第一章:日出ずる国へ
かつて一つの帝国を統べたガランだったが、今や人の多い部屋にいるだけで息が詰まった。
望むと望まざるとにかかわらず、他者の思考は入り込んでくる。細く絶え間ない糸となって精神をかすめ、やがて絡み合って窒息するような重圧へと変わるのだ。その声から逃れるため、そして声が引きずり出す過去の記憶から逃げ切るために、彼は世界の半分を越えてきた。
だが、無駄だった。
客船の船体を焼く真昼の熱気はひどく鬱陶しかったが、それでもラウンジから響く陽気な歌声をかき消すには至らない。ガランは黙って座り、群衆を観察していた。そこにあるのは、彼らの人生という物語の結末を、すでに何千回も見届けてきた者特有の冷徹さだ。身にまとっているのは、簡素な茶色のチュニックとズボン――古代ローマを思わせる、飾り気のない装いである。
ここへ来た目的は、幻影の戦士たち(スペクトラル・ウォリアーズ)を調査することだ。――単に逃げているだけではないと、もっともらしい理由が必要な時には、そう自分に言い聞かせている。
『乗客の皆様へお知らせいたします』スピーカーから神語で女性のアナウンスが流れた。『当船は間もなく、対馬の中央島、サマービーチ港に到着いたします』
そのアナウンスは日本語、次いで中国語で繰り返され、最後に彼の故郷の言葉である、流れるようなラテン語で告げられた。
ガランは立ち上がり、息苦しいラウンジを抜けて右舷の甲板へと出た。潮風は鋭く、太陽はどこか懐かしい、じりじりとした熱を容赦なく照りつけている。手すりに寄りかかり、どうしても捨てきれない悪癖のままに、己の念波を周囲へ波紋のように広げた。
手すりの近くには、三人の天の使いたちが立っていた。落ち着きのない二人の若い天使と、明らかに忍耐の限界を迎えている大天使だ。
「大天使様、ここでも偉人たちの劇をやってるかな?」 少年天使が尋ねる。若さゆえの抑えきれない興奮で、その翼は小刻みに震えていた。
ガランの口元に浮かんでいた笑みが消える。
少年の無邪気なエネルギーが、不意に、そして残酷なまでに孫たちの姿と重なったのだ。帝国の庭園で足にしがみついてきた小さな手。ローマに背を向けた時に置き去りにしてきた、あの甲高い笑い声。
彼は念波を断ち切った。
甲板を少し進んだ先では、お揃いの紫のジャケットを着た二人の男が手すりにもたれていた。その会話は温かく、ごくありふれたものだ。ガランが彼らに念波を向けると、その言葉はすでに翻訳された状態で脳裏に届いた。ノイズがなく、ダイレクトで、どこか無機質な思考の波として。
「あー、疲れたな」 「俺も。帰ったら早く熱い汁そばでも食いたいよ」 「うちの母さんの店に行かないか? ついでに桜も見れるし」
「行きたいのは山々だけど、チユをどこに連れて行くか、まだ決めてなくてさ……」
これ以上、盗み聞きするつもりはなかった。
だが――
「あいつの好きな、うな重の弁当でも買って帰るかな」
その一言が、精巧に秩序立てられていたガランの精神に、鋭いガラスの破片のように突き刺さった。
愛する者のために、好物を買って帰る。
甲板の景色が消失した。
気づけば、彼は記憶の中に引き戻されていた。パルドリで過ごした青年時代の、あの干しプラムの鋭い酸味が舌の上で弾ける。最初の妻の笑い声が響き渡る。耳元で叫ぶ亡霊のように、あまりにも大きく、あまりにも近くで。
ガランは頭に鈍痛が走るほど強く意識を振り絞り、力ずくでその幻影から己を引き剥がした。
手すりを握る手に力がこもり、木が軋む音を立てる。肺を満たす潮風が、まるで鉄のように重く冷たく感じられた。
見知らぬ他人の会話を聞いただけで、心から血を流すというのか。
手すりから体を離し、逃げるように後退する。階段を下り、フードコートを足早に通り過ぎた。焼けた肉と味噌汁の匂いすら、今の彼にはひどく吐き気を催すものに感じられた。自分の船室にたどり着くと、ドアの取っ手を握り、魂の痕跡が認証されるのを待つ。重いクリック音とともに、鍵が解除された。
室内では、丸窓から差し込む陽光が空中に舞う埃を照らし出していた。机の前に座り、散らばった地図やパンフレットに視線を落とす。
「中へ入れ。人と話せ。忙しくしろ。考えすぎるな」 彼はそうつぶやきながら、散らかった品々を己の《神の宝物庫》へと放り込んだ。
そんなものが気休めに過ぎないことは分かっていた。この世界が、そう簡単に物事を終わらせてくれないことも。
「願わくば」静まり返った船室に、うつろな声が落ちる。「今度こそうまくいってくれ」
エンジンの低い唸りが途絶え、停泊した船特有の突然の静寂が訪れた。
『乗客の皆様、当船は無事に着岸いたしました。これより下船を開始いたします』
ガランは深呼吸をして心を落ち着かせた。かつての『皇帝』としての自分と、妻を失った『男』としての自分を精神の奥底へと無理やり押さえ込み、下船の列に加わるために立ち上がる。
「……これでいい」




