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(10)赤錆色の歌

 仕事場でもあるはずの賑やかな酒場。カウンターの隅で、ヘルトゥはひとり酒をなめるようにして呑んでいた。本来ならば今夜の歌い手として歌を披露しているはずが、女主人にあっさりとステージからつまみ出されたのだ。琥珀色のウィスキーの中で、氷がじんわりと溶けて丸くなる。


「まったく、ひどいもんだ。そんな心のこもってない歌、アタシの店にはいらない。しばらくステージに立つのは禁止だよ」


 言い方はきついが、歌仲間でもある彼女はとても心根の優しいひとだ。ぼろ雑巾のようなヘルトゥを見ていられなかったのだろう。確かに今の自分の歌は、ろくに聞けたものではないことはよくわかっていた。風に乗り高らかと響き渡るはずの自慢の歌は、沈み、ひび割れ、粉々に砕け散ったままだ。


 エレナのいないこの場所は、寂し過ぎて目眩がする。草木もない、荒れ果てた世界。救えなかった故郷と同じく、延々とただ瓦礫の山が続いてゆく。唇を噛み締めれば、微かに鉄錆の味がした。どうしてこんなことになってしまったのだろう。あの時確かに自分は、暗闇に差し込んだ一筋の光を手に入れたと思っていたのに。


「追いかけないのか」


 ヘルトゥの横に、男が訳知り顔で腰かけた。エレナと共通の友人でもあるエステバンだ。手元にあるのはヘルトゥと同じく、琥珀色を湛えたグラス。どうやら、付き合ってくれるつもりらしい。悪人顔をますます性悪そうに歪めつつ、彼はヘルトゥに苦言を呈する。形を変えた氷が音を立てて揺れた。


「エレナがこの街を出て行く前、偶然ここで一緒に飲んだんだ。はっきりと彼女は言わなかったが、……つまり、そういうことなんだろう? 一体どうしてそんな馬鹿なことをしたんだ。まったく、らしくない」

「……思い出が欲しいと言われたんだ。例え、政略結婚でも、初恋の思い出があれば生きていけるからと」


 ヘルトゥが目を細めた。エレナのことを大切に想っていなかったわけではないのだ。ただ昔から可愛がってきた友人の娘に泣きつかれて、突き放すことができなかった。

 遠くへ嫁ぐ娘に、一晩だけであれば。

 一度きりならば、誰も傷つけることなく、思い出を与えるくらいのことは可能だと驕っていた。


「大事なひと全員を傷つけないだなんて、どだい無理な話だ。嫌でも優先順位をつけるしかない。あれもこれも守ろうだなんて、欲張りのすること。そんなやり方をしていたら、店だって簡単に傾く」

「だから何も持たないと決めていたはずなんだがな」

「しかし、持ってしまったんだろう?」


 商売人らしい捉え方だが正論だ。ヘルトゥはお手上げだと両手を上に上げてみせた。そのままふたり一緒に同じ色の酒をあおる。


「お前にとって一番大切なものはなんだ。何を守りたいと思っているんだ」


 友人の言葉がヘルトゥをえぐる。そんなもの、最初からわかりきっていた。


「失いたくないんだろう? だったらなりふり構わず追いすがれ。みっともないなんて思わずに、言い訳でもして、地面に這いつくばってみたらどうだ」

「みっともないとは思わないが……」


 ヘルトゥの喉につかえたような物言いに、エステバンは訝しげに眉根を寄せる。


「一体何を躊躇している?」

「私が縋ることで、エレナを余計に不幸にするのではないかと……彼女をこのまま、解放してやるべきなのかもしれない」

「十年以上も共に過ごして、まだそんなことを言うのか? 彼女が不幸? 冗談もたいがいにしろ。友人として言うが、結婚してからの彼女は、それまでの何十倍も輝いて見えたがな。まるで光のようだったぞ」


 あっけらかんとエステバンは言ってみせる。

 光。それは、ヘルトゥがずっと追い求めてきたもの。一度はあきらめて、やっと手に入れて。

 ふと顔をあげると、エステバンは意味ありげに白い歯を見せた。それはどこか、してやったりと喜んでいるようだ。いつも飄々としているヘルトゥにアドバイスをする機会など、滅多にないからかもしれない。


 自分は呪われているからと。闇にとりつかれているからと。そうして他人と深く関わることを恐れていた過去を、照らしてくれたのは誰だったか。『何もしない』という愚かな選択を、また繰り返すところだった。


「彼女は……許してくれるだろうか」

「最初から許されたいと思っているようでは、無理だろう。それはあまりにも傲慢だ。一生許されなくてもいい、それでも彼女の隣にいたいという気持ちでなければ」

「そう……だね」

 眼前を覆うこの暗闇を取り払うには、強い光が必要だ。近くに、そばに。手を伸ばさずとも触れられる、隣の位置に。


 エステバンはさもおかしそうに頷いてみせた。


「まったくもって面白い。普段は腹が立つほどよく回るその口が、今回に限ってまったく動かないとは」


 ヘルトゥはそんなどことなく失礼な友人の評価に、そっと肩をすくめる。覚悟が決まったからだろうか、頭が急にすっきりと冴えたような心持ちになる。あるいはそう思っているだけで、自分はすでにしたたかに酔っているのだろうか。先ほどまで水のように味気なかった酒も、今は甘露のごとく染み渡る。


「彼女がいないと、私はまた闇に飲まれてしまう。光を探しに出かけるよ」

「キザな言い回しが戻ってきたな。持って行け。これで借りは返したからな」


 エステバンがヘルトゥに手渡したのは、一枚の絵葉書。海の青は空に突き抜けるほどに青い。特徴的な煉瓦の町並みは、素朴ながらとても美しく、印象的。その海と町を見下ろすようにたたずむのは白い教会だ。それは、エレナがイザベルへ宛てたものだった。


 消印を見れば、意外にも同じ国内のものだ。この絵葉書に描かれた町にエレナはいるのだろうか。


 どうせ追いかけてこないと思われていたのか。あるいは、追いかけてきてほしいと心のどこかで思っていてくれたのか。絵葉書を握りしめ、ヘルトゥは旅立ちを決意する。酒場には、女主人のはつらつとした歌声が響いていた。

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