(12)煉瓦色の町
教会を後にしたふたりは、少年のおすすめとやらを求めて町をそぞろ歩いていた。海辺の町では、夏の観光客が貴重な収入源であるらしい。そう大して金持ちにも見えなさそうなエレナにさえ、売り子たちが口々に声をかけてくる。魚屋の女将にまで、この辺りの名物だという貝殻ネックレスを勧められた時にはさすがに笑ってしまった。
普段は押しに弱いエレナも、隣にいる少年のおかげである程度はっきりと断れるようになった。そもそも少年は自分でなんとかすればとばかりに、エレナの盾にはなってくれないのだから。いい大人が少年に庇われるのもなんとも情けない話なのだから、まあ良いのだけれども。
エレナの内心など気にした風もなく、少年は町を進んで行く。
「さっきも話したけれどこの辺りはね、潮風が強いから木で建物を作ってもすぐに傷んじゃうんだよ。だから全部煉瓦づくり。別にもともと景観にこだわったわけじゃない」
どうも今時の子どもというのは、辛口らしい。エレナはたじたじになりながら、その話に耳を傾けた。
「それでも、ここはいいところだ。小さいけれど、とてもあたたかみのある町だと思う」
「そう? じゃあ住めばって言うと、みんな住まないんだよね。やっぱり田舎は不便だからさ」
宿屋の女将たちの井戸端会議から学んだのかもしれない。いっぱしの大人のような口の利き方が不思議と可愛らしかった。
香ばしい匂いがエレナの鼻先をくすぐる。ぐるりと辺りを見渡せば、屋台が軒を連ねていた。串焼きだ。懐かしさにエレナが目を細めた。そう言えば、ヘルトゥと初めてふたりで街を歩いた時にも、これを食べたのだったか。
「ね、母さんも気に入るって言ったでしょ」
少年が誇らしげに胸を張る。その姿がまた微笑ましくて、エレナは目尻を下げた。どうして、これほどまでに愛おしく感じるのか。これが年をとるということなのか。それならば老いもまた、悪いものではないのかもしれない。人間、角が取れて丸くなるのは、きっと幸せなことだから。
「母さんが欲しそうだからさ、これを食べてあげてもいいよ」
「おいおい。もともと、お腹が空いたと話していたのはわたしではなく……」
「あれ、僕そんなこと言ったっけ?」
ああ言えばこう言う。天邪鬼な少年の言葉に振り回されながら、エレナは財布を出す。育ち盛りの男の子だから、串焼きの二本くらいぺろりとたいらげてくれるだろう。
「親父さん、串焼きを三本頼む」
「三本! いやあ、いいねえ。食いっぷりがいい女性は大好きだよ」
嬉しそうな親父さんになぜかもう一本おまけだと串焼きを押し付けられる。どうやらすべてエレナが食べるものだと思われたらしい。そんなに自分は大食漢に見えるのか。確かに食い意地は張っている方かもしれないが……。
もしかしたらおまけをもらったのも、三本では物足りなさそうに見えたのかもしれない。驚きのあまり、動きがぎこちなくなるエレナから串焼きを奪うと、少年はやれやれとばかりにため息をついた。
「大丈夫だから。母さんはどっちかというと痩せすぎだから、もっと肉をつけたほうがいいよ」
「そういう自分こそ、もっと食べたほうがいい。男の子なんだから」
「そうやって、すぐ子ども扱いするのはやめてよね」
互いに串焼きを持ったままの軽口がおかしくて、エレナはつい吹き出した。焼きたてを口に頬張れば、うまみが口中に広がる。肉汁たっぷりの素材の美味しさを引き立てるように、味付けはシンプルに塩だけだ。
「おいしいでしょ」
「ああ、そうだな。ぎゅっと旨味が濃縮している。素材に自信があるんだな」
「よかった。母さん、ちゃんと味がわかるようになったんだね」
さらりと言われた言葉に、エレナは目を見張った。食べ物の味がわからなかったことは、イザベル以外には伝えていなかったはずなのに。
「どうして、それを?」
「前に一緒に酒場に行った時に、母さんの食事にたっぷり酒場特製の激辛ソースをかけておいたんだ。それなのに何も言わずに食べるんだもの。舌が馬鹿になってるんだろうなって思うよ。どうせ、父さんの浮気で参ってたからでしょ。それねえ、ストレスだよ、ストレス」
あっけらかんととんでもないことを言われて、エレナは、開いた口がふさがらなかった。
そういえば、確かに酒場に行った翌日は、一日中腹の調子が悪かった覚えがある。まさかそんないたずらをしかけられていたとは。恨めしさを隠すことなく半目で見つめれば、気がつかなかったんだから別にいいでしょと、少年は悪びれることなく笑った。
「母さんは気を使い過ぎなんだよ。もっと自己中に生きたらいいのに。父さんはね、別に聖人君子なんかじゃないんだ。普通の人間だから、あの顔でゲロだって吐くし、失敗だってする。バカみたいなところでつまずいて転ぶこともあるんだって」
ぎゅっと手を握りしめる。そうだろうか、自分は知らず知らずの間にヘルトゥに理想ばかりを押しつけていたのだろうか。少年の言葉に、エレナの瞳が揺れる。
「ねえ、そんなに考え過ぎないで。別に母さんが悪いわけじゃあない。父さんのことだって別に許さなくたっていい。ただその気持ちは言わなくちゃ。逃げてばかりじゃ始まらないよ」
「でも、本当の気持ちを伝えて嫌われたくない。自分の中に、こんな汚い部分があるなんて知らなかったんだ……」
「母さん、それ、普通だから。綺麗なものだけしか持っていない人間がいたら、それはたぶんもう人間辞めてるから」
親子ごっことやらのせいで、少年にはつい何でも話してしまう。ゆっくりと凝り固まっていた心が解きほぐされていく。柔らかな部分を覆っていた薄氷が割れる音がする。溢れた透明な滴が頬を伝い、後から後からこぼれ落ちた。それでもエレナは言い募る。
「わたしは子どもを生んであげられなかったから。若くてきれいな女のひとに乗り換えられるのは、仕方のないことなのかもしれない」
「子どもがいるとか、いないとか、そういうのは関係ないんだってば。浮気するひとはするし、しないひとはしないんだよ」
「でも……」
「だいたい子どもは親の持ち物じゃない。夫婦の仲を取り持つために生まれるなんて、僕ならまっぴらごめんだね」
少年の言葉で心がささくれだつ。こんなことを考えるような人間だから、子どもは自分を母親に選んでくれなかったのか。下唇を噛んで、うつむく。恥ずかしくて、苦しくて、少年の顔がまともに見られない。
「……そう、だな」
「なんてね。子どもってさ、どんな親のことも愛してしまうしょうがない生き物だから。今の母さんを見て放って置くわけないだろう。さあ母さん、僕でよければ、馬鹿な父さんを一発殴りに行ってこようか?」
「……ふふっ、いや、ありがとう」
唐突に少年が抱きついてきた。子ども特有の体温の高さが、甘酸っぱい汗の匂いが何とも心地いい。こんな小さな手で守ってくれると言うのか。温かくて優しい、どこか夢のような柔らかさ。冗談とも本気とも知れない少年の言葉に、エレナの涙はいつの間にか引っ込んでしまった。串焼きはいつの間にかすっかり冷めてしまっていたけれど、胸の中はいつまでも暖かいままだった。




