夕陽を背にして
いつもの土手を歩いていた。俺達の足取りは重い。
背後の夕陽が長い影を作り、俺達は自分のそれを踏むようにして歩いた。足裏に感じる粘り気のようなものは、きっと気のせいだろう。
「君、これ読むかい」
そう言って早稲田が差し出したのは『一生困らない金の稼ぎ方』という題の本だった。
ーーあの後、謎の電話男を捕まえることの出来なかった俺が部屋に戻ると、そこには顎に手を添えて思案に耽る早稲田が居た。少し話して荷物をまとめ、注射器を元あった場所に戻し、例の電話と告発宣言の入った箱を持って帰ることでまとまったところに大家がやって来た。
「本は見つかったかい?」
「あー……」。完全にその事を忘れていた早稲田は珍しく狼狽えた。あの出来事があった後で、田中ユウスケ君に変化するのもスムーズではなかった。俺は近くの本棚からテキトウに本を引き抜くと、後ろで手を組んでいた早稲田の手に握らせた。
「はい。ありました。この……『一生困らない金の稼ぎ方』です。俗っぽいタイトルの本ですが、見た目で判断してしまってはいけません。内容は濃密で、お金の稼ぎ方を通して『生きるとはどういうことなのか』を教えてくれる名著でした。感動して読み込んでしまって下に降りるのが遅れてしまいました。申し訳ありません」
「はぁ」。大家は本をジロジロ見て、次に俺を見た。
「ところで……彼は?」
「はい。彼は母方の従兄弟の三谷……ヨシユキ君です。彼も湯川……叔父さんとは面識があって。近くに住んでいるのでついて来てもらったんです」
「ど、どうも」
振られて俺は動揺した。自己紹介でもした方がいいのか……?
「三谷……ヨシ」
「ヨシユキ君。用事は済んだからお暇しよう。随分長居してしまいました。叔父さんのことはもちろん、親切な大家さんのことも忘れません。ありがとうございました」
ーーカンカンカンカン
俺達は急ぎ足で階段を駆け下り、改めて振り返って丁寧にお辞儀をした。大家はにこやかに手を振って、俺達を見送る。
そこからは二人並んでーー言葉も少なく歩いて帰ってきたのだ。
「読まねぇ」。俺は早稲田の軽口に冗談を交えて返すことも出来なかった。
「どうすんだ、これから」
「わからない。君はどうしたい?」
「どうしたい、って……」
俺は電話口から聞こえてきた気持ちの悪い声を思い出していた。
「電話をかけてきやがったアイツは、ヤバイヤツだってことはわかってる。だってあの家にすでにあの携帯があったってことは……湯川とも話してたんじゃないか?」
「それは僕も考えていた。あの紙に書かれていなかったとしても、やはり湯川は脅迫されていたのかもしれない。そして、僕達があの部屋に辿り着く事も予想していた」
「どちらにせよ、やっぱりアイツは異常者だぜ」
俺は横目に川の向こうを見た。ビルやマンションが立ち並び、視界の左端には線路の行き着く先、駅周辺が見える。そこにはひときわ大きなビル群が立ち並び、そこにたくさんの人達がいて、その中に、今日話をしたような異常者が紛れ込んでいるイメージが浮かぶ。
「関わらないのが良い」
早稲田が言った。
「僕達が何もしなければ、向こうからも何もしてこないだろう」
「どうしてそんなことが言える?」
「異常者のようではあったが行動の根底には奴なりの正義感があるんだろう。僕達が奴にとっての悪的行動を取らなければ、向こうから攻撃を仕掛けてくるようなことは無い。……と思う」
早稲田にしては自信が無さそうだ。まぁ、なんせ向こうは俺達の事をどこまでかは知らないが情報を掴んでいて、俺達は奴が何者なのかも知らない。
「でも……奴を野放しにしててもいいのか」
俺は思ったことをそのまま口にした。
「ヤツの歪んだ正義感が人を傷付けるかも知れない。だって俺達はヤツがどこまでするか、知らないんだ」
「他の人達からしたら僕達だってヤバい事をしている、そうは思わないかい?」
……言葉が出ない。
「自分たちの事を棚に上げず、客観的に見るんだ。根底には正義心があり、信条に従って動いてる。本来やっちゃいけない事もしてる。それでも許せない罪がある。だから行動する。奴とどこが違う?」
「……ヤツは一人だ、って。そう言ってたんだろ」
「そうだね。奴は一人。守るべき者がいないから強い。……でも、止めてくれる人もいない」
「じゃあやっぱり危険なんじゃないか?」
「じゃあどうしろ、っていうんだ。奴を捕まえて説教でもしたいのか? 君は」
「そうじゃない! そうじゃないけど……」
俺は早稲田の方をしっかり見た。
「弱みを握られた結果湯川は死んだんだ! 人が一人死んでる! そんな事無視できないだろ!」
「状況的にあの電話男が湯川を殺したとは思えない。湯川は自分の手で薬物を過剰摂取して死んだんだ。なら自殺だ。あの電話男が殺したんじゃない」
「またこのやりとりか! ……弱みを握られる。公表される。断罪される。社会的地位を失う。交友関係が壊れる! それだけ追い込まれたら自殺だってあり得るんじゃないか? 電話のヤツの断罪が湯川一件で終わるか? 続いたらどうなる? また人が死んだら……」
「だとしたってあの電話男は殺してない! 最初に悪事をした奴が悪い! そうだろう?」
「人にはバラされたくない秘密の一つや二つ、あるだろう!」
「僕には無い」。早稲田は平然と言ってのけ、歩き続けた。俺は歩みを止め、早稲田の背中を見る。
「みんながみんな! お前みたいに信念を持って、孤立したって平気で、強いんじゃない!」
早稲田は振り返った。
「空気を読んで……その結果周りに合わせて……それで悪い事に手を染めたってヤツも、居るんじゃないか?」
「だとしたらその弱い奴が悪い」
早稲田は低い声で言った。
「自分の正しいと思うことを曲げて悪い事に手を染める奴は弱い奴だ」
「騙されて悪気も無く悪い事をしてしまうヤツだっているだろう。騙されるヤツが悪い、っていうのか? 騙す奴が絶対悪いだろ!」
俺は早稲田に近付きながら言った。
「ヤツにその判断がつくならいい。でもやっぱり一人だから危ない。これが正義だ、って信じこんで行動するヤツほど、本当に危険なんじゃないか?」
早稲田は黙った。黙ってしばらく、俺の目を見つめていた。
「僕にどうしてほしいんだ」。早稲田は少し弱った風に言った。そう言われてしまうと、俺もうまく返せなかった。
俺は参ったように下を見た。そして、早稲田と並んで歩いた。
どうしたらいいのかわからない。どうなるのかわからない。結局湯川の一件のあらましを突き止めても、気分も晴れないまま、熱い夕陽を背にし、冷たい風を浴びながら俺達は、とぼとぼ帰るしかなかった。




