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菊乃の一歩 1

 目が覚める。

 部屋の中の闇は濃く、まだ夜明けまで時間がありそうだった。暫く眠れそうにも無かったが、目を閉じて眠る努力は続けてみる。

 少なくとも眠っている間は、嫌な事を考えなくても済むから。


 菊乃を助けてくれたハルラックは、その為に異世界人対策本部ケラスに捕らえられた。罪状は、異世界人による能力の行使、だと思う。今菊乃が呼んでいる本にあった異世界人に関する取り決めの中で、そんな事が書いてあった。


 こんな事になるなら、助けなくても良かったのに。


 放っておいてくれれば良かったのだ。例え、無事ではすまなかったとしても、自分のために誰かが傷つくのは嫌だ。そんなに重たいものを、菊乃は背負えない。

 ハルラックはどうして、自分を助けてくれたのだろう。

 こうなる事を知らなかったとは思えない。


 お前が暴れれば、俺の立場も悪くなる。構わないでくれ


 あの言葉は、菊乃を巻き込まない為のものだったのか。それとも本当に、迷惑だと思っていたのか。分からない。ただ、あの時自分にできる事が何一つ無かった事は、確かだった。

 敵対者と呼ばれる異世界人である疑いは晴れた、と改めてユーイに宣言された。謝罪もされたがもうどうだって良い気がした。それは彼らの問題で、菊乃の問題では無い。

 時期を見て、希望していた通りに学校にも通えることになった。以前なら、もっと喜べたかもしれない。でも、今はそれすらどうでもよく思えてくる。

 重症だ。

 自分でも思う。やけになっている。冷静になれない。でも、それが何だって言うんだろう。いつもいつも、周りの顔色ばかり伺って、小さくなって気を使って。本当に馬鹿みたいだ。そんな自分にうんざりする。

 母と暮らしていた時もそうだった。

 仕事に疲れている母に気を使い、学校では周りの友達に合わせて無理をして。それなのに気がつけばいつも、一人、輪の外にいた気がする。


 寂しい。


 結局、どこにいたって一人なのだ。



 ノックの音が聞こえる。

 重たい瞼をこじ開ける。部屋の中が明るい。いつの間にか寝ていたようだ。朝なのか、昼なのか部屋に時計が無いから判断できない。

 まだ眠い。

 続いているノックの音を無視して、菊乃は再びベッドにもぐりこんだ。

 今は誰にも会う気になれない。

「そっとしておいてあげたいのは山々なんですが」

 すぐ上から声が降ってきた。吃驚して目を開けると、こちらを覗き込むジェレミーの顔が見えた。近い。反射的に体が逃げる。

「すみません」

 僅かに苦笑を浮かべ、ジェレミーは申し訳無さそうに言った。

「先の事件の事でお話を伺いたいと、ハイネス・ユーゴが来ています。僕としては追い返したいところですが、ケラスをあんまり蔑ろにすると後で面倒なもので」

 ハイネス・ユーゴ。

 その名に菊乃の心臓がどくりとはねる。彼がハルラックを拘束したのだ。殺されかけた事もある。助けられてもいるのだが、どちらかというと悪い印象の方が強い。

 顔色を悪くした菊乃を、ジェレミーは心配げに見下ろした。

「大丈夫ですか?」

 菊乃は何も言えず、逃げるように視線をそらした。

 会うのが怖い。ハルラックだけでなく、ユーイにもジェレミーにも会いたくなかった。

「……分かりました。体調不良と伝えて、少し時間を」

「そのままで良い」

 第三者の鋭い声に、菊乃は凍りついた。ジェレミーが眉根を寄せて、振り返る。

「ハイネス。何を勝手にここまで入って来ているんですか」

「出向いた方が早い」

「そういう問題ではありません。いくら権限を持っているとはいえ、それなりの配慮と心遣いは必要ですよ。特に女性相手には」

 不快そうな声でジェレミーが言うが、ハイネスは無視した。

「ハルラック・エジのことについて、2、3、聞きたいことがある」


 ハルラック・エジ

 その名を聞いて、菊乃はゆっくり顔を上げた。ジェレミーの肩越しに、ハイネスと目があった。紫色の瞳を僅かに見開いて、ハイネスは口を閉ざす。冴え冴えとした色の中に、困惑したような色が見えたような気がした。

 微かなそれは、瞬きの間に消える。

 気がつけば、何故か怒ったような顔で睨みつけられていた。

「5分待つ。着替えを済ませ降りて来い。下で待っている」

 ぼんやりとした菊乃に代わり、ジェレミーが抗議の声を上げた。

「突然何を言いだすんですか」

「本部に連れて行く。そこで正式な取調べを行う」

「馬鹿なことを。見ての通り、キクノの体調は良くありません。大体、本部に連れて行く必要など無いでしょう」

「……こちらが、大きく譲歩していることを忘れていないか」

 ジェレミーはその言葉を聞くと、不快そうに片目を細めた。

「本来なら、今すぐにでもこれの身柄を引き取ることも可能だ」

 2人が何を言い合っているのか、菊乃には分からなかった。どうでも良い。そう思っているから、言葉が頭に入ってこない。

 暫くして、ジェレミーが折れた。日が暮れる前には必ず無事に帰すことを条件に、菊乃はハイネスに本部へ連れて行かれる事となった。


 何故そうなったのか分からない。だが菊乃はもう疑問を持つことをやめていた。どうせ考えても分からない。聞いたところで答えは得られないだろう。

 ハイネスについて、ただその背中を追うことだけを考えて歩いた。だから、どれくらい歩いたのかも分からない。どんな景色を通ってきたのかも、まるで覚えていなかった。もしもここで置いていかれたら、菊乃は自力で帰れないだろう。

 帰る?

 どこへ。

 ユーイの屋敷は、菊乃にとって帰る場所なのだろうか。多分、違うと思う。この世界に、帰る場所などどこにも無いのだ。


 おかえり


 そう言って、暖かく迎えてくれる唯一の存在だった母親も、菊乃事を忘れてしまったのなら、もう本当にどこにも無い。

 じゃり、と足が砂に沈む。白い砂に足を取られて、転びそうになった。潮の香りがする。顔を上げると、青い色が視界いっぱいに広がった。

 海だ。

 足を止めた菊乃の前に、ハイネスが立つ。背の高いハイネスの影に、菊乃はすっぽり隠れてしまう。

「溜め込むな」

 見下ろしてくる紫の瞳は、静かだった。怒りも憎しみも、今は無い。

「吐き出せ」

 何を。

「怒りや悲しみを、何故耐える。外に出せ。そうしなければ、お前は壊れる」

 ゆっくりと、菊乃は瞬いた。分からない。ハイネスは何を言っているのだろう。それに、何故今、海にいるのかも。ケラスへ行くのではなかったか。

 ぼんやりと見上げる菊乃の頬に、ハイネスが右手を添えた。無意識に、びくりと肩が揺れる。だが、ハイネスの手は考えられないほど暖かく、優しくて、それ以上逃げることができない。

「お前は二度と、帰ることはできない」

 暖かい手とは反対に、ハイネスの言葉は冷たかった。不意に呼吸が苦しくなる。

「どこにも、行けない。世界でたった一人取り残されている」

 胸が痛い。

 ……そんな事、言われなくても知っている!

 耳を塞ごうとした手を掴まれる。

「たった一人の母親は、お前の存在すら忘れて幸福に暮らしている。誰もお前を覚えていない。助けはこない」

「やめて」

「お前はたった一人でここにいる」

「知ってる!何でそんなこと、言うの!分かってる。嫌いだからって、酷い!」

 掴まれた手を力任せに引っ張ると、意外なほどあっさり離された。高ぶった感情のまま、手が動く。波の音にまぎれて、皮膚を打つ短い音が響いた。

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