデスクチェアに腰掛けると、パソコンを起動する。
宿題はエクセルを利用した集計表の作成だ。
入力した出席番号を利用して中の数値や作成項目が変わるので、他の人の表をそのまま利用することが出来なくなっている。
「これ、授業で説明した部分を入力してないね。これじゃ、誰も完成させられないよ」
いくつかの数値と式を入れるとセルに数値がずらりと並ぶ。
今、入力した分を除いて表は完成していたらしい。
保存をすると、USBメモリを取り外す。
「夜縁ちゃん、パソコンは出来るんだっけ」
「あの子、家庭教師や塾は全部WEB授業だから一通り。日中は勉強漬けよ」
日南が寝返りを打つと、長い髪が布団の上にまばらに広がる。
「……パパが夜縁にはとにかく勉強をさせろって」
日南も決して成績は悪くない。むしろかなり良い方だが、色々なところで投げやりな態度が目に付く。
苦手な教科の宿題は俺に放り投げるし、評定に響かないテストは平気で赤点を取る。
それでも俺より成績は良いのだから、口を挟むことでもないだろう。
「パパは私のことなんてどうでもいいのよ。適当に男でも捕まえて来るって思ってるんじゃない?」
「だからってあんまり便利に使っちゃだめだよ。夜縁ちゃんの買い物なら、俺に言ってくれてもいいし」
「あら、あんたに下着の買い出しが務まるの?」
思わず言葉が詰まる。それを見上げる日南の口元が皮肉に歪んだ。
「それとももう、下着くらい普通な関係になったのかしら」
「……」
俺は無言でUSBメモリを差し出す。
日南が手を伸ばす。
と、日南が俺の手首を掴むと思い切り引っ張った。
不意を突かれた俺はベッドに倒れ込む。
気が付くと目の前には日南の顔。
長い睫毛の毛先がくっきり見えるほどの距離。
「……日南、冗談はやめてくれ」
「最近、ご褒美をあげてなかったと思って。飼い犬の頭くらいは撫でてあげないと」
俺は無理に息を吸うと、強引に身体を起こした。
「お気遣いどうも。間に合ってるよ」
「……そうね、飼い犬にやる肉は一切れで十分だわ」
日南はいつものつまらなそうな表情に戻ると、仰向けに身体を転がす。
「あまり贅沢させると、どちらがご主人様か忘れちゃうもの」
「違わないね。日南も気を付けないと」
……もう、窓の外は暗くなってきた。
癖でカーテンを閉めようとした俺は手を止める。
「さあ、用事は済んだだろ。迎えを呼ぶからそろそろ帰ってくれないかな」
日南は気怠さを隠そうともせず身体を起こす。
乱れた髪をのろのろと直しながら、どこを見ているのか分からない目で部屋を見回す。
「……この前、夜縁を遊園地に連れて行ってくれたでしょ」
「ああ。別に秘密にしてたわけじゃない。何か問題でも?」
「責めてるわけじゃないのよ。むしろお礼を言いたいの。夜縁の優しいお兄ちゃん」
ザラザラとヤスリで削るような口調。
日南は身体の重みを感じさせない動作で立ち上がると、無感情に俺を見つめる。
「……あんたに夜縁は荷が重いわ」
―――俺と夜縁はそんなんじゃない。
言いかけて、俺は日南の視線に射抜かれたように舌が固まる。
ゆらり、と日南は一歩足を踏み出す。
「あの子は私と違って頭がいい。あんな身体でも未来があるし、反対にそれを逃したらすべてが終わるわ」
日南は指先で俺の髪を撫ぜると、そのまま指を頬に這わせる。
「啓介。あんたは私の横で首輪に繋がれてなさい。中途半端な罪悪感で夜縁の邪魔をしないで」
「……日南は勘違いしてるよ」
「勘違い?」
「夜縁ちゃんのことは俺も妹だと思って大事にしている。彼女が広い世界に旅立つなら、歓迎する気持ちしかない」
冷静を装いながら、掠れた声をようやく絞り出す。
しばらく指先で俺の首筋を弄んでいた日南は優しく微笑む。
「……それを聞いて安心したわ。やっぱり啓介は私の可愛い忠犬ね」
「それにこういうことは止めてくれ」
俺は日南の手を掴む。
「君は女の子だ。男と家に二人切りの時に煽ったりするんじゃない」
「二人切り? おばさまは出かけたの?」
「ああ、買い物に―――」
言いかけた俺に被せるように、日南の赤い唇から出た言葉―――
「―――ケーキでも買いに行ってるのかしら」
「! 日南ッ!」
一瞬の内に頭が白く染まる。
気が付けば俺は日南の両手を掴み、壁に押し付けていた。
「啓介……痛いわ」
「……悪い」
日南の手を離すと、彼女は反対に身体を寄せてくる。
俺の浅く早い息遣いに触れるほどに顔を寄せ、日南は薄く笑って見せる。
「いいのよ。あなたは―――」
日南は俺の耳に口を寄せる。
「―――良い子で私に飼われてなさい」
「っ!」
日南は前歯で俺の耳たぶを噛む。甘噛みというには少しばかり強すぎる痛みが伝わる。
……長く感じたが実際にはほんの数秒だったろう。
日南は名残惜し気に口を離しながら、耳元で小さく囁く。
「……大丈夫。私のあげるお肉はとても美味しいのよ」
――――――――――――
――――――
―――
「全然、分かんない……。授業が進むのが早すぎるんだって」
俺は机にシャーペンを投げ捨てると、椅子の背もたれに身体を預けた。
中学に入った途端、それまでとは違う宿題の量に、俺の頭はオーバーフローを起こしていた。
入ったばかりの私立中学は、名門と言っても差し支えの無い学校だ。
中学からの外部生には求められるハードルが高く、特に学力はその一つ。
……だが、この勉強についていけなければ。
日南のいる特進クラスに進めないどころか、高等部への進学も危うくなる。
「やるしかないかー」
来年こそ、日南と同じクラスになるためだ。
俺は身体を起こすと、問題集に向き合った。
「おーい、啓介」
決心を固めた途端、部屋の扉が開く。
母が扉の隙間から笑顔で覗き込んでいる。
「なに? いま宿題してるんだけど」
「日南のお嬢さんが遊びに来たよ。ほら、啓介も出ておいで」
「え? 日南が?」
俺は椅子から飛び降りると、寝ぐせの付いた髪を撫でつける。
「どこ? もういるの?」
「エレベーターで上がって来てるとこだから。啓介、ほら服の裾が出てるよ」
「これ、出しとくのがカッコいいんだって!」
この数日、日南は学校を休んでいる。
風邪をひいているとのことだったが、もう治ったのだろうか。
チャイムの音に母が玄関に向かう。
俺は鏡で髪型をチェックしてから、リビングに向かう。
玄関から日南と母の喋り声が聞こえる。
飛び出したくなる気持ちを押さえ、俺はリビングのソファに腰掛ける。
「啓介ーっ! 日南ちゃん来たよーっ!」
「大声出さなくたって聞こえてるって」
ぶっきらぼうに答えた俺は、一瞬息を呑む。
部屋に入ってきた日南は、Tシャツにデニムのスカートのラフな服装。
にも関わらず、大人っぽい雰囲気が部屋の空気を一変させた。
「啓介、おじゃまするわね」
「日南、風邪はもう大丈夫なの?」
どぎまぎしながらようやくそう言うと、日南は弾けるような笑顔を見せる。
「もう大丈夫。今日はちょっと君の顔が見たくて」
「なんだよ、突然そんなこと」
その光景を見た母は、名案とばかりに手の平をパチンと打ち合わせる。
「日南ちゃん、おばさんケーキでも買ってこようか! 日南ちゃんはどんなのがいい?」
ケーキと聞いて、日南は子供らしい無邪気な笑顔を見せる。
「ありがとうございます。じゃあ私、ラ・プレシューズのケーキが食べたいです」
「あー、あそこか。でもちょっと遠いから―――」
言いかけた母の言葉が凍り付く。
日南が母に差し出した指先には、一万円札が数枚挟まれている。
「ごめんなさい。わがまま言って。でも、どうしても啓介と一緒にあそこのケーキが食べたいの」
「……え? 日南ちゃん、お金なんていらないから」
「そうもいきません。あんな遠くまで、時間をかけて買いに行って貰うんですもの」
日南は笑顔のまま、母にお札を差し出している。
母は表情をこわばらせ、ぎこちなく頷いた。
「そ、そうね。そんなに食べたいんなら、おばさん買いに行くわ。ちょっと時間がかかるけど待っててくれるかな?」
「ええ、もちろん」
日南は人好きのする笑顔でこくりと頷く。
「……じゃ、啓介。お母さん、ちょっとケーキ買いに行ってくるわね」
「え、うん。いってらっしゃい……」
母は財布を掴むと、取る者も取りあえず出ていこうとする。
日南はそれを追いかけると、母の手を掴んだ。
「おば様、忘れ物です」
「日南ちゃん、お金は大丈夫だから」
「おば様、いけませんわ」
日南は強引にお札を母の手に握らせる。
「お金のことはちゃんとしないと―――ですよね?」
その時、母の顔に浮かんだ表情は―――恐怖。
自分の親が、たった12才の少女に恐怖をしている光景。
俺は何が起こっているのか分からないまま、何も言えずに立ち尽くす。
「だってあの店は遠いから―――」
日南は言いながら俺を振り向く。
俺の姿が、日南の夜空のように黒く澄んだ瞳に映っている。
「―――おば様が帰ってくるまで何時間もかかるんですもの」




