(11)月白の教会
せっかく来たのだから、町の名所を巡ってみたい。そう頼んだエレナが少年に連れてこられたのは、月白に輝く海辺の教会。いつからあるのか誰も覚えていないほど、ずっと昔からこの場所に建っているらしい。
海を見下ろす切り立った崖の上の教会は、町を守るかのようにひっそり、けれど凛とそこにあった。
「この教会は煉瓦造りではないんだな」
教会の壁に手を当てながら、エレナが呟く。町の建物のほとんどが赤茶けた煉瓦である一方で、こちらは青みがかった白が特徴的な漆喰だ。濃い青の海との対比が美しい。
「町の建物が煉瓦造りなのは、単にそれが安くて丈夫だからだよ。教会はたぶん寄付とかがあったんじゃないかな。ずいぶん古いものだから、最近は修繕も大変みたいだね。ほら、端が傷んできている」
さらりと悪口になりかねないことを言ってのける少年になんと言うべきなのか、エレナは思わず眉間に皺を寄せた。
若さは怖いもの知らずだ。けれど、だからこそ子どもたちは世の中に羽ばたいていけるのかもしれない。昔よりもたくさんのことを学んだはずなのに、エレナは今の方が怖がりになってしまった気がした。
「ずいぶん静かだな」
「孤児院があるわけでもなし。平日の昼間にいい大人がうろうろしてる方がどうかと思うよ。真昼間にここに来るのは、訳ありの観光客くらいじゃないかな」
「訳あり?」
「普通の観光客はこんな崩れ落ちそうな古い教会より、海や煉瓦の町のほうに興味があるみたいだからね。そんなことより、お祈りするならさっさと済ませちゃいなよ。母さん」
まるで犬でも追い払うかのようにあしらわれて、首を傾げつつエレナは女神像の近くにひざまずく。『運命の女神よ――』、そう祈りの句を捧げようとして、エレナの思考は道に迷った。本来なら続く句は『我らを導きたまえ』。『我ら』の部分を、『私』や『死者の魂』など、その時々に合わせて変更するものだが、今は一体誰を導いてもらうべきか? 家族か、あるいは従業員たちか。それともいっそ、夫と愛人か。
「何か、お悩みごとですか」
祈るべきことが定まらずにしばらくうつむいていたせいだろうか、膝をついたままのエレナに、神父が声をかけた。
細身で穏やかな表情の神父は、聖職者ながら随分と日に焼けている。もしかしたら、自給自足のために海風にさらされながら畑を耕しているのかもしれない。ごつごつとしたてのひらを見て、誠実な生き方をしているひとだとエレナは感じた。
「勝手に入り込んで申し訳ありません。お邪魔でしたでしょうか」
「いえいえ、教会の扉はいつも開かれておりますから」
少年はといえば、教会にも神父にも興味がないらしい。なんともだらしのない格好で、長椅子に寝そべっていた。教会うんぬんの前に、目上の人間に対してどうかと思われるその態度。あまりの不敬っぷりに冷や汗を流しながら、エレナは頭を下げる。
「この町のかたではないですね。なぜ、この教会に? 観光であれば、海辺を見たほうが楽しいでしょうに」
「観光というか……いやそうなのか。偶然、滞在を決めたばかりで。せっかくなのであちこちまわってみようかと」
「なるほど、てっきり伝承が目当てかと……」
神父は何かに納得したようにうなずく。これは先ほど少年が話していた「訳ありの観光客」と繋がるのだろうか。思わずエレナは尋ねた。
「あの、伝承とは?」
「ああ、ご存知なかったのですね。このあたりには、ちょっとしたおとぎ話のようなものがありまして。ときどき熱心な方がお越しになるのですよ」
神父が少しだけ困ったような顔をした。女神さまの奇跡を目の当たりにさせるようなものであれば、むしろ大々的に宣伝させても良いはず。にもかかわらず、どうしてこんな腫れ物にさわるような扱いなのか。
「どんなものかお伺いしても?」
「……町のかたがおっしゃるには、亡くなった方が時折海を渡って戻ってくるそうなのです。教会の教えとは関係のない言い伝え、あくまでこの土地にひっそりと伝わる昔話のようなものです」
どこか遠い目をして、彼は答えた。死者に会える。天に召された魂がこの世に舞い戻ってくるという言い伝えは、祝日としてたしかにこの国に存在する。しかしそれは南瓜が旬の季節に限った話。
「それは、『死者の日』とは異なるのでしょうか?」
「『死者の日』は、限られた時期だけの風習です。けれど、この町の伝承は違うのです。時を問わず、必要とされた際に故人が現れて救いを授けてくれるのだとか」
「神父さまは、お会いになったことがあるのでしょうか」
エレナの問いに、神父は少しだけ恥ずかしそうに頬をかいた。
「いいえ、残念ながら……。想いが足りないのか、他の方のところに出ずっぱりなのか。いつかまたお会いできる日を心待ちにしているのですが」
言葉とは裏腹に、その顔は穏やかなままだ。それは待ち人とは恋しい相手ではなく、尊敬する相手だったのだと察することができるほど。
「大切な方だったのですね」
「ええ、とても優しい……優しすぎるような師でした」
師には第三の目がありましてね。そんな神父の冗談に、エレナはつい吹き出した。
「あなたには、会いたい方はいらっしゃいますか?」
「私ですか……?」
神父の問いかけに、エレナはもう一度目をつぶった。誰に会いたいのかなんて、エレナにはさっぱりわからない。エレナが結婚する前にすでに他界していた祖母か。最近亡くなった祖父か。無事に生んでやることのできなかった赤子か。それとも、生きていても気持ちがわからなくってしまった夫なのか。
「わかりません。誰かに会いたいような、誰にも会いたくないような。今はまだ、思い浮かべると心がざわつくひとがいて」
だから、ただ無心に祈る。心が凪いで、静かでいられるように。
「またお邪魔しても良いでしょうか」
「もちろん、構いません。先ほども申し上げました通り、教会は常に開かれておりますから。あなたの心に、女神様のお導きがありますように」
エレナが神父に一礼すれば、少年もまた昼寝が終わった猫のように伸びをした。
「気が済んだ? もう僕、お腹ぺこぺこだよ」
「ああ、待たせたな。それじゃあ食事にしようか。その顔は、どこかおすすめがあるのだろう?」
ぺろりと唇をなめて、少年が楽しそうに跳ねた。
「もちろん。母さんだって気に入るはずだよ」
「それは楽しみだ」
エレナは微笑む。この少年が案内してくれるなら、きっとそれだけで楽しいに違いないのだから。




