菊乃の反抗 4
一度は覚悟を決めたつもりだったが、すぐに行動に移す事はできなかった。
下りた途端斬り付けられたらどうしよう。
死ぬのは嫌だし、斬りつけられるのは怖すぎる。きっと、凄く痛いはずだ。
進むことも引く事もできないまま、壁の上に踏み止まる菊乃。
そんな彼女を見つめる男の瞳は容赦なく鋭いが、濁りの無い美しい色をしていた。意外に暖かい色合いの紫。少しの嘘も誤魔化しも通用しなさそうな、真っ直ぐな眼差しが、身動きできない菊乃を射抜く。
「死にたいなら下りて来い。その望みを叶えるのは容易い」
顔色一つ変えることなく、恐ろしい事を言われた。菊乃はぶんぶんと首を横に振る。そうか、と男は目を細めた。
「ならば、戻れ」
後ろは不自由だが、安全な場所。だが、戻る事もできない。キリアンの事がまだ解決していなかった。屋敷の周囲には何も無い。遠くの森と、そこに続くただただ広い草原。生える真っ直ぐな草の背丈はそれほど高くなくて、身を隠すには心もとない。ぽつぽつと生える木も幹が細い。この屋敷に近づく者を見つけるのは容易いだろう。
考えろ……、落ち着いて、考えないと。
ジェレミーはキリアンの事を知っていた。
ここへ、何をしに来ていたのかも。キリアンが菊乃と言葉を交わす事は黙認されていた、という事だ。
ここでの生活に神経質になっている菊乃は、辺りに誰もいなかった事を知っている。知っていたつもりだったが、壁の向こうはどうだったのか。誰か、いたんじゃないかな、と菊乃は考える。キリアンと、他の誰か。
例えば、この人、とか。
「ずっと、ここにいました?」
自分の身の振り方を決める前に、菊乃は問いかけた。まだまだ不自由な言葉であるのが、もどかしいと思う。聞きたい事は山ほどあるのに。
「いつもここに。キリアンが、来ていた時も?」
男はただじっと菊乃を見ている。
「貴方は、キリアンを知っていますか?」
「その質問で、お前は何を得る」
「え…える…のは。あの、私は、キリアンの無事が知りたい」
取り敢えずはそれだけで良い。
ほんの僅かに、男の左の眉が上がったように見えた。気のせいかもしれない。驚くほど表情に変化の無い男だった。だから、菊乃には彼が何を考えているのか、思っているのか少しも想像できなかった。
分かるのは、あまり好ましく思われていないだろうということ。
(ううん、多分、もっと悪い)
夜が来る前の空のような紫の目にあるのは、憎悪だ。菊乃の存在をひたすらに憎んでいるような。
「知りたいなら」
「え」
「外へ出ろ。諦めるならさっさと戻れ」
諦める……何を?
キリアンの、事を?
分からないこと。誰も頼れないこと。たった一人であること。その全てが、じわじわと菊乃を追い詰めていく。負けないように強く心を保とうとして、いつもどこかで失敗していた。
関係ないというには、関わりすぎてしまった。
この状況がユーイ達の手によって作り出されているものなら、キリアンは無事な筈だ。でも、もしも違ったら。本当に誘拐されていたら。
そうだとしても仕方が無い。例えここで菊乃が動いたとしても、何も出来ない。だって、外へ出たらきっと唯で済むはずが無い。どうしようもないのだ。無茶をすれば、ただ自分の身が危なくなるだけ。
「死ぬのは、嫌」
小さく呟いて、菊乃は決めた。一呼吸おき、高い壁から一気に飛び降りた。
地面に降り立って、剣を抜き間合いを詰めて来る男の紫の瞳を見据える。みっともなくても、足の震えを抑える事はできなかった。今にも叫んで逃げ出したい気持ちが湧き上がり、ぎゅっと両手を握り締める。
「なら、どうしてこちらへ下りた」
眼前の剣先をなるべく見ないように、ひたすらに男の顔に意識を向ける。一切の柔らかさをそぎ落としたような硬質な美しさは、彼の持つ刃物を思わせた。
熱の無い瞳には、ただ殺意だけがある。
彼は、菊乃がこの世界で会った誰よりも、分かりやすかった。むき出しの嫌悪を、隠そうともしていない。向けられているのは殺意だというのに、不思議とそれに安堵した。悩まなくても良い、疑わなくても良い。ただ、それだけで。
菊乃は笑う事ができた。
我慢する必要も、取り繕う必要も無かった。嫌われる心配をしなくても良い。何故なら最初からどうする事も出来ないほど、憎まれている。
相変わらず手足は震えていたが、呼吸は楽になっていた。
逃げよう
その思考は読まれていた。
一瞬瞳に浮かんだ怪訝な色を掻き消して、男は走り出そうと身を捻った菊乃の背後に回り、腕をねじり上げた。そのままうつ伏せに菊乃は地面に押し付けられる。痛い。擦りむいた手足よりも、未だ抜けそうなほど引っ張られている腕が。
背中を膝で押さえられているため全く身動きがとれない。
首筋に冷たい刃物が押し当てられて、青褪める。本当に、死ぬ。殺される。覚悟なんてできるわけがなかった。自分が、こんな風に殺されるなんて。
どうして。
酷いと思う。何もしてないのに。
ヤケになった自分の行動を後悔する。助けて、誰か。誰も助けてくれるわけがないと分かっていても、止められない。助けて、助けて、
お母さん!
「やりすぎです!ハイネス!」
鋭い声を、麻痺した思考の外で聞いた。
「まだ確認できていない」
「これ以上何をする気ですか。キクノに怪我をさせることまでは、許していない筈です」
「……影憑きは、追い詰められた時にその正体を現す」
「充分、追い詰めたでしょう」
男と誰かが会話している。聞き覚えのある声だ。
(誰……?ジェレミー…?)
どうやら助かったらしい、という安堵から全身の力が抜けていく。同時に、意識の方も闇へと滑り落ちていった。
元々微熱があったのだ。無理をした事で熱が上がり、その後2日ほど寝込むはめになった。2日目の朝、起きると部屋にユーイ・ユーイの姿があった。
顔を見るのは何日ぶりだろうか。
派手な刺繍の入った濃い緑色のジャケットと、同色のズボン。袖口からシャツのフリルを覗かせたユーイはまるで、どこぞの王子様のようだ。ベッドの脇にある椅子で足を組み、ふんぞり返っていた彼は、菊乃の目が覚めた事に気がつくと、小さな顎をつんと上向けた。
「何か言う事はあるか」
謝罪を求められているのだろうか。今回、菊乃は彼の言いつけをいくつか破っている。そう、仕向けられていたようにも思うが。
それでも、約束を破ったのは菊乃だ。
だが、菊乃の口から出たのは、謝罪の言葉ではなかった。
「キリアンに、言ってほしい。もう、会いません」
ユーイはほんの僅かに眉の端を動かした。緑の瞳は平静を保ち、相変わらず観察するように菊乃を見ている。
「そうか。伝えておく。他には」
「ありがとう、と。キリアンに。それだけ、良いです」
「了解した」
ユーイは立ち上がった。そのまま部屋を出て行くかと思ったら、暫くそこで菊乃を見下ろし目を細めた。
「賢しいな、サカマキ・キクノ」
口角を上げ、冷笑する。
「苛めがいはありそうだが、可愛げが無い。愛らしさは女の武器だぞ。だが、面白い。少し遊んでやるから覚悟しておけ」
良く分からないが、可愛くないといわれているようだった。妙に背筋が寒くなる。また、熱が上がってきているのかもしれない。
ユーイはそのまま部屋を出て行こうとドアを開けてから、振り返った。
「キリアンは無事だ」
それだけ告げて、今度こそ部屋を出て行った。
残された菊乃は溜息をついて、目を閉じた。
キリアンは、無事だ。
壁の外にいた男のこと。現れなかったキリアンのこと。彼らを探しにきた女性のこと。殺されそうになった時に止めに入ったジェレミーのこと。
タイミングが良すぎた。
本当なら、助かるわけが無い。あの剣を持った男なら、容易く菊乃を斬り捨てられた筈だ。全部が仕組まれていたというのなら、キリアンがいなくなったというのも、嘘なのかもしれない。
そうだと良いと思った。
ユーイに直接聞いても答えをくれないだろう。だから、全部知っているような態度で、キリアンへの伝言を頼んだのだ。繋がっているのなら、了承してくれる筈だと思って。
良かった。
無事だった。
例え、全部が仕組まれた上の仮初の『友達』だったとしても、菊乃は彼を憎めなかった。
助けは来ない。
だからもう、誰かにこの心を預ける事はできない。




