第五章 18 悪魔の子―③
次に目を覚ました時、私は知らない部屋にいた。すぐに飛び起きて辺りを見回す。家にあったものとは比べ物にならないほどしっかりした家具ばかりだ。そういえば、とさっきまで寝ていたベッドを恐る恐る手で押してみる。手はふかふかの布団にゆっくりと沈んでいき、そのあまりの気持ちよさに驚いて後ずさってしまった。今にして思えば普通のベッドだったんだろうけど、当時の私にとっては未知の出会いだった。
そこは直前の恐ろしい記憶とは到底結び付かないような生活感に溢れていて、それがさらに恐怖を煽って。
「セイ……!」
私は頭を抱えて叫んだ。
ここはどこなの? あいつらは誰? セイはどこにいるの? セイは、無事なの……?
ギイ、と軋んだ音が聞こえ、私はすぐに顔を上げた。開いたドアの向こうにはイヌの男が立っている。
「目を覚ましたか」と呟く男に向かって叫んだ。
「ここはどこ。セイはどこにいるの!?」
「寝起きの癖に随分と元気だな」
耳を塞ぎ、男は鬱陶しそうに舌打ちをする。それから部屋の中へずかずかと入りこんできた。
「お前は首長様に拾われたのだ。これからは眠る場所にも食べる物にも困ることはない。さらに首長様は、空虚なお前に生きる目的までもお与えになった」
男は私を見下ろし、単調に話す。私には男の言っている意味がまったくわからなかった。首長って誰だとか、拾われたんじゃなくて攫われたんだとか、いろいろ抗議しようとしたところで、男は部屋の外に向かって「入れ」と声を張り上げた。
つられて視線をドアの向こうへ移すと、本を積み上げた台車が入ってきた。が、床板に引っかかったのか、台車が傾いて本の山がこちらへ雪崩れてくる。
「す、すみません!」
台車の向こうからネズミの少女が飛び出してきて、床に頭をつける勢いで頭を下げた。すんでのところで本がぶつかることはなかったけれど、男は少女に向かって舌打ちをする。私はすぐ近くに落ちた本を拾い上げた。
表紙には、「魔法と道徳」の文字。
「これからお前には、この部屋で魔法の研究をしてもらう」
男の言葉に、今度こそ私は唖然とした。
「魔法……?」
「そう。魔法だ。古い文献によれば、魔法使いだけでなく、妖精も魔法を使うことが出来るという。得体の知れない力だが、手に入れば、私たちは更なる高みに到達できるだろう。本来ならば野垂れ死ぬ運命にあったお前を助け、こうして部屋までお与えになったのは誰だ? 首長様だ。ここまで言えばわかるだろう。お前の立場も、何をするべきなのかも」
そこまで語ると、男は口を噤んでじっと私の顔を覗き込んだ。私の返事を待っているようだ。あまりにも馬鹿らしくて、私は「ふざけないで」と叫んだ。
「勝手に攫っておいてよくそんなことが言えるわね。首長だか何だか知らないけど、あんたたちのために働くくらいなら野垂れ死んだ方がよっぽどマシ――っぐ!?」
思い切り顔を蹴りつけられ、私は軽く後ろに吹き飛んだ。呻きながら顔に触れると、べっとりと赤い血に濡れている。今の蹴りで鼻が切れたらしい。男は私の髪を掴んで無理やり頭を持ち上げると、「まだ言っていなかったが」と口の端を持ち上げて笑った。
「お前の妹。あれもこちらで預かっているのだよ。お前が言うことを聞かないのなら、こちらにも考えがある」
「……っ!!」
私は反射的に男の手を振り払った。バチン、と乾いた音が鳴る。私は手の甲で鼻血を拭うと、男を睨みつけた。
「最低……!」
「育ちの悪さが窺えるな。それで、返事は?」
男は悠然と私を見下ろしている。私は腸が煮えくりかえりそうなほどの怒りを噛み殺して、ぐっと頭を下げた。大丈夫。慣れてる。感情を押し殺すことくらい。これ以上、私のせいで妹を苦しませることは出来ない。
「わかりました。首長様のために、必ず魔法を解き明かしてみせます」
こうして、私は首長と呼ばれる奴の屋敷で魔法の研究をすることになった。
とはいっても、私に与えられたのは、ほとんど魔法と関係ない本(どこか知らない町の歴史とか、誰かの伝記とか)ばかりだった。獣人界の文字と魔法界の文字は違うから、奴らには何が書かれているのかわからなかったらしい。母さんと父さんが教えてくれていたおかげである程度は読むことができたけど、一ページ理解するのに丸一日、なんてこともざらだった。
慣れない文字とまとまりのない情報の海に溺れそうになりながら、それでも私は藻掻くことを諦めなかった。セイに会いたい。その一心で掴んだのが、あのネズミの少女だった。
「失礼します」
細かい字に頭を抱えていると、控えめに部屋のドアが開いた。私はすぐに微笑んで声をかける。
「ありがとう。いつもごめんね、コリン」
「……いえ」
瘦せ細ったネズミの少女――コリンは、私の世話役として頻繁に部屋を訪れる。というか、コリン以外はここに来ない。私の世話はすべてこの少女に一任されているようだった。けど。
コリンがたどたどしく私の机にお盆を置く。器に入ったスープは半分ほどがお盆の上に零れ、パンも少し湿っていた。
コリンは驚くほど要領が悪い。初めて会った時も本を倒していたし、一日に一回は何かしらのミスをする。零さずにスープを運んできたことはない。
小さくため息を吐いて彼女を見ると、離れたところから私のご飯をじっと見つめている。いつものように、獲物を狙っているような目で。
食べづらいことこの上ないけど、これは絶好の機会だ。だから私は声をかけることにした。
「ねえコリン。これ食べてもらえない? せっかくのご飯なのに食欲がないのよ」
「えっ?」
コリンはいつもの鈍さからは考えられないほどの速度で反応した。そんなにお腹が空いているのか。
「わ、私が、いいんですか?」
「もちろん」
「あ……でも……」
一瞬こちらへ手を伸ばしかけたコリンが、不安そうな目で私を見た。この子はずっと私を警戒している。私が妖精である以上、それも仕方のないことだとは思うけど、だからといってずっと余所余所しいままでは困る。
「ほら、遠慮しないで」
私は精いっぱいの柔らかい笑みを浮かべて、コリンへお盆をすすめた。警戒心より空腹の方が勝ったのだろう。コリンは今度こそパンを掴んで頬張った。喉を鳴らして飲み込み、涙の滲んだ目で私を見上げてくる。
「ありがとうございます……! 私、ダメダメだから、ご飯もあんまり貰えないんです。お前にやるだけ無駄だって言われて。仕事が出来ないから、みんなが嫌がるお世話役もすることに……」
そこまで口にして、コリンはハッと口元を押さえた。顔を青くして頭を下げる。
「す、すいません!」
「いいのよ。気にしないで」
私は笑顔を貼り付けたまま答える。妖精なんて得体の知れないものの世話役なんて、嫌がられるに決まっている。仕事が出来ないこの少女が選ばれたのも当然だ。
でもそういうことを口に出すからダメなんでしょ、という本心は奥にしまい込み、私はコリンに優しく語り掛けた。
「それは辛いわね。私にもお腹が空く苦しみはすごくよくわかるわ」
「ナオさん……」
「だから、これから私のご飯を二人で分け合うのはどう? コリンが苦しそうにしてるのを見るのは私も嫌だし」
えっ、と口元にパンくずを付けたまま、コリンが固まる。
「そ、それは流石に申し訳ないです……」
「気にしないで。だって私は、コリンの友達になりたいと思ってるから」
「友達……!?」
コリンの顔が一気に明るくなる。ずっと落ち込んだ顔や苦しそうな顔しか見てこなかったから、少し驚いた。こんなに表情が変わる子だったのか。
「うん、友達。……もしかして、コリンは嫌だった?」
「そ、そんなわけないです。嬉しいです。私、友達って言ってもらえたの初めてで……。妖精って姿も全然違うし怖いなって思ってたんですけど、普通の人たちよりもずっと優しいんですね!」
コリンは私を見てニッコリと笑った。発言の一つ一つが少しモヤっとする子だ。仕方ないか。ともかく私は「良かった」と微笑んだ。
このままずっと、この部屋で奴らに利用されながら生きるつもりはない。絶対にセイと一緒にここを出て、二人で暮らす。そのための第一歩がコリンだ。部屋の外に出られない私にとって、外と繋がる手段はこのドジな少女しかいない。唯一頼れる相手がこれなのは不安だけど、今はとにかく進むしかない。
「待ってて、セイ」
コリンと手を繋ぎながら、私は口の中でそっと呟いた。




