第一巻 沼地の子どもたち 第二話 初めての炎
第二話もお読みいただき、ありがとうございます。
異世界で最初の夜を迎えたアキヤマ一家。たどり着いた集落で、家族それぞれの知識と力が試されます。
それでは、第二話「初めての炎」をお楽しみください。
老女は私たちに、担架をテーブルの上へ載せるように言った。
それから、私の指をぴしゃりとたたいた。
「その手のまま触るんじゃないよ」
私は、乾いた泥と血と木くずにまみれた両手を見た。
「おっしゃるとおりです」
老女は洗面器と布、それから灰色の練り物が入った小さな壺を指した。
「洗いな。これでこすって、もう一つの水差しですすぐ。床にあるほうじゃないよ」
私は言われたとおりにした。
家の中は、樹脂と温めた薬草の匂いがした。棚には素焼きの器が並んでいた。テーブルの上では、乳白色の石がほのかな光を放っていた。
手術室ではなかった。
それでも、ここには道具を大切に扱う人がいた。
まずはその点を信頼することにした。
「オッシャだよ」老女は腰に前掛けを結びながら言った。「ここじゃ、そう呼ばれてる」
「ユウマです」
「それは聞いた。あんた、自分たちの体のことは分かるのかい?」
「はい。でも、あなた方の体は分かりません」
初めて、彼女は興味を示すように私を見た。
「だったら、まず話を聞きな」
* * *
サレスは入口の近くに残った。
女の弓使いは、私たちの枝を持って姿を消していた。縛られはしなかったが、渡り廊下のたもとには二人の住民が陣取っていた。
家に入ることは許された。
村に受け入れられたわけでは、まだなかった。
ユキも、私と同じくらい早くそれを理解した。
彼女は乾いた布と、子どもたちを座らせる場所、それから飲み水を頼んだ。すべてがすぐに手に入ったわけではない。女の人が、ごわごわした毛布を二枚持ってきた。少年が水差しを置いたが、その目はずっと私たちの足を見ていた。
ハナが兄に身を寄せた。
「わたしたちが怖いの?」
レンは少しためらった。
「僕たちのこと、知らないからだよ」
ユキは息子の肩に手を置いた。
「みんなと一緒にいて。お母さんはすぐそこにいるから」
テーブルの上で、若い負傷者が身じろぎした。
呼吸するたび、かすかな笛のような音がした。
私は身をかがめた。
「お名前は?」
彼は答えようとした。
オッシャが、その顎の下に二本の指を添えた。
「イルレン。話すのは、あとだよ」
彼女は折れた柄の周りの布をどけた。肋骨の下では、鱗が薄くなっていた。傷の片側の縁が黒ずんでいた。
私は彼と目を合わせた。
「能力を使って、様子を調べてもいいですか?」
イルレンは弱々しくうなずいた。
診察眼を使った。
目の奥に鈍い痛みが生まれた。皮膚の下に流れが浮かび上がった。人間のものに似ている流れもあり、つい性急に解釈したくなった。
その衝動を抑えた。
「ここに動きがあります」傷に近い場所を示して、私は言った。「その下にも、もう一つ。動きが合っていません」
オッシャが明かりを近づけた。
「予備の袋だよ。泳ぐときに使う。二つ目の心臓じゃない」
私は手を引いた。
始める前から、間違えるところだった。
「教えてください」
彼女は説明してくれた。
私なら使わない言葉で。部屋、膜、通り道。どれも、私の知識には正確に対応するものがなかった。私が見えているものを伝え、彼女はその意味を理解する手助けをしてくれた。
少しずつ、全体像が見えてきた。
負傷者は血を失っていた。呼吸にも支障が出ていた。そして、刺さった木片が、傷つけた部分を一部押さえとどめていた。
「あなたの魔法で、治せますか?」と私は尋ねた。
「肉を閉じることならできる。でも、中を見ずに全部を正しい場所へ戻すのは無理だよ。急いで閉じれば、この子の息を止めちまう」
彼女は片手を上げた。指がわずかに震えていた。
「それに、三度もやり直せるほどの力は残っちゃいない」
私は、ほかの寝床の足元に並んだ器を見た。
今日、彼女が診た負傷者は、イルレンが最初ではなかった。
「では、一緒にやりましょう」
オッシャが器具を差し出した。
「そのために、まだあんたをこのテーブルのそばに置いてるんだよ」
* * *
どれくらいの時間がたったのか、分からなかった。
オッシャはこの体を知っていた。私は、ほかの場所で起きる変化を見失わずに、傷の周りで作業することができた。どちらも、一人では必要なものがすべてそろっていなかった。
二人なら、可能性はあった。
私が変化を伝える。彼女が動きを調整する。その指の下に緑の光が現れ、力を節約しなければならなくなると消えた。
二度、目を休ませるために観察を中断した。
三度目には、警告が視界を横切った。
知覚の過負荷。
精度低下。
「少し休まないといけません」
オッシャは何も言わず、うなずいた。
元の世界で、持久力があることと、傷つかずにいられることを取り違える医療従事者を、私はあまりにも多く見てきた。
イルレンの体を代償にして、同じことを学び直したくはなかった。
「パパ?」
ハナが、テーブルから離れたところに立っていた。
その小さな光が、肩の上に浮いていた。
「明かりが消えそう」
確かに、乳白色の石が一つ、輝きを失っていた。
私はユキを見た。彼女は娘の同意を得て、ステータスを確認した。
「まだ魔力は残ってる。でも、五分だけよ、ハナ。そのあとは休んで」
娘は、ともしびを持ち上げた。
オッシャが少し頭を傾け、光を遮らないようにした。
「そこだよ。お嬢ちゃん、そのままそこにいておくれ」
ハナは笑わなかった。
空いているほうの手で、母親の手を強く握っていた。
それでも、そこにいてくれた。
ようやく傷を悪化させずに木片を取り除けたころには、シャツが背中に張りついていた。
最後の処置をしたのは、オッシャだった。
緑の光が、糸のように細く収束した。イルレンの呼吸が変わった。まだ苦しそうだったが、笛のような音は弱まった。
私は流れを見守り続け、やがて老女に体を起こさせられた。
「もういい。息はさっきより楽になってる。ここからは、時間の仕事だよ」
「まだ、危険を脱したわけではありません」
「そんなことは言ってないよ」
私は彼女を見た。
倒れないように、テーブルの縁へ片手をついていた。
私は椅子を寄せた。
そのとき、ウィンドウが現れた。
重篤な負傷者への処置を完了。
認定された貢献:観察、連携、治療補助。
スキル熟練度上昇:診察眼。
レベル3に到達。
獲得ポイント:能力ポイント3、スキルポイント1。
使用可能な合計:能力ポイント6、スキルポイント2。
私は動かずにいた。
すぐには喜べなかった。
テーブルには、一人の少年が横たわっている。その顔の上に報酬が表示されるのは、好きになれなかった。
そのとき、背後でメイが咳をした。このポイントで何ができるようになるか、私は改めて考えた。
ウィンドウを脇へやり、もう一度イルレンの様子を確かめた。
それが済んでから、開き直した。
新しいタブが現れていた。
覚醒の第一段階に到達。
判明した属性適性:火。
習得可能魔法:種火。
習得に必要なスキルポイント:1。
私は、その言葉を読み返した。
火。
外では、風が壁を震わせていた。
ソラは、借りた毛布の中で眠っていた。髪はまだ湿っていた。
私は説明を選んだ。
種火/ランクI。
手の近くに小さな炎を生み出す。
最大射程:三十センチメートル。
発動時消費MP:2。
維持消費MP:十秒ごとに1。
火への耐性は付与されません。
「どうしたの?」とユキが尋ねた。
「レベルが上がった」
私は表示を共有した。
彼女の目が、最後の一行へ下りた。
「何か試したくなるたびに、その一行を読むって約束してくれる?」
「君のことは、もう分かってきたよ。そのたびに念を押すんだろう」
ようやく、彼女が少し笑った。
* * *
オッシャは、ほかのことを何か許す前に、私の脚を見せるように言った。
「泥噛みは、歯を磨かないからね」
「気づいていました」
彼女は噛み傷を調べ、いくつか質問してから、別の壺を取りに行った。私は中身を尋ねた。彼女は気を悪くすることもなく答え、その生き物による感染を防ぐために、普段何を使っているのか説明してくれた。
少なくとも、質問する必要があるという点では、互いを理解できた。
手当てが済むと、彼女は家の奥を指した。
「何かを燃やす練習がしたいんだろう? 灰受けのそばでやりな。うちの布には近づけないでおくれ」
私はスキルポイントを一つ使った。
種火、という文字の色が変わった。
それ以外は、何も起きなかった。
すべての知識が頭へ流れ込むことはなかった。火をどう扱えばいいのか、確信が生まれたわけでもなかった。
ただ、手のひらの中心にかすかな感覚があった。どちらへ力を押し出せばいいのか、分かるようになった気がした。
ユキがついてきた。レンは入口に残った。母親が納得するくらい離れ、それでいて何も見逃さずに済むくらいには近くに。
私は灰受けの上へ手をかざした。
「種火」
赤い光が現れた。
それから、アーモンドほどの大きさの炎が、空中にともった。
息が止まった。
指の動きに合わせて、炎が揺れた。
「動かせるの?」とレンが尋ねた。
試してみようとした。
炎が袖へ近づいた。
「止めて」とユキが言った。
私は反射的に手を握った。
炎は消えた。焦げた毛織物の匂いが残った。
レンは私の袖を見て、それから顔を見た。
「なるほど。大きな火の玉は、まだ無理だね」
「小さいのも、まだだ」
オッシャは椅子に座ったまま、私たちを眺めていた。
「まずは木から始めな。失敗しても文句を言わないからね」
彼女は、湿気を避けて保管してある、乾いた樹皮の箱を指した。
二度目の挑戦で、細い繊維に火をつけられた。
今度は、木に火が移ったらすぐに魔法を消した。
小さな炎は、そのまま燃え続けた。
私は、オッシャが使っていいと言った小枝をくべながら、炉の中で炎が育つのを見た。
力を手にした実感が湧くのだと思っていた。
何より感じたのは、水を温められるという安堵だった。
* * *
レンが炉の火を見ている間に、サレスが戻ってきた。
彼は炎を見て、それから私の手を見た。
「治療師で、火起こし役でもあるのか」
「ほんの数分前からですけどね」とユキが付け加えた。
それで安心した様子は、特になかった。
私も同じだった。
外で呼ぶ声がした。サレスは入口へ顔を向け、話を聞いてから、顎をひとなでした。
「穀倉の渡り廊下が沈み始めた。袋を移している」
ユキが姿勢を正した。
「どこへ運んでいるんですか?」
「決壊箇所の近くの土手だ」
彼女は家の壁を見て、それからサレスの足に筋をつくる乾いた泥を見た。
「今、その場所を見せていただきたいです」
私は彼女へ顔を向けた。
「もう夜だ」
「分かってる」
死にかけた患者を前にして、朝まで待てと言われたらどうするのか。彼女は私にそう尋ねなかった。
その必要はなかった。
私たちは子どもたちから目を離さず、少しだけ脇へ移った。
「歩ける?」と彼女が尋ねた。
私は脚に体重をかけてみた。
「いつもより遅くなる」
「だったら、小さい子たちとここにいて。私はサレスと堤を見てくる。それから戻って、何ができるか伝えるわ」
彼女を行かせたくなかった。
ユキは私の表情を読んだ。
「さっき、あなたがあの牙に近づいていくのを見るのも、嫌だったわ」
私は息を吐いた。
「誰かと一緒にいてくれ。それから、水には入らないこと」
「あなたも誰かと一緒にいて。それから、倒れるまで村中の人を診ないこと」
私たちは顔を見合わせた。
夜の仕事について、こうして話し合うのは初めてではなかった。
ただ、これまではいつも、互いに電話をかけることができた。
私は携帯電話を取り出した。
「明かりに使ってくれ。まずは十分、見に行く。それ以上かかりそうなら、誰かに知らせに来てもらって」
彼女はうなずき、子どもたちの前にしゃがんだ。
ハナがすぐに首へしがみついた。
ユキは長い間、娘を抱きしめていた。
「水が漏れている壁を見てくるね。パパは、みんなと一緒にいるから」
「遠いの?」
「そこで働いている人たちの音が聞こえるでしょう。耳を澄ませて」
娘は耳を澄ませた。
家々の向こうから、作業の音が響いていた。
「終わったら帰ってくるの?」
「次に何をするか決める前に、戻ってくるわ」
レンは入口まで母親についていった。
「気をつけてね」
彼女は指先で、息子の額に触れた。
「あなたもね」
サレスが二人を待っていた。出ていく前に、彼は私へ向き直った。
「イルレンは、私の甥だ」
私はテーブルへ目を向けた。
「私と同じくらい、オッシャにも助けられたんです」
「もう本人から聞いた」
彼はためらった。
「夜が明けたら、どう礼をすべきか話そう」
「今夜は、屋根と水があれば十分です」
「それは約束する」
それが、私たちの最初の取り決めになった。
* * *
メイは、差し出された食事を食べなかった。
自分の食事も押しのけた。私たちと一緒に、裂け目を越えてきたものだった。
それから、ソラが自分のスプーンを持っていると泣き出した。
私は娘を抱き寄せた。
レベルも魔法も、こういうことにはあまり関係がなかった。
寒くて、くたくたで。いつもの暮らしと、自分のベッドと、母親を求めていた。
私も、あの日常に戻りたかった。
昔、母が歌ってくれた歌を口ずさんだ。もう歌詞を全部は覚えていなかった。メイは気にしないようだった。
小さな指が、私の襟をつかんだ。
炉のそばでは、レンが器の中で、小さなスプーンをゆっくり回していた。
「向こうでも、時間は同じように進んでると思う?」
私はメイが目を閉じるまで、歌い続けた。
「分からない」
「おばあちゃん、電話するよね」
「ああ」
「病院からも」
私は息子を見た。
「病院は、別の医者を見つけるよ」
レンは、しばらく黙っていた。
「そういうことを言ってるんじゃない」
分かっていた。
妹を起こさずに、息子の肩へ手を置ける距離に座った。
「道を探せるようになったら、探そう」
「帰れるって、約束してくれる?」
言ってやりたい答えが、喉を締めつけた。
「探すことを諦めない。それは約束する」
レンは器を見つめた。
それから、火へ近づけた。
「ここ、すぐ冷めるね」
私は息子のそばに座り続けた。
オッシャは、何も言わずにいてくれた。
* * *
ユキは膝を泥で汚して戻ってきた。その表情には、すぐに見覚えがあると気づいた。
みんなが承認した図面の中に、欠陥を見つけたときの顔だった。
「重さをかける場所が間違ってる」
サレスが、女の弓使いと一緒に入ってきた。
彼女はもう弓ではなく、巻いた縄を持っていた。
「穴は、ふさがないといけない」と彼女は言った。
ユキは盆を借り、冷えた灰を薄く広げた。
木片を使い、堤の断面を描いた。
「私が見たとおりなら、水はこの部分の下を通っています。皆さんは、もう土が流れ出している場所の上に袋を置いている。その重さで全体が沈み、水の通り道がさらに広がっています」
弓使いがサレスを見た。
「二段目を積んだあと、石が下がった」
「締め固まっているのだと思った」と彼は答えた。
「沈んでいるのは確かです」とユキは言った。「でも、しっかりした地盤の上ではありません」
彼女は図の一部を消した。
「今夜、堤を造り直すことはできません。ただ、これ以上傷めるのをやめることはできます。追加した重さを少しずつ取り除く。それから、動きが止まらなかったときに備えて、住民を移す準備をしましょう」
弓使いが体をこわばらせた。
「家を捨てろというのか?」
「移動できるように準備するんです。今、捨てると決めるわけではありません」
ユキは木片を置いた。
「ほかの人が作業している間、誰が亀裂を見張っていますか?」
誰も答えなかった。
東京でも、こういう沈黙を知っていた。複雑な緊急事態のただ中で、あまりに単純な問いを口にすると、ときどき訪れる沈黙だった。
サレスが背筋を伸ばした。
「袋を積み上げるのはやめる。二人は土手に残って様子を見ろ。ほかの者は、説明を聞きに来てくれ」
弓使いはうなずいた。
まだ、私たちを信頼してはいなかった。
それでも、自分で確かめられる何かを見いだしていた。
始めるには、それで十分だった。
* * *
一時間後、私は少しだけオッシャの家を出た。
イルレンは彼女に見守られて眠っていた。双子も、ついたての向こうに用意された寝床で眠っていた。ハナはそのそばに横になり、目を開けていた。レンは妹と一緒に残ることを選んだ。
「誰かに外へ出るよう言われても、父さんか母さんを待つんだよ」
「二人が呼んでるって言われても?」
私はオッシャを見た。
「お世話になっている人に、確かめてきてもらう」
老女が片手を上げた。
「私がいるよ」
その簡単な約束のおかげで、入口をまたぐことができた。
外では、湿った寒さの中、村人たちが働いていた。
穀倉から少しずつ荷物を運び出す者。渡り廊下に沿って縄を張る者。年長の住民たちは、子どもたちを高い場所にある家々へ導いていた。
ユキは、土手の地盤が安定している場所に立っていた。亀裂の両側に小さな目印を立て、その間隔を見張るように頼んでいた。
彼女の魔法で、堤を持ち上げることはできなかった。
使うのは、支えを硬くしたり、接合部を固定する間だけ保持したりするときだった。そのたびに、普通の方法で支えられるようになるのを待ってから、補強を解いた。
村の人々が、人手と材料と、土地の知識を提供していた。
彼女は、どの順番で動くかを示していた。
これにも、覚えがあった。
一つのチームが、でき始めていた。
「座っているはずでしょう」と、私を見た彼女が言った。
「ほぼ一時間は、そうしていた」
「大したものね」
彼女は監視場所の近くにある、風を避けた炉を指した。
「残っていた火がぬれてしまったの。ここで試せる? みんな、体を温める必要があるわ」
私は慎重に膝をついた。
住民の一人が、ろう引きの袋に入れておいた乾いた木くずを持ってきた。私はその上に手をかざし、袖が垂れていないか確かめてから、炎を呼び出した。
炎が揺れた。
最初の木くずに火が移るまで、近づけた。
まず二MP。それから、維持を切るまでにもう一MP。
木は燃え続けた。
目の前の男が、熱へ両手を差し出した。小指の一部が欠けていた。
「いつでもできるのか?」
「魔力が残っていて、きちんと操れるうちは」
男は家々を見た。
「だったら、練習は屋根から離れたところでやってくれ」
私は約束した。
その小さな火の周りへ、人々が交代で座り始めた。
一人が隣へ器を渡した。別の一人が、火のそばに布を置いた。サレスは、飲用に用意してある水と、それを温める容器を取りに行かせた。
誰も私に頭を下げなかった。
少し詰めてくれ、と頼まれた。
私には、それで十分だった。
* * *
夜明け前、音が変わった。
土手の向こうの轟きには、ようやく慣れ始めていた。それが不意に、鋭い音へ変わった。
ユキがすぐに手を上げた。
「全員、下がって。ゆっくり」
一人の作業者が、籠を取りに戻ろうとした。
「置いてこい」とサレスが言った。
男は従った。
ほんの数秒前まで彼が立っていた、その場所の縁が崩れた。重い音を立てて、土が水の中へ落ちた。
私は勢いよく立ち上がりすぎた。脚が痛んだ。
ユキは、もう崩れた縁を見ていなかった。
崩れたことで現れたものを、見つめていた。
二つの石の間に、黒ずんだ木材が見えた。古い開口部を横切るように取りつけられていて、その片端が折れていた。
サレスが低い声で悪態をついた。
「古い排水口だ。ふさがっていると思っていた」
「いつからですか?」とユキが尋ねた。
「私が生まれる前からだ」
彼女はサレスへ向き直った。
「明るくなったら、対岸から調べる必要があります。この縁には近づかずに」
弓使いが渡り廊下を戻ってきた。寒さで鱗の色が薄くなっていた。
「家族たちは高いところへ移した。穀倉の袋もだ」
サレスは一瞬、目を閉じた。
それから、無事なほうの手を妻の肩に置いた。
「あのまま積み続けていたら……」
「その話は、あとにしましょう」と彼女は言った。「今は、人を近づけず、水位を見張ってください」
指示が伝え直されるまで、彼女は待った。
そのあとになって初めて、体が揺れた。
私は肘を支えた。
「座って」
「まだ、できる――」
「説明はした。みんな、分かってる。座って」
あまりにも見慣れた苛立ちを向けられて、私は笑いたくなった。
やがて彼女は、火のそばに腰を下ろした。
サレスが毛布を持ってこさせた。
* * *
オッシャの家へ戻ると、レンは壁にもたれて眠っていた。
ハナがその体に寄り添っていた。ソラの片足が毛布からはみ出していた。メイは、兄の服の端を握っていた。
私はしばらく入口に立っていた。
四人いた。
できるというだけの理由で、もう一度数えた。
オッシャが、テーブルへ来るよう合図した。
イルレンが目を開けていた。
私たちを目で追ってから、弱い声で何かを求めた。
「水だよ」とオッシャが言い直した。私にも、その言葉は分かっていた。
彼女は少しだけ水を飲ませた。
私は、すぐには診察眼を使わず、彼女が許した範囲で様子を確かめた。
呼吸が、より規則的になっていた。
治ったわけではない。
一晩を、つなぐことができたのだ。
ユキは子どもたちのそばに座った。頭が壁にもたれると、ほとんどすぐにまぶたが閉じた。
私は、もう一度だけ自分の情報を開いた。
ユウマ・アキヤマ/レベル:3。
習得済み魔法:種火、ランクI。
使用可能ポイント:能力ポイント6、スキルポイント1。
表示された効果をよく読んでから、ポイントを配分した。生命力に二、意志に二、知覚に一、知力に一。
生命力:14。
意志:20。
知覚:17。
知力:20。
残り能力ポイント:0。
最後のスキルポイントは、取っておいた。
一瞬、胸の中に熱が通った。数値が変わった。それでも疲れは十分に残っていて、これだけで何かが大きく変わったと思い込むなと、私に教えていた。
表示を消した。
オッシャは、子どもたちのそばに場所を空けてくれていた。
そこへ腰を下ろそうとしたとき、サレスが垂れ幕を持ち上げた。
もう、槍は持っていなかった。
その手には、湿った木片があった。
「明るくなってきた」と彼は言った。「向こう側から、古い排水口を確かめられた」
ユキが目を開けた。
サレスが木片を差し出した。
私にさえ、その跡は分かった。細かく、規則的に並び、水がつけたにしてはあまりにもくっきりしていた。
「のこぎりで切られてる」と彼女がつぶやいた。
サレスはうなずいた。
「しかも、中の木はまだ色が明るい」
外では、村人たちが新しい朝を迎えていた。
土手のそばでは、まだ小さな火が燃えていた。
私たちは夜を越えた。子どもたちは眠っていた。イルレンは息をしていた。
私は、妻の手の中の木片を見た。
誰かが、堤を決壊させようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ユウマが初めて手にした炎は、まだ小さく、不安定なものでした。それでも、誰かを温める力にはなりました。
一夜を越えた家族を待っていたのは、堤に残された不審な痕跡。誰が、何のために堤を壊そうとしたのでしょうか。
これからも、アキヤマ一家の歩みを見守っていただけたら嬉しいです。ご感想もお気軽にお寄せください。




