3話
早朝の空気はまだ冷たく、いつも喧騒につつまれたギルドも今は静かだ。
アルトはギルドが開くのを待っていた。昨夜からほとんど眠らずに考えていた。カイムの「真ん中」という言葉が頭を離れなかった。
鍵の開く音がして、アルトは顔を上げる。
セシルが顔を出し、アルトの姿を見てわずかに目を見開いた。
「……おはようございます。早いですね」
「早く強くならないと、いけないから」
アルトは短く答えた。
セシルは小さく息を吐き、扉を大きく開いて中へ招き入れた。
「どうぞお入りください。ただ、カイムさんが来るかどうかは……私にもわかりませんが」
アルトは礼をして中に入った。広いホールはまだ静かで、昨夜の残り香のような空気が残っている。
アルトは中央近くに場所を取り、自然体で立ち始めた。足を肩幅に開き、膝をわずかに緩め、腰のあたりに意識を集める。昨日教えられた「真ん中」を、一人で探り続ける。
少しして扉が再び開き、バルトルドが入ってくる。
セシルがカウンター越しに声をかけた。
「バルトルドさん、いつもより早いですね」
「まあな……」
バルトルドはそれだけ答えて、いつもの場所に腰を降ろし、アルトの方を一瞥して腕を組む。そんなバルトルドにセシルは苦笑を溢して業務に戻る。
「……坊主、早いな」
「さっきも言われたけど、強くならないといけないから」
「そうか……」
セシルも同じことを言っていたかと、バルトルドはバツが悪そうに顔を顰める。
セシルが依頼を張り出すのを、アルトは眺めていた。
時間が経つにつれ、依頼を受けに来た冒険者で賑わい始めても、カイムの姿はなかった。
アルトは立ち続けた。重心が崩れるたびに自分で修正し、また真ん中を探る。今まで使っていなかった筋肉が震える。ただ立つというだけでも、意識するだけでこんなにも違うと、アルトは気づいた。
バルトルドも、昨日とは全く違うアルトの姿勢に感心していた。あのボンクラがいい指導をしたという事実が、いまだに飲み込めないでいる。
「昨日よりもだいぶ姿勢が良くなった。自分でも意識しているんだろう?」
動機はどうであれ、真剣に向き合う人間を無碍にはできなかった。
「……真ん中を意識したら、何か変わった気がするんだ。何がどう、はまだわからないんだけど」
アルトの額に薄い汗が浮いていた。
バルトルドはその言葉を聞いて、内心で驚く。
(たったあれだけで重心の重要性に気づくとは……。トウヘンボクはそれに気づいて……いや、それはないはずだ)
やがて冒険者たちが依頼に出かけ、ギルドの騒がしさも落ち着きを見せ始めるころには、既に昼どきを過ぎていた。
だというのに、カイムは来なかった。
バルトルドが舌打ちをした。
「……遅いな。本当に来る気があるのか、あいつは」
セシルは帳簿のページをめくりながら、静かに言った。
「……カイムさんは、本当にどうしたものかと思います」
それ以上は何も言わず、仕事に戻った。
アルトは二人の会話を聞きながら、立ち続けていた。怒りがなかったわけではない。ただ、怒りよりも先に、昨日感じた「真ん中」の感覚が体に残っていた。それを失いたくなかった。
午後もだいぶ過ぎた頃、奥の扉が開いた。
カイムが入ってきた。欠伸を噛み殺しながら髪を適当にかき上げている。目はまだ半分しか開いていない。杖を片手に持ち、ゆっくりとホールへ歩いてきた。
「おお、今日もおいでなすったんだな。こりゃ真面目なこって」
その一言で、空気が変わった。
バルトルドが先に動いた。大股で近づき、カイムの正面に立った。
「お前、何を考えている」
「おいおい旦那、いきなりどうしたんで?」
「昨日は少しは見直したんだがな! それを、お前! こんな時間まで何してやがったんだ!」
カイムは欠伸の続きを噛み殺し、杖でトントンと地面を叩く。
「まあ、そんなカッカしないでくださいな。なに問題でもあるで?」
「問題あるはおおありだろうが!」
セシルもカウンターから顔を上げた。声は静かだが、非難の響きを孕んでいる。
「カイムさん。引き受けたからには、責任を持っていただけないでしょうか。アルトさんは朝からずっと待っていましたよ」
カイムはセシルの方を見て、軽く肩をすくめた。
「……へえ、根性はあるってこった」
アルトが前に出て頭を下げた。拳は強く握られて震えていた。
「……さっさと教えてくれ」
カイムがアルトを見る。
「そりゃ明日来いって言ったからには教えるぜ。なんだ、おせえって怒ってんのか?」
「怒ってるよ。だけど、教えてほしいんだ。昨日の続きを」
カイムはしばらくアルトの顔を見てから、小さく息を吐いた。
「んじゃあ、まあ教えてやるとしましょうかね」
バルトルドが何か言いかけたが、カイムはもうアルトの方へ向き直っていた。
「裏に行くぜ」
「じゃあ、始めるとするか」
「うん」
アルトはすぐに自然体を取った。足の裏から腰、背骨のラインまで、真ん中を探るように意識を通す。カイムはそれを見て、杖の先で床を軽く叩いた。
「それで、何か分かったかい?」
アルトは少し考えてから答えた。
「……良い姿勢が強いってのはなんとなくわかった。騎士の人ってみんな姿勢が良くて、フラフラしてないんだ」
カイムはゆっくりとアルトに近づき、正面に立った。
「へえ……観察眼もある、考える頭もある。……いいねえ、あんた。やっぱ才能あるよ」
そう言って、カイムは足元の小石をいくつか拾い上げた。掌でころころ転がしながら、あくびをする。
「んじゃ、ちょっとした遊びでもするか」
「……遊び?」
「そりゃ、ガキと何すんだってんなら遊びだろうがよ」
カイムはそう言って、いきなり石を投げた。
アルトは反射的に腕を出して払う。石は腕を打って落ちた。
「無駄に力んでんなあ」
「……」
「よく見ろって。相手が何しようとしてんのかなんて、みりゃわかんだろ。それを邪魔したり、崩せば疲れねえんだぜ?」
カイムは連続で石を投げてきた。
一発目をなんとかかわしたと思った直後、二発目が迫る。当たった場所がジンジンと熱を持つ。
「おめえはガキだ。体も小せえし経験もねえ。オレみたいなのに教えてもらうド底辺だぜ。へへっ……このままじゃ、敵討ちなんざ夢のまた夢ってなもんだ」
「うるさい……!」
アルトは歯を食いしばって姿勢を立て直す。真ん中を意識し直しながら、カイムの手を見た。
石が飛んでくる。今度はその軌道を目で追った。腕の振り、指の動き。石が手を離れる瞬間。アルトは半歩だけ横にずれた。石は空を切った。
それからも何度も何度も石の痛みを味わった。
避けて、当たって、避けて、当たって、避けて、避けて、避けて、当たって。
見えたり見えなかったり。
いつのまにか、日も沈むような時間になっていた。
アルトは疲労と痛みで横になる。石が当たったところは痣になっている。
カイムは残りの石を放り投げて、杖を拾い上げた。
「はあ、もう腕が疲れたわ。遊びに夢中のガキに付き合うのはラクじゃねえ」
アルトは横になったまま、カイムを見た。
こいつは適当だ。嫌なやつだし、指導も適当、仕事をちゃんとしてるかもわからないし、口も悪い。
でも言っていることは、アルトの中の何かを変えた。
剣を教えるといって、まだ教えてくれてないけれども。
「……明日もお願い」
アルトは短く言った。
カイムは欠伸をしながら手を振った。
「最初はこんな面倒だとは思わなかったんだがねえ。まあ一度引き受けたからには仕方ねえなあ」
ムカつくし、変な人だと思う……けど。
アルトは心の中で「師匠」に頭を下げた。




